家を失った日

目に涙を浮かべている義母とすすり泣く義姉2人。
ここで私も泣くことが出来たなら。
それが出来たならこの場面は感動系ドラマのワンシーンとして成立しただろう。
しかし私は一滴の涙も絞り出せなかった。
それどころか、ここに居たくない、 一刻も早く夫に帰ってきて欲しい、義姉2人はいつまで居るのか、などと考えていた。
何と薄情な嫁だろう。しかしそれが紛うことなき私の本音だった。

それは同居開始当日の20時半。
本来なら義姉2人はとっくにこの家を後にしてそれぞれの自宅に向かったり着いたりしている頃であった。
息子はぐっすり眠っている頃であり
私達夫婦と義父母は夕食を摂り終え、雑談や今後のことなどを話しているはずの頃。

しかしこの日この時間、終わっているのは義母の食事と息子の寝かし付けだけだった。
20時半前、息子が寝付いたのを確認した私は寝室を出てキッチンへ向かった。
いつ帰って来るのか分からない夫と、帰って来るのかすら分からない義父の為に
炊飯器で保温になっているご飯をおにぎりにしておこうと思ったからだ。

物音を立てぬよう注意を払ったが、それは息子を起こしたくないからではなかった。
この頃の息子は、寝付きも寝起きも良い、規則正しい、育て易い子だったから。
なので、物音を立てぬようにした理由は、私がフリーで動ける状態になったことを義母と義姉2人に気付かれたくなかったからだった。
彼女達はもう何十分も泣きながら何か話していた。
壁の薄い狭い賃貸なので、息子の寝かし付け中、聞き耳など立てなくてもそれが聞こえてきていた。
実の母娘が涙を混じえるレベルの話に水を差すようなことをしたくなかったのだ。
しかし、繰り返すがここは壁の薄い賃貸である。
彼女達はすぐに、私が動き回る気配に気付いた。
そして義姉が、義母からの『部屋に来るように』の伝言を私に伝えにきた。
断る口実がない私はそこへ向かった。
息子が大きくなった時の遊び部屋にと考えていた部屋へ。

「あんちゃん、そこに座って?」
そう言う義母はベッドサイドに腰掛けていた。
私は指定された場所、義姉達の近くの床に腰を下ろした。
義母が持参したシーツ、クッション、写真、化粧台、などに埋め尽くされたその部屋。
息子の為に整えていた頃の面影はもう、全くなかった。
義母がくつろげる場が整って良かったと喜ぶべきなのに、何故だか、怒りのような悲しみのような、上手く言語化出来ない負の感情が湧き上がるのを感じた。

そして冒頭の場面である。
「分かるの、おかあさんの命はもう長くない…って。
本当はもっと生きて、あなた達の手助けをしたい。孫の成長も見たい。
でもね、できないの。ごめんね。
だからせめて、きょうだい、みんな仲良くね?それだけがおかあさんの願い。」
このようなことを重々しく義母が語る。合間合間に義姉(主に長女)が
「皆おかあさんが大好きよ」
と言って泣く。義母も目元をティッシュで拭う。
あの時私が何と言ったのかよく思い出せない。
多分その場にふさわしい当たり障りのない言葉、分かりましたとか大丈夫ですとか、そういうことを言ったような気がする。

事実は小説よりも奇なり、と言う言葉がある。
後述するが、この時この家に夫と義父がいないことは間違いなくそれに該当する。
しかし、起承転結がすっきりしないのも、また『事実』の持つ性質だ。

この後義母は十数分かけて、言い回しを変えながら何度も、何度も
『私は長くない』『みんな仲良く』と語り、そのたびに義姉2人は涙を流していた。
私がこの部屋に来るまで何十分もこれを繰り返していただろうことが容易に想像できた。
物語であれば間違いなく省略されるシーンだ、受け手が飽きてしまうから。
故に、このnoteでもこの場面を事細かに書き記すことはしない。
2年も前に終わった同居、そのエピソードをわざわざ読んで下さっている方をうんざりさせたくないからだ。

