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『孤島のキルケ』(20)

「私は彼らの言葉が分からないのです。旦那さまが羨ましい」
 きるけえはふらんそわを強く抱きしめ、その優し気な目を見つめた。
「私は仙女や八百比丘尼やおびくにの精気の一部を頂いておりますので、実はよわい八百歳を超えております。若き頃に烏天狗からすてんぐに弟子入りし諸行しょぎょうを伝授されましたから、必ずやあなた方の助けになれましょう」
 紋次郎の言葉にきるけえは大きく安堵あんどのため息を吐いた。

「それは有難い事です。私の力はイシュタルの呪いによってもたらされたようなのですが、解き方が分からなくて」
 紋次郎もんじろうはきるけえの言葉に嘘がないか吟味しているようだった。
「イシュタルは相当霊力の強い高位の神格のようですが、あなたは何故呪いを掛けられてしまったのですか。その原因が分かれば一番話が早い」
「その事すら忘れてしまったのです。気が付いた時には私は記憶のほとんどない状態である小島におりました。ここではない、ずいぶん西の地域であったと記憶しております」
 きるけえは深いため息をついた。

 しばらくうつむいた後、きるけえが口を開いた。
「化け物狩りを依頼されたとお聞きしましたが、わたくしの事は街の人々にはどのように伝わっておりますでしょうか」
「お気を悪くなさらないでください」
 それだけ言うと、紋次郎もんじろうはしばし言葉を選ぶように天井を見上げた。

「人食いだの人さらいだの、男を誘惑し獣に変えて市場で売りさばいているなどと言っては恐れています。『きるけえが来るぞ』と言えばどんな悪ガキでも黙って親の言うことを聞くぐらいに、あなたの悪名は人々にとどろいております」
 そうですか、ときるけえは無表情で答えた。
「それから、タコつぼ渦もあなたが男たちを捕えるための罠だから絶対に近寄ってはならないとも」
 確かに私も全く同じ事を、ウツボ海の漁師たちからさんざん聞いていた。

「醜い女だとか愚かだとか言われていませんか」
「何とまあ妙な事を仰る。男を誘惑できる女が醜い訳も愚かな訳もないでしょう」
 きるけえの問いに、紋次郎もんじろうは声を立てて笑った。
「貴女は絶世の美女であり賢い女性だ。出来る事なら私は貴女をここから連れ出し、昼夜も開けずにむつみ合いたいぐらいです」
「わたくしを生け捕りにするつもりでは無かったのですか。いえむしろ旦那さまにでしたら生け捕ってもらって、そばに置いていただきたいぐらいです」
 きるけえは両の腿をもどかし気に交差させながら、紋次郎もんじろうを見上げた。

「そうしたいのは山々ですが、貴女にかけられた呪いは相当強い。古今東西の術を学び仙女や八百比丘尼やおびくにの精気を頂いた私ですら、母子南島はこなじま産のヨモギが無ければ呪いの力に屈していたでしょう。今の状態で貴女を市中しちゅうにお連れするには、呪いの力がまだ強すぎる」
 きるけえは出されたヨモギ茶を飲み干した。

「私がヨモギをり続けてイシュタルに掛けられた呪いの力が衰えれば、ここにいる者たちはどうなってしまうのでしょう」
 きるけえは、傍らに侍るふらんそわに目を落とした。
「獣人ならば愛玩動物あいがんどうぶつとして街で生きる術もあるでしょうが、半獣人はそれこそ化け物として恐れられるばかりでしょう」
 紋次郎もんじろうは大きくうなずいた。

「獣人を人に戻す材料を手配出来れば、獣人と半獣人は少なくとも人型には戻れますでしょう。さすれば彼らに仕事を与えるぐらいの協力はいたします」
「大変に心強いお言葉ですが、その材料はほぼ幻と言ってよいほど手に入りにくいものです。しかもその場所は、今の私には全く分からないのです」
 きるけえの言葉を受けて、紋次郎もんじろうはやや首を前方に傾けた。
 紋次郎もんじろうの口から、海豚いるかの顔をした男が唱えていたような言葉が延々とあふれ出た。

 しばらくして、紋次郎もんじろうは顔を上げた。
「貴方がかつて住んでいた島はアイアイエー島と呼ばれていました。その島の南西の崖下がけしたに九月に咲く、星形の花を咲かせるニラ科の一年草が必要なのですね」
「アイアイエー島」
 きるけえはその単語をかみしめる様に何度もつぶやいた。

