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初めから君に恋してる十二

十二 先輩のこと、教えてください
「文化祭は終了いたしました。生徒の皆さん、下校時刻は過ぎています。速やかに下校してください」
文化祭の終わりを告げる、校内アナウンスが流れてきた。
先輩は小さく笑った。私もおもわず笑みがこぼれる。
外は夕闇に包まれていた。
こそばすぎて、無言で私たちは山崎川の遊歩道を歩く。
でも、右手は蓮先輩にしっかり握られている。先輩の体温を感じながら、私たちは時折見つめあった。
川の水に夕日が反映して、キラキラしていた。
「陽葵……、俺さ、やってみるよ」
先輩が沈黙を破る。
「やるって……」
ふと見ると先輩がランニングシューズを履いていた。
「あ!」
それって、この写真のシューズに似ている。
「根性入れようと思って、履いてきたんだ。もう一度、陸上部に戻ってみようと思う。前のように走れないかもしれないけれど、頑張ってみたいんだ。陽葵も音楽と逃げずに向き合ったしな。俺も今の自分と向き合ってみる。病気とも戦うよ」
「はい」
私は小さく返事をした。
やだ。蓮先輩、オケ部にいてよ。さびしいよ。でも、蓮先輩は走りたいんだね。自分と向き合って、もっと前にすすむんだね。蓮先輩を応援したいという気持ちと寂しさが胸の中で混ざり合う。
「陽葵のことは大好きだ。陽葵のピアノも好きだ。陽葵はやっぱりピアノの才能があると思うし、ピアノを頑張るべきだ。あんなに楽しそうに弾けるんだから。それにみんなに陽葵のピアノを聞いてほしいって思った」
先輩の髪にも夕日が当たって、茶色い髪が透けてキレイだった。
「もっともっと表現の幅を広げて、みんなと、音楽の世界を分かち合いたいって思うようになりました」
「陽葵が一歩前に進んだのを見て、俺も頑張ろうって思ったんだ。本当にありがとう」
先輩は私の目を見つめる。
「先輩はオケ部を引っ張って文化祭に出場させたじゃないですか。校歌も弾けるようになったし。すごいです。尊敬してます」
「尊敬だけ?」
蓮先輩の問いに、私は大きく首を横に振った。
「す、好きです」
「俺も陽葵のこと大好き。俺さ、もう三年生じゃん? 陸上部に戻っても、もう大きな大会はないし、大学の推薦もなくなっちゃた。でも、自分のために走ってみようって思うんだ」
「いいと思います。いいと……」
私は小声でつぶやいた。
「でも? って言いたい?」
「ううん、いいんです」
私の反応が思ったよりも鈍かったのに、先輩は気がついたみたい。ごめんなさい。先輩ともっとオケ部でいたいって思ってしまいました。
「どうした? 陽葵。言ってよ」
言っちゃだめだ。蓮先輩が前に進もうとしているんだから。
私は小さく首を横に振る。
「オケ部、俺、辞める」
恐れていた答えが蓮先輩の口から漏れる。
「……うん」
私はこくりとうなずいた。やっぱりと思う気持ちが広がって、心が冷えていく。
いつか、先輩がオケ部をやめると思っていたけど。先輩がいなくなるんだ。とてつもない寂しい気持ちに襲われれる。
「でも、陽葵のそばにいるから。ずっと一緒にいるよ。毎日、顔出すし、昼休みも、休み時間もいく。命の続く限り。だから……」
蓮先輩の言葉で、私は蓮先輩の顔を見つめた。
「毎回の休み時間は移動教室もあるし、無理しないでください。それに私、大丈夫ですから」
強がりな私の返答に、蓮先輩が子どものように口をとがらせる。
「陽葵が心配なんだ。俺が会いたいんだよ。無理だろうが何だろうが、陽葵のことを見に行くからね」
「え? どうして?」
「そりゃあ、好きだからに決まっているだろう。陽葵、俺と付き合ってください」
蓮先輩が私の顔を見つめた。 
じんわりと涙がにじんでくる。
先輩が、なぜか遠くに行っちゃう気がした。よくわからないけれど悲しくなった。
こんなに好きなのに。私たちこれからどうなるんだろう。
先輩が高校三年生だって、わかっていた。もともとは陸上部で走るのが好きなんだって、知っていたはずだ。オケ部からいなくなっても応援しなくっちゃ。ずっと一緒って言ってくれたんだから。
え? あれ? いま付き合ってくださいって、蓮先輩言った? 言ったよね?