要するに、この時私はうんざりしていたのだ。
持病のせいで常に体調が優れず、この先見知らぬ土地で暮らして行かねばならない、義母が不安でいっぱいなのは当たり前だ。
その気持ちをじっくりと聞いて受け止めることは、間違いなく必要なことだ。
仕事だったら苦なくそうできただろう。
しかし、家は施設では無い。
1人が1人に付きっきりになることで滞る様々な仕事を代わりに回してくれる同僚はいないし、他の居室なんてないからナースコール対応も無い。
もちろん定時も公休もない。
私はここから逃げたいと思った。しかしどこへなら逃げられるのだろう?
家の中にいるのに『逃げたい』とは一体、どういうことだろう?

仕事の場面で「家に帰りたい」と訴える高齢者と関わることが私は今も多い。
彼らの話を突き詰めると、『帰りたい』のはなになに市なに区なん番、というような具体的な場所ではないことがほとんどだ。
帰りたいのは、自分らしく生きていた頃の時間、環境なのだ。
施設介護職員として10数年間、その気持ちを『推しはかる』ことで仕事をこなしてきた。
どう頑張っても『分かる』ことはできなかった。何事も、経験を伴わない『分かる』など、有り得ないから。

私はこの日初めて『分かる』という境地に足を踏み入れた。

この先、アポ取りと出入りの時に申し訳なさそうなポーズを取るだけで義姉達は自由に出入りし、時には宿泊までする。
義母が良く知る、私には馴染みのない親戚が突然やって来る。
義母の体調を思えば、私の友人を呼んだり外出したりすることもはばかれる。もちろん旅行なんてできない、ありえない。
息子と近所の公園に行くのにも厳しい時間の制約が必要になる。
そんな拠点は『私の』家ではない。夫の家でも、息子の家でもない。
かと言って義母の家でもない。

成人3名と乳幼児1人が約一年暮らしたあの場所に相応しい名前は今も見つからない。
あそこは『何』だったんだろう。

永遠に続くかと思われた『もう死ぬ』『仲良く』のやり取りは義姉(長女)夫からの電話により終わりを迎えた。
いつまで経っても帰ってこない妻を心配しての電話だった。
終電に間に合わなくなった義姉(次女)は、義姉(長女)宅に宿泊することになった。

同じ頃、夫からも連絡があった。
夫がどこに行っていたかと言うと、突然高熱を出した義父を夜間外来に連れて行っていたのである。
「親父、コロナは陰性。でも入院になった。今から荷物を取りに戻る。すまんけど、入院準備を頼む。」

義姉達は涙をぬぐい、てきぱきと義父の入院準備に取り掛かった。
「おかあさんが透析のシャント手術の為に入院してた間、どうせ酒浸りでゴロゴロテレビばっかり見て、持病の薬も全然飲んでなかったに決まってる!
あのクソジジイ、何の為に来たの!?いっつもそう、何の役にも立たないんだから!」
など、時折義父の悪口で盛り上がったりしながら。
立場上私は同意の言葉は口にできなかったが、それが事実ならば(後に事実と判明するのだが)自業自得だとは思った。
それでも『家族』を強調する彼女達が『家族』であるはずの義父への辛辣な様子の異様さは今も拭えないが。

夫が帰宅したのは日付が過ぎて1、2時間してからだった。
夜勤明けで一睡もせず、義姉(長女)と喧嘩し、送迎や買い物を的確にこなし、入院対応までした夫が。
疲れを通り越し血走った目をしている夫は、口元だけを無理に引きあげながらこう話した。
「親父、抗原検査を嫌がってさ。拒否しようとして看護師さんに怒鳴ったんだよ。申し訳なかった。恥ずかしいし、情けない。」

こうして、義母との同居生活の初日は終わった。

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