「私はかつてそこで一年もの間貴女の世話になったのです。あの時も私は大勢の部下を連れてアイアイエー島を訪ねた」
 紋次郎もんじろうは、きるけえの手を優しくとった。
「余りに長い時間が経ったのでお忘れかもしれませんが、私はかつての名をオデュッセウスと申します。イタケの王位にありながら長き放浪の旅を続けている最中、貴女の世話になったのです」
「私は、この島に来る時に大切な思い出を全部置いてきてしまったのでしょう」
 悲しげに目を伏せたきるけえを、紋次郎もんじろうは優し気なまなざしで見つめた。

「貴女はかつてアイアイエー島に住む魔女キルケとして恐れられていました。貴女の父君は太陽神ヘリオス、母君も神の一柱でした。貴女は魔女とは呼ばれていたものの、本来はれっきとした神族の一員であったのです」
「私が、神……」
 きるけえは自分の父母など、いたかどうかも覚えていないと言っていた。
 きるけえは自分の事を、醜く愚かだと思い込んでいた。
 そんな自分にも父母がおり、しかも自分が神の血を引く者であったと知らされたのがいたく衝撃的だったようだ。
 きるけえは放心状態のまま虚空を見つめていた。

「あなたがオデュッセウスなら、あの大男は一体何者なのですか」
 放心したきるけえの代わりに、ふらんそわが口をはさんだ。
 ふむ、と首を前傾させかけた紋次郎もんじろうに向かって、私は自分が聞いたままを伝えた。
「いしゅたるはえんきどぅと呼んでたな。貴殿の事をぎるがめしゅと呼んでいたし、『三度我に恥を掻かせるとは許さんぞ』と言っていた」
「そうか、ギルガメシュか……。見えてきたぞ。貴方の名前は二瓶にへいさんでよろしいかな」
「それは確かに私が人間の時の名前ですな」
 紋次郎もんじろうは私を手招きした。

二瓶にへいさん、あなたはイシュタルと会話をしたのか。したならば覚えている事を全て思い出してくれ。特になぜ呪いをかけたのかを聞かされてはいないか」
 きるけえは獣になった私たちと会話が出来ない。
 ふらんそわを側に置き、祈るようなまなざしで私と紋次郎もんじろうを見つめていた。

「貴方がぎるがめしゅとしての生を終えた後、いしゅたるがある神託をきるけえに授けたのですが」
 紋次郎もんじろうは鷹のような目つきでじっと私を見つめた。
「その神託のせいであわや国が内戦状態になりかけたのです。事態を収める為に、きるけえが敵国と通牒つうちょうして偽の神託を出したとして処刑される事に」
 ふらんそわが大きく目を見開いて私を見つめた。
 きるけえは訳も分からぬまま、ふらんそわの首にしがみついていた。

「その処刑の際に呪いを掛けられたと言う訳か」
 身を乗り出して畳みかける紋次郎もんじろうに答えようとした瞬間、私の体に異変が起こった。
 頭の付け根部分に衝撃が走り、私は耳障りな高い鳴き声を続けざまに上げた。
「どうされました、二瓶にへい様!」
 ふらんそわの呼びかけにも、体が応じない。

「久しいのう、ギルガメッシュ。久しいのう、イタケの王オデュッセウス。三たび我をはずかしめに来たか。そうはさせぬぞ」
 私はいしゅたるに取り憑かれたように話し始めた。
 いしゅたるは母子南島はこなじまのヨモギのせいで肉化できない自身の依り代として、私を使うつもりだ。
二瓶にへい様、お気を確かに!」
 ふらんそわが立て続けに吠えるも、私の体は一向に言う事を聞いてくれなかった。

「失せろ!」
 私は紋次郎もんじろうの首と後頭部の境目目掛けて、七人の男を仕留めたくちばしを突き出した。
「取りつかれたか」
 紋次郎もんじろうは至って平静なまま、私に冷めたヨモギの茶をぶちまけた。
 頭からヨモギの茶まみれになった私は、ふるふると体を震わせて水しぶきを飛び散らかすと、ぐったりと横になった。
「しっかりしてください」
 ふらんそわが前足で私の体を揺り起こそうとするが、反応する気力も起きない。
「そっとしておいてやってくれ」
 紋次郎もんじろうはううむとうなった。