目の前がぱっと明るくなった。
「休み時間は、ちゃんと次の授業の用意をしてください」
「はい。じゃ、昼休みは? 行ってもいい?」
蓮先輩は眉根を寄せた。
「はい、待ってます、先輩のこと。でも、これからずっと一緒ですから、無理はだめですからね」
「うん、わかった。約束な」
先輩はぎゅっと手を強く握った。
「俺さ、足が悪くなったのは、自分のせいなんだ。しばらく足が痛くっても我慢していた。疲れてるせいかなって思ってさ。管理が甘かったんだ。すぐに病院に行っていれば、こんなことにはならなかったんだと思う」
「蓮先輩。もう、自分を責めないでください。先輩だって頑張ったじゃないですか。ケガに誰が悪いなんてないんです」
私は蓮先輩の腕をつかんだ。
「膝がさ、走っていると、ピシッと小さな音が聞こえていたんだよ。そうしたら、ある日、膝がパキッて大きな音がして、すごく痛いんだよ。これってまずいかもしれないって、慌てて病院に行んだ。本当はずっと前から時々骨の奥が痛いかったのを隠していたんだ。走りたかったんだよ」
もう、つらいことは思い出さないでいいですから。
先輩の気持ちが痛いほどわかって、涙がぽろぽろこぼれていく。
「半月板損傷だって、医者も親も言うんだけどね。ほんとうにそうなのか? 半月板って何なんだよ。どうして軟骨が割れるんだよ。骨折って何だよ。なぜ走れないんだよ、俺の何が悪いのか?って思いがいっぱいで。お医者さんからは親に説明したいからって言われて……。それからどうやって帰ったのか覚えてない。切断したくなかった。走りたかったんだよ」
「つらかったですね。痛かったですね」
 私の顔は涙で濡れていた。
「泣くなよ。もう俺は大丈夫だから、ちゃんと治療するからr」
先輩は私を抱きしめた。
「高校二年になってすぐのことで、大会出場が決まっていたんだ。大学の陸上部のコーチが見に来てくれるって話もあってさ。どうしてこんなときに……。どうして俺がケガなんだって思ったらさ、なんかすべてがどうでもよくなっちゃって」
「そうですよね」
先輩の顔を見上げると、先輩は意外にも吹っ切れたような顔をしていた。
「手術して、今は元気。まあ、毎週、病院に通っているし、大きな検査もたまに受けている。もう痛くないけれど、病院の先生がまだダメだって。あの時は、学校行くのも本当につらくって。グランドにも行きたくなくて、中庭にいたら、音楽室からピアノが聞こえてきたんだ。時々つっかえて、でも何度も練習して、を繰り返していた。俺、なんだかたまらなくなってさ、音楽室をのぞきに行った」
蓮先輩が私の顔に視線を落とし、優しく微笑んだ。
「なんか辛そうだった。陽葵のことがずっと気になっていたんだ」
蓮先輩が前から私を知っていたなんて。
「治っても、もう元のように走ることは難しいって言われていて……。切断の話も出たんだけど、俺、嫌でさ。だから、部分的に切ってもらった。足の不安定さは残るらしいけど、俺、走ることしか興味がなかったから、足を切っちゃったらこれからどうやって生きていいのかわからなかった。今はうまく走れなくてつらい。でも、走れるんだ。生きているんだからもう一回頑張ってみようって思う。陽葵には本当に感謝しかない」
蓮先輩、えらかったね。大変だったね。つらかったね。
私の目からまた涙が落ちはじめ、先輩はクシャッと私の頭を撫でた。
つっと先輩が顔を寄せて、私の涙を唇で拭った。優しい唇の感触を頬で感じた。
「顧問のタイラッチはさ、俺のクラスの担任で……。学校も休みがちになった俺のことを心配していたんだと思う。タイラッチは、もしかして、俺が音楽室の前で音楽を聴いていたのを知っていたのかもしれないな」
「そうだったんですね」
零れ落ちる涙の頬に何度もキスされて、私は照れ臭くなった。先輩の唇は熱かった。
「欠席した分と課題提出の代わりに、オケ部で校歌を弾けって言われたんだよ。結構無謀だよな」
タイラッチと先輩のやり取りが目に浮かぶ。
「陽葵のおかげで校歌は弾けるようになったしな。文化祭でオケ部と一緒に演奏できた。校歌のロックバージョン、おもしろかったな」
「そうですね」
涙で鼻がツーンとする。
「俺さ、元のようには走れないけど、すこしずつ走ってみる。自分のために。俺、陽葵と同じくらい走るのが好きなんだ」
「大丈夫です。先輩ならちゃんと走れます」
「実は、三月くらいからか。リハビリを兼ねてこの辺走っていたんだ」
先輩は桜の葉を仰ぎ見た。
それって、もしかして?
