人生の理由

いつだって、わたしの人生の選択肢には「死」があった。


イライラしたとき、思ったようにいかないとき、人に迷惑をかけたとき、不意に選択肢として“死”というものがあった。


この選択肢が常にあったのは小学生の頃からだと思う。包丁を手に取って胸に突き刺そうとした。結局、死ぬことはなかった。二階から母が降りてくる音に、急いで包丁を元に戻した。



どうしてこんな究極な行為を選択肢に含めるのか。含めてしまうのか。

わたしにもわからなかった。

今もわからない。


“死”

それはすべてを消し去ることができると思っていた。

自分の過去やこれからの未来。死にたいと思うときはそれらすべてを消したいと思う。

“死”という選択肢が頭に浮かんだ瞬間、過去の失敗や苦しい思い出を思い出す。まるで、死ぬという行為を押すように。

未来に期待は抱いていない。期待のしすぎは期待通りにいかなかったときの悲しみを深くする。


死ぬことで、自分の存在を消し去ることができると思っていた。

正確に言えば、今も思っている。



わたしは簡単に言った。

「死にたい」と。

簡単に思った。

「絶対死んでやる」と。

そう言いながらも、そう思いながらも、いつもわたしは泣いていた。


別に死にたくないわけではなかったし、本当にそのときは死にたいと思っていた。

でも、死にたい理由は、

“死ぬ”という行為を簡単に選択肢に含めてしまったこと、人に「死にたい」と伝えてしまったこと。

これが一番死にたい理由に一瞬で変わってしまうのだ。

死にたいと思うような環境や現状から逃げるためではなく、最低な選択をしようとしたわたしが、死のうと思ったわたしが、一番死ぬべきだ、と。


わたしが「死にたい」と言ったことで、思ったことで、悲しむ誰かが必ずいた。

その誰かを思うと、申し訳なくて、申し訳なくて。

その思いがまたわたしを“死”へと引きずる。


でも、たぶん、その悲しむ誰かがわたしをこの世界で生かせてくれていて、わたしがこの世界で生き続けている理由なのだと思う。


とてもわかりやすい。

悲しむ誰かがいなくなった瞬間、わたしはこの世から消えるのだ。


なぜ、人間は生きるのか。

わたしにはわからない。

叶えたい夢もないし、別に今日死んでもいいと思っているし、できれば早めに死にたい。これは本心だ。


ただ、大切な誰かを失うことだけは嫌なのだ。悲しませることも嫌だ。

だから、わたしは生きている。大切な誰かが悲しまないように。

理由はそれだけだ。



わたしの人生は、わたしのものではない。

きっと、わたしの大切な誰かのものだ。

少なくともわたしの人生は。



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