見出し画像

アート見て、受け取って、ポッドキャストを始めてしまった話。

展示の会期は終わってしまったのですが、「ナラティブの修復」という展示会に行ってきて、私は大いに背中を押されて、自分のラジオを始めることにしました。何を見て、何を受け取ったのか、このnoteに残しておきたいと思います。

テーマは「ナラティブ」です。「物語」です。展示会の入口には、「ものがたり」とは、「個々の出来事」を他者にひらいていくこと。」とありました。

何を見たのか

展示の中には、たくさんの個人の「ものがたり」で溢れていました。

例えば、

11歳から80代くらいまでの65人(全員違う年代生まれ)にインタビューをして、その人が11歳だったときの印象に残っていることや、人生を振り返って大切にしているものなどについて、聞くような作品や、

今はない建物の一部を使ったウクレレの作品や、

たくさんの作者個人の昔の写真に囲まれるような展示や、

即興で人形劇をして、人形を通して自分の言葉でもなく他者の言葉でもなく、人形の言葉として、コンプレックスについて話してみる、という試みの報告として、映像や実際の人形が飾ってある展示など。

受け取ったもの

とにかく、会場では、たくさんの人の個人的な「物語」で溢れていて、それは時に、プライベートな感じのものもありました。私の全く知らない誰かの私的な体験。

それでも、私はその作品群を見ながら、なぜか「懐かしい」と思ったり、「あ、なんか知ってる」とか、そういう感情が湧いてきました。特に65人にインタビューする作品では、年代も離れている方やインタビューの内容以外は何も知らない「他者」に対して、「私も同じだ」と思える部分があって。

世の中には、当たり前かもしれないけど、ためになる話や、みんなに理解してもらうための話や、みんなにとって利益のある話は、たくさん存在していて、一人ひとりの私的な話を、じっくり聞くことも、聞かれることもない。

それでも、私は今回インタビューの作品に限らず、アーティストや作品からたくさんの個人の、または、私的な記憶や思いに触れて、自分の心を掴まれたし、もちろん見せ方の技術の問題もあると思うけれど、決して「つまらない」とか「無意味」とか、そんなふうには思わなかった。

「あなたの話も聞かせてよ。」

今まで人の話を聞くのが、あまり得意でなかった私だからこそ、ここまで他者の物語を、興味を持って見聞きできることに驚いた。「もっとあなたの話が聞きたいな」という気持ちになった。その瞬間、その言葉は自分に差し向けられて、作品群から「あなたの話も聞かせてよ。」と言われた気がした。

人形劇の作品の映像の中のやりとりで、こんなものがあった。

「相談してくれてありがとう」「相談したことを感謝されるなんて...」

私も、こういう会話をしたことがあるのを思い出した。「話を聞いてくれてありがとう」と言われたけれど、「私に大切な話をしてくれてありがとう」という気持ちと共に、私自身の学びや刺激になるような話でもあった。あなたの話は、私の話と、きっと地続きで、関係ないとか、そういう気持ちには、全くならなかった。

これで思い出したのは、「世界は贈与でできている」という本の中で出てきた、「贈与は受け取ることから始まる」という話。

物語というのは、そこに他者がいて始めて成立する。受取手がいて、始めて成立する。そして、その物語の価値は、受取手によってしか分からない。語り手が、その価値を認識することは不可能。だから、自分で価値を判断しようとすることに意味はない。

サービス・ドミナント・ロジックという考え方の特徴が、この感覚と近い気がして、以下のサイトから引用する。

◯商品は、顧客が利用することではじめて価値を持つ = 使用価値・経験価値
◯その価値は、それぞれ異なる背景をもった顧客によって判断される = 文脈価値
◯顧客は主体的な存在であり、価値は顧客とともに生み出されるものである = 価値共創

今回の展示の後に、この考え方を知って、まさにこれかも、と思った。

・自分の「物語」は、他者に聞かれることで始めて意味をもつ。=使用価値・経験価値?
・作品を通して触れた物語からたくさんの感情が駆動されて、私は大いに刺激を受けた。= 文脈的価値?
・これらの体験は、アーティストの意図と、私の解釈によって生まれた=価値共創?

この体験をサービス・ドミナント・ロジックに当てはめたい、というわけではなく、とにかく、自分の個人の物語を外に出していいのかも!ってことが、私の結論となった。価値は、自分の中に閉じ込めている間は生まれない。そして、「自分の外に出しても価値がない」と思うのは、私が判断できる範疇のことではない、と思ったのだ。

だから、ポッドキャストやろう。

というわけで、私は、自分の「ものがたり」を始めようと思った。元々別の文脈でも、自分の頭の中のアウトプットは大事だと思ってて、ポッドキャストのことは頭にあったのだ。けれども、そんなことに意味はあるのか、とか、そういうブレーキは大いにかかっていた。

でも、この展示たちから「あんたの話も、聞かせなよ」って言われたような気がした。

「私の話なんて、つまらない」そういう時もある。

「自分の話ばっかりして」それもそう。

それでも、私は自分の思いを言葉にしないと、と思った。その後に起こることを、見てみたかった。この展示を見て色々な感情が湧きあがってきたように、私がポッドキャストを始めちゃうように、自分の意図の外で、私の言葉が私の元を離れて、外の世界で、図らずも何かを動かすのかもしれない。

「かもしれない」

そんなことに賭けてみようって気になるくらいは、私はもう怖いものは無くなってしまった。あの展示の中でたくさんの感情が揺れ動いた私がいる限り。それを信じてみたくなった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?