疑問が胸に浮かぶ。
「陸上部の三年生の引退試合には出ようと思う。がんばるからさ」
「はい、いいと思います」
私は肯く。
「見に来てくれる?」
「もちろんです。いつでも応援に駆け付けます」
また涙があふれてきた。
「もしかして、陽葵が探しているランナーが見つかるかもしれないよ。なんかむかつくけどね」
先輩は面白くなさそうだ。
「そうかもしれませんね。でも、今は先輩がいるし、私の好きなのは先輩ですから」
もう写真のランナーの正体に固執していなかったけれど、先輩に言われて、ランナーの姿を思い出そうと目を閉じる。
写真の、桜の中を走るランナーは、先輩になっていた。

文化祭が終わってニか月後。
「オケ部に入ったのがよかったのかもしれないわね」
「なんか心境の変化があったのだろう」
私のピアノは変わったとお母さんから言われた。
お父さんも驚いていた。
音楽って、楽しい。みんなで音楽を共有したいと思って、音大を受けたいなと考えるようになった。ピアノの先生のところに通う時間を増やし、練習時間も増やした。
「ピアノの音色から成長具合がわかるわ。よく乗り越えられた。がんばったわね」
ピアノの先生も穏やかに笑った。
蓮先輩は引退試合に出るために、一生懸命、朝と放課後練習している。蓮先輩は、手も足も、顔も真っ黒に日焼けしていた。
教室の窓からも、音楽室の窓からも蓮先輩の練習しているところが見えるので、応援している。
「先輩ね、頑張っているよ。今日は通院日だったみたいで、先輩のお母さんが陸上部に送っていたよ。先輩のお母さん、すごく心配しているみたいだったけど、先輩が早く帰れって追い返していたよ」
「お母さん? 先輩のお母さんが来ていたんだ。見てみたかったな」
「ちょっと熱があるとか言っていたけど、普通通りだったよね?」
「うん、先輩、元気に見えたけど」
どんなお母さんなんだろう。蓮先輩によく似ているのかな。蓮先輩の髪をロングにして、背を少し小さくして、お化粧させた感じだろうか?
想像してしまった。
「少しずつタイムが上がってきてるみたいだよ」
先輩のことが心配で、いつもやきもきしていたら、真希ちゃんと若菜ちゃんが教えてくれるようになった。蓮先輩は、毎日昼休み、私のクラスに遊びに来てくれるけれど、陸上部での話をしない。つらいって言わないで、がんばっている。時々足が痛いのか、顔を歪めることはあるけれど。
蓮先輩が言わないで頑張っているのが分かるから、私は聞かないで見守ることにしている。
「蓮先輩のこと、教えてくれてありがとう。ちょっとお母さんが来ていたっていうから、心配だけどね」
真希ちゃんと若菜ちゃんにお礼を言う。
「だから、陽葵ちゃん待っていてあげてね」
「うん?」
「先輩がね、俺が練習しすぎると陽葵が寂しがるから、早く陽葵のところに行かないとって、陸上部でのろけてたよ」
蓮先輩、どこでのろけてるんですか! たしかに寂しいですけど。我慢してますけど。
顔から火が出そうになった。
「まあまあ」
若菜ちゃんが私の肩を組む。
「今度引退試合があるからさ。応援してあげてよ」
真希ちゃんが説明しているところに、先輩が顔を出した。
「ああ! 俺が陽葵に言おうとしたのに。後輩ども、先に言ったな?」
「私たち仲良しですから」
「くそぉ。後輩に先を越されるとは」
蓮先輩はちっとも悔しくなさそうに笑っていた。
「陽葵、俺の引退試合、見に来てくれる?」
「はい! もちろんです」
私がきっぱりと言う。先輩は明るい表情になった。
蓮先輩は、文化祭の時よりも髪の毛を短く切っていて、ちょっと精悍な感じになっている。日に焼けた姿もかっこよすぎです。思わず見惚れてしまった。