「何てことを!」
 ふらんそわの首にすがっていたはずのきるけえは、急に叫ぶと廊下へと走り出した。
「どうなさいました」
 追いすがる紋次郎もんじろうにきるけえが叫んだ。
「あなたの部下達が私の牛を勝手に焼いて食べています。家畜も獣化した牛も一緒くたに斧で首を落として。許さない。同じ目に合わせてやる」
「お待ちなさい」
 紋次郎もんじろうはきるけえの腕をつかんで止めようとしたが、きるけえはその腕をひねり上げて片手で食堂の床に叩きつけた。
「イシュタルの仕業だな」
 母子南島はこなじまの干しヨモギを懐にしまうと、紋次郎もんじろうは綺堂が乗っていた小船よりも速く走り去るきるけえを追った。

 いしゅたるに取りつかれたきるけえを追って、正気を取り戻した私は甲板へ飛んだ。
 甲板も遠くに見える海岸も静まりかえっていて、肉を焼いた気配もなかった。
「神鷹、ウミヘビを捉え我が元へ来たれ!」
 きるけえは誰もいない甲板で月に向かって手を高く差し出した。
 その様を紋次郎もんじろうがきるけえの死角からじっと見ていた。

 きるけえの声に応えて月の光から現れて夜の海に急降下した鷹は、ウミヘビを咥えて甲板に立つきるけえに差し出した。
!」
 紋次郎もんじろうが目にもとまらぬ速さで印を組みながら叫ぶと、ウミヘビがきるけえの手から滑り落ちた。
 ウミヘビの元へ走り出た紋次郎もんじろうはその首を短刀で刺し貫くと、背から二つに裂いた。

「許さぬ、許さぬぞギルガメシュ。主は天の牡牛に引き続き天の蛇をも殺したか!」
 いしゅたるの言葉が野太い男の声となって甲板かんぱん中に響いた。
「良いかギルガメシュ。お前は天の牡牛を殺した代償で永遠の命を渇望しながら死んだ。そして憎まれ者のオデュッセウスとして再び生を受け、長き苦難の旅路の途中でキルケに産ませた子供に殺される運命となったのよ。その苦しい生涯を経てもなお、天の牡牛を殺した罪は償い切れておらぬと言うに」
 いしゅたるに取りつかれていたはずのきるけえは、全身の力が抜けたようにくずおれていた。

「お前は今また小出紋次郎おいでもんじろうとして、天の蛇を殺すという大罪を犯した。お前は更に重い罪を背負う事となったのだ」
 きるけえの代わりに、いしゅたるは綺堂きどうを依り代に選んだらしい。 
 きるけえは蒼白になりながら、綺堂が発するいしゅたるの言葉を聞いていた。
 ふらんそわはぺたりと甲板に座り込むきるけえを包み込むように側にいる。

「ようやくあんたの事を思い出したよ。あんた俺のことがまだ忘れられないのか。好きで好きでたまらずに、今度こそ俺に振り向いて欲しくてこんなバカな真似をしているんだろう。いやあ五千年を超える片思いってのは辛いねえ」
 紋次郎もんじろうはせせら笑うように叫んだ。
「悪いがね、俺はあんたのような女は好みじゃないんだ。五千年以上前に言っただろう」
 いしゅたるの依り代となった綺堂きどうは、微動だにせず紋次郎を見据えていた。

「あんたは確かに見てくれは奇麗かもしれないが、男を欲して飽きれば獣にしたり、拒めば気まぐれに逆剥ぎにしたり獣に食わせたり。この五千年間のたった一度でも男にあんたの真心の一つでも差し出したのかね。いや、無理だろうな」
 紋次郎もんじろうは一段と声を張り上げた。
「あんたは何一つ変わっちゃいない。あんたに真心なんかそもそもない。キルケに取り憑いてアイアイエ島まで俺を呼び出したあの時も、俺は同じ説教をしたよな。天の女主人を気取る割には学習能力がなさ過ぎていけねえや」
 綺堂きどうの体を乗っ取ったいしゅたるは、紋次郎おいでもんじろうを嘲笑った。

「男に真心だと。笑わせるな。我は死すべき者から真心を捧げられる者だ。我に真心や誠などという、死すべき者の持つ徳とやらがあるわけもない」
 綺堂の左親指が二尺七寸にしゃくななすんはあろう剣の鯉口こいくちに伸びた。
「神とは力よ。神とは繁栄よ。神とは生み増やし死すべき者を地に返す営みの主宰者しゅさいしゃよ。愛や真心、正義に法などは死すべき者の為に我が編み出した幻に過ぎぬ。神はそのような物で縛られる存在ではないぞ」