蓮先輩はそれだけ言うと、またクラスに帰っていった。廊下で蓮先輩の身体がよろめいたように見えて、ドキッとしたけれど、先輩は笑顔で手を振った。
「頑張って」
先輩の後ろ姿に語り掛ける。
蓮先輩が振り向いて私に手を振った。
「蓮先輩、頑張って!」
勇気を出して、声を張った。
数人の生徒が驚いて私を見る。
蓮先輩はもう一度振り返って手を大きく振って、クシャリと笑った。

引退試合当日。空はスッキリと青く、先輩の晴れ舞台にはピッタリだと思ってしまった。
この試合で蓮先輩は陸上部を引退すると思うと、私の方が体に力が入ってしまう。蓮先輩もきっと緊張しているに違いない。
会ったら、なんて言おうか。
無理しないで? それとも頑張って? 大好き?
何て言おう。何て言うのが正解?
山崎川沿いを急ぎ足で進み、瑞穂陸上競技場に到着する。
ゲートをくぐると、真っ青な空とトラックが迎えてくれた。グラウンドでは、すでに選手たちが調整に入っている。
蓮先輩は……、どこ?
真希ちゃんと若菜ちゃんの姿を見つけて手を振る。すると、蓮先輩が私に気がついてくれた。
蓮先輩がゲート近くの観客席に向かって走ってくる。
やっぱりあの走り方。あの靴……。
山崎川の桜のランナーは先輩だったんだ。ぜったいそうだと確信する。
「陽葵! 来てくれたんだ。ありがとう」
「当然です。約束しましたから」
「うん」
蓮先輩は照れ臭そうにしている。筋張った筋肉、長い腕や足、ユニフォーム姿がまぶしくて見ることができないでいた。
視線を何となく外していたら、
「陽葵、こっち見て? ちゃんと俺を見てる?」
蓮先輩が私の頬を両手で覆う。
「恥ずかしくて」
「なんで?」
「蓮先輩のユニフォーム姿がなんかキラキラしてる」
「陽葵、そこは好きですだろ? ああ、ダメだ。自分で言っておいて、恥ずかしい」
蓮先輩が自分で言って、一人でにやにやしているので、私も照れてしまった。甘い雰囲気が二人を包む。
「無理しないでいいからね。見ているね? 頑張って」
まだ試合前なのに、蓮先輩のユニフォーム姿を見るだけで私の方が涙が出てくる。
「大丈夫だよ。足は動くから。陽葵が泣いたら、陽葵のことが心配になっちゃうだろ。もうすぐ試合なのに走れなくなる」
「それはダメ。もう泣かない。蓮先輩を応援するから」
私は涙を引っ込めるよう努力する。
「泣くなよ? ちゃんと走ってくるから」
蓮先輩が私の顔を覗き込む。
「陽葵は泣き虫だな。俺のことちゃんと見ていてね? 陽葵に見守られながら走るのが俺の夢の一つだから」
「うん」
私の涙を蓮先輩が指で拭う。
「行ってくる」
蓮先輩の声に私はうなずいた。蓮先輩の姿が涙で歪む。
「あ、一応聞いておく。ビリでもいい?」
蓮先輩が大きな声で聞いてきた。
「もちろん! ビリでもいい。無理しないで、最後まで走れればいいと思う」
私の返事も聞こえたみたい。
了解とばかりに蓮先輩は後ろ向きでピースする。
好き。蓮先輩、大好き。頑張って……。
あと私にできることは、祈ることだけ。

「On your mark, ready ? パン!」
蓮先輩のレースの順番になった。ピストルの音が空気に乗ってこだまする。
蓮先輩は2コースだ。
スタートダッシュはよかったけれど、蓮先輩はだんだんスピードが落ちて、第2コーナーをまわったあたりで、どんどん抜かされていった。
どうか、先輩の足がもちますように。大丈夫だろうか。無理しないでほしい。だけど、走り切ってほしい。痛くありませんように。最後まで走れますように。
神様、もう少しだけ、先輩の膝を守ってください。
先輩の唇がゆがんで、少しだけきつそうな顔をした。けれど、足はほとんど引きずってはいない。
もう少し、あと少しでゴールだ。頑張れ!
グラウンドをただ見つめ、祈るしかできない。
蓮先輩、最後まで、最後まで走れますように。
ゴールした瞬間、蓮先輩は、ほっとしたかのようにスピードを落とし、右足を軽く引きずっていく。
やっぱり、先輩が、あの桜のランナーだ。
桜のランナーも、泣いているランナーも、蓮先輩も大好きです。
身体をゆっくりと動かしながら、歩いている蓮先輩から目が離せない。よかった。足は大丈夫そうだ。ほっとした。
あの桜のランナーが先輩だと思ったら、ストンとピースがはまった感じがした。
蓮先輩は入賞はできなかったけど、きちんと走り切ることはできた。蓮先輩はすがすがしそうな笑顔で私に向かって手を振る。吹っ切れた感じがした。
陸上部の仲間たちが蓮先輩のもとに駆け寄っていく。蓮先輩はもみくちゃにされていた。
よかった。走れてよかったね。陸上部に戻ってもう一度走ってよかったね。
私の涙は止まらなかった。
「あの……」
私に声をかけてきた中年の女性がいた。
「はい?」
「いつもお世話になっています。蓮の母です」
びっくりした。蓮先輩のお母さん!
ショートカットの髪の毛で、大きな目をしていた。優しそうな人だった。
「こちらこそ、蓮先輩にはお世話になってます」
 頭を急いで下げる。
「蓮のことでお話があるんです」
「はあ」
私は目を丸くした。
「キャー!!」
「倒れたぞ」
私と先輩のお母さんはトラックへ視線を向ける。
「蓮!」
「蓮先輩!!」
私と先輩のお母さんはトラックへ急いで駆け込んだ。
*
引退試合が終わり、日常が戻ってきた。蓮先輩は倒れてからひと月、入院した。
「もう大丈夫だよ」
蓮先輩は少し痩せて、松葉づえを使いながら高校にきた。私は入院中毎日少しだけ顔を出していた。だから知っている。
病に侵されていて、点滴や手術がいることを。どうしても学校に来たいと言い張って、学校にきていること。
ちゃんとお見舞いに行くって言っているのに、蓮先輩は言うことを聞かなかった。
近藤先輩も川中先輩も、先輩のお母さんも呆れていた。
「無理をしない。ちゃんと通院すること」
お医者さんが条件を出したみたい。
通院がない日は、蓮先輩はオケ部に顔を出して、私の帰りを待っていることが多くなった。
きょうはちゃんと川中先輩にきょうは部活を休むと伝えてある。たまには蓮先輩とゆっくり話したかったから。
近藤先輩からは「デート? いいなあ。私もデートしたい」と言われてしまったけど。
蓮先輩とゆっくり山崎川の遊歩道を歩いていく。
「俺、スポーツ科学を勉強しようと思うんだ。スポーツトレーナ―になりたい。陽葵は、どうする? やっぱり音大にいく?」
「うん。音大に行きたいな」
蓮先輩の反応を見たくて、蓮先輩の顔を仰ぎ見る。蓮先輩は目を細めて笑っていた。
「陽葵の音楽は、勇気をくれるからいいと思う。もし音楽の神様がいるなら、陽葵はぜったい愛されているよ。みんなに陽葵の音楽を伝えてほしい」
「ありがとうございます。先輩は愛してくれないんですか?」
私はいじけたようにわざと聞く。
「知らないんですか? 陽葵は」
「ええと」
蓮先輩に目を見つめられる。それだけで心臓の鼓動が早くなる。
「ところでさ、陽葵。そろそろ、先輩っていうのやめてくれない? 付き合っているんだろう?」
「あ。でも、恥ずかしくって」
「俺はちゃんと「蓮」って呼んで欲しい。それに、敬語もやめて? 遠い感じがするじゃん。ただでさえ俺が大学生で陽葵は高校生になるんだから。俺がいない時、誰かが陽葵のことを攫うかもしれないって心配なんだよ」
蓮先輩の唇がとんがる。
そうですよね。春になったら、蓮先輩とは離れ離れになる。先輩が卒業するまであとわずか。まだ一緒に居られるけれど、寂しくなる。