「御大層な口ぶりだが、明星の大神とやらが俺というちっぽけな死すべき男一人モノに出来ないのは何でかね。ちなみに言っとくが、俺はキルケなら抱く。あんたはその価値がない」
「天の女主人、明星の大神に何たる無礼。増上慢ぞうじょうまん。滅びよ」
 いしゅたるに操られた綺堂きどうは絶叫した。
 薩摩示現流さつまじげんりゅうを彷彿とさせる剣裁きで、小出紋次郎おいでもんじろうの頭蓋の中央向けて真っすぐ剣を振りぬいた。

「キルケ、ヨモギを持ってきた。頼む」
 ひらりと剣線を交わしながら、紋次郎おいでもんじろうはヨモギをきるけえに投げ渡した。
 きるけえは受け取ったヨモギの束で夜空に向かって文様を描いた。
「主の呪術は所詮我の力を元にしているに過ぎぬ。効かぬわ」
 風圧でヨモギの束を跳ね飛ばすと、綺堂えんきどうは切っ先をきるけえに向けた。

「キルケよ。主は我の一の神殿巫女であったくせに我を欺き裏切り、西へ東へ流転した果てに我を滅ぼそうとするか。主の力は我の力ぞ。思い上がるな」
 剣先を振り上げた瞬間、ふらんそわが矢のように綺堂きどうの右肘に飛び掛かった。
「邪魔だ、邪教の犬!」
 腕一本で払いのけられたふらんそわはそのまま海に落ちた。
 きるけえは絶叫して海へと駆けた。

 いしゅたるに操られた綺堂きどうは、紋次郎もんじろうの体力をなぶるように奪い始めた。
 蛇の毒や蜘蛛の糸が絡まりつくように、ねちねちとじわじわと紋次郎もんじろうを追いつめていた。
 私は綺堂きどうの首の根元を鋭いくちばしで破壊してやろうかと一瞬思ったが、彼とていしゅたるに操られているだけだ。
 それが分かっているから、紋次郎もんじろうも急所を仕留める事だけは出来ずにいる。
「不味いな」
 いしゅたるは船の生き残り達も操り始めたようだ。
 ヨモギの焚かれたかがり火が消され、甲板へと男達がわらわらと上がってきた。
 私はふらんそわに教えたように、愛、愛、愛といしゅたるの嫌う言葉を唱え続けた。

「俺を裏切るつもりか。良いだろう」
 紋次郎もんじろうは石や生ごみが遠巻きに投げ込まれるのを避けながら、鷹のような眼光で自身を取り囲む男たちをぎろりと見やった。
「良い、実に良い眺めぞ。大人しく我の神殿に上がれば良かったものを、死すべき者の分際で侮蔑とともに拒んだがゆえにこのざまだ」
 生ごみが腐臭を放つ中、紋次郎もんじろうは芋虫のように甲板を這った。

「今生では最愛の友エンキドゥと相打ちで果てるか。共に天の牡牛をほふった神殺しのお前たちに似合いの末路だな」
 綺堂きどうに取りついたいしゅたるは、切っ先を紋次郎もんじろうの喉元に合わせて嘲笑った。
「シャマシュ!」
 紋次郎もんじろうは、ふらんそわを追って夜の海へ飛び込んだきるけえに向けて叫んだ。
「それがお前が愛し愛される男の真の名だ。力の限り呼べ。まだ間に合う!」

「我の一の神殿巫女が異教の犬の洗濯女に成り下がるか。お前もあれも愚かよのう」
 切っ先が振り上げられ、月の光を吸い込んだ。
「さらばだ、ギルガメッシュ。愚かなるイタケの王オデュッセウス。浅はかなる小出紋次郎おいでもんじろう。我はお前をはなから必要とはしておらぬ」
 切っ先が空気を切り裂いた刹那せつな、ふらんそわの真の名前を呼び続けるきるけえの絶叫が掻き消えた。

 船が大波にさらわれたのだ。
 飛び上がった私の上で、キルケの鷹が旋回するように舞っていた。
「ワシにはまだ、水神としての力は残っておるのじゃ」
 きつつきになった私の前に、水神が現れた。
 前に会った時に比べて随分と姿形がはっきりとしていた。

※本作はいかなる実在の団体個人とも一切関係の無いフィクションです。

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