「陽葵、あの写真ってさ、まだ持ってる?」
先輩が私の背中を包んだ。暖かくて、先輩の匂いに包まれる。胸いっぱいに広がった寂しさがすこしずつ消えていく。
「うん、大事にもっています、……るよ。まだ、スマホの待ち受けにもしています、るよ」
まだ、「蓮」って呼び捨てにするのも、敬語なしで話すのも、ぎこちなくしか言えない。気が緩むと、つい癖で敬語が出てしまって怒られる。でも、ふわふわした、なんともこそばゆくて、満ち足りた気持ちが胸に広がる。私だけが蓮先輩の特別なんだと思う。
「やっぱり妬けるな。といっても、あのランナー、俺なんだけどね」
蓮先輩がチラリと私の反応を試す。
「うん、知ってたよ。あれ、れ、蓮だよね」
ニヤリと私は笑ってみせた。ちゃんと呼び捨てにできたとドヤ顔をする。
「え?」
蓮先輩の顔が驚きに満ちた。
「なんとなく、ずっとわかってた。だって似てるんだもん」
「がーん。隠していたのに。そして、こんなときに、蓮って初めて呼んだ。もっと甘い雰囲気の時に読んでほしかった」
蓮先輩はショックを受けている。
落ち込む蓮先輩の頭をポンポンとなでる。茶色いふわふわの毛はあいかわらずで、触り心地がよい。
「またいつでも呼んであげます。呼んであげるから、落ち込まないで」
私の言葉に蓮先輩が苦笑する。
「あれ、俺だって、ずっと言えなくてさ。だって、かっこわるいだろ。転びそうになるわ、泣いているところ見られるわ。でも、陽葵は写真のランナーにうっとりしているわけで。俺は、写真の俺にやきもちを焼いていた」
蓮先輩は私と向き合い、もう一度私をギュッと抱きしめる。
「そんな……。やきもちなんて知らなかった」
「悪かったな、かっこ悪くて。ねえ、ちゃんと顔を見て、蓮って呼んでみて?」
蓮はいたずらっ子な目をして、私の顔に近づいた。
蓮の唇が私の唇に触れ、私たちはうっとりと見つめあった。

蓮先輩は、必死になって勉強して大学に合格。この四月からは大学でスポーツ科学や医療、心理学などを学んでいるはずだった。
山崎川の風が桜の枝を揺らし、花びらを散らし始めた。
「ああ。せっかく満開だったのに、 もう散っちゃいそう」
桜の木にはヒヨドリが蜜を吸いに来ていて、桜の花びらがちらちらと舞い降りる。
蓮先輩は今入院している。卒業式にでることも叶わなかった。
「陽葵、綺麗だな。桜を二人で並んで見れると去年の今ごろは思わなかった。地べたに這いつくばって、泣きながら悲観していたもんな」
蓮が苦笑する。
病院の窓から見える桜を二人でみる。
「あのときも、今も。蓮は、私の中ではいつでもヒーローだよ」
ちょっぴり照れくさくて、意地悪な気持ちになったので、スマホのホーム画面を蓮に見せる。
蓮って呼ぶことは、まだ恥ずかしい。慣れなきゃいけないとは思うんだけどね。
「スマホのホーム画面、更新しないの?」
 蓮は不満げだ。
「しないよ。だって、蓮がいつでもいっしょって、感じだもの。いいでしょ?」
意地悪そうに笑ってみる。
「でもさ、これって俺ってわからないじゃない? それにさ、俺も新しい陽葵の写真、ほしい。そうだ、一緒に撮る?」
「ええ?」
「ちなみに俺のホーム画面はこれ!」
いたずらな顔をした先輩が自分のスマホを取り出して、私にホーム画面を見せる。
「ああ、文化祭のメイドの格好の、もう、恥ずかしいからやめて」
私の顔が赤くなる。
あの写真、まだ持っていたんですね。真希ちゃん、若菜ちゃん、恨んでやる。
「これからもずっといっしょに陽葵がオレと写真を撮ってくれるなら、やめてもいいよ。でも、メイドの写真は永久保存で、削除はしないからね。宝物だし」
「え?」
「ええと、つまり……、ずっと二人で写真を撮ろう? 桜の木の下で。がんばって病気を治すから」
「はい」
私の目に涙が浮かんでくる。
「陽葵……。ぜったい他の人の前で、泣いちゃダメ。可愛いから」
「泣きませんよ、蓮の前だけです。蓮のことが好きだから、蓮に優しくされると、なんだか胸がつまってしまって……、泣けてきちゃう」
「もう、陽葵は心配性だな、大丈夫だよ」
慌てて涙をぬぐうと、蓮がまぶたにキスしてくれた。
「陽葵、大好きだよ」
そのまま、私たちはついばむように何度も唇を重ねた。蓮の病状はよくなったり、悪くなったりのようだった。
五月に入り、また入院した。
「心配かけてごめん」
「大丈夫。すぐに蓮なら治るって」
病室で点滴を受けている蓮の腕が痛々しい。
「陽葵ちゃん、蓮の相手を頼むわ。ちょっと私買い物してくるわね」
蓮のお母さんは小さく笑って、病室を出ていった。
「今度のピアノコンクール、俺も聞きに行きたかったな」
蓮は顔を曇らせた。
「海外だから、来なくていいわよ」
私は苦笑する。
「一緒に海外旅行に行けるじゃん。あ、でも陽葵は緊張しているから、全然楽しめないかな。いつか二人で一緒に旅行しような」
「うん、そうだね」
「とりあえず、今年の夏はお祭りとか、花火とか見たいよな。陽葵はもちろん浴衣で頼むよ?」
蓮が笑った。
「はいはい。病気が治ったら、お祭りも花火も行こう。プールも海も行けるといいね」
「そうだな。楽しみだなあ、陽葵の水着姿」
「ちょっといやらしい笑いしないで」
「してないだろう」
蓮の肩を叩くと、蓮の身体がすごく細くなっていたのに驚いた。
「痩せちゃった。ごめん」
蓮が唇を噛む。
「またいっぱい食べればいいよ」
私は涙が目に溜まってきたので、そっと顔をそむけた。
「俺さ、たぶんもうダメなんだと思う。半月板損傷とか言っていたけど、本当は違う病気だったと知ってるんだ。だっておかしいだろう? 骨折が治ってもずっと検査。切断するかって話もあった。どう考えても俺は病気だ」
思わず私は蓮の顔を見た。
「陽葵も知っているんだろう? 俺、治すから。絶対治すから。だから、陽葵もピアノ諦めるな。何があっても弾くこと。約束して? 陽葵のピアノの音、俺は大好きだ。真面目で丁寧で、優しくて……。みんなに陽葵の音を聞いてもらいたい。だからさ……」
蓮の頬に涙が一筋流れた。
「俺が、俺がし、死んでも」
「死なないから。ダメ、そういうこと言っちゃ」
「死なないようにするけど、死なないようにするけれど、万が一ってときもあるだろう? だから、ちゃんと言っておきたくって」
「……うん」
「ぜったいピアノをやめないで? 俺がいなくなっても」
「……嫌。蓮がいなくなるなんていやだよ」
「わかるけど。俺も陽葵に会えなくなるのはいやだから。でも、俺がいなくても、陽葵はピアノを弾いて? 世界中の人に陽葵の楽しい、うれしい、つらい、悲しい、すべての音を届けてほしい。陽葵の心が躍れば、ピアノも聞いている人も踊りだす。陽葵のピアノには力がある」
「うん」
私の目から涙がどんどんこぼれる。
「俺、どこにいてもぜったい陽葵の音は聞いているから」
蓮は私の手を握った。
蓮の手は氷のように冷たかった。皮膚が乾燥していて、指の骨が浮いている。
私は蓮の手をゆっくり温めるように包み込む。
「ずっと一緒だよ?」
「ああ、ちゃんと陽葵のことを見ているから。安心して?」
蓮と私は唇を重ねた。蓮の唇は熱をもっていた。

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