毎秒、自分のことが嫌いになる

わたしは自分のことが嫌いです。

わたしが自己肯定感という言葉を知ったのは、今から14年前、わたしが20歳の時でした。恐らくですが、その頃は今ほど「自己肯定感」というワードに認知度は無かったと思います。

「どうしてこんなに生きづらいのか」と思って、夜中に泣きながら必死にパソコンで検索をかけて、色々な記事を読んで、出会った言葉「自己肯定感」。

これだ。わたしが欠いているもの。
そう思いました。

その夜からもう14年。わたしは未だにそれを得ることができていない…ように思います。その事実から目をそらしたいのか、わたしは自己肯定感に飢えている自分を感知しない(ようにしている)愚鈍な人間に成り下がりました。

このnoteが母に見つかったら、泣かせてしまうかもしれませんね。亡くなった父も、向こうで充分に安心できないかも。

でもごめんなさい。
わたしはこういう人間です。

いま風邪を引いて体調が悪いので、たまたまこうやって落ち込んでいるのかもしれません。そうだったらいいなと思います。でもわたしは根っからこういう人間だった気もします。吐く場所が無かったから、自分の中に抑えていただけで。

わたしは自分のことが嫌いです。
他人の幸せを祝えない時がある自分が嫌いです。精神的・人間的に未熟な自分が嫌いです。他人の半生と自分の半生を比べてしまう自分が嫌いです、それで誰かを見くだす自分を本当に醜いと思っています。わたしは最低です。何の役にも立ちません。誰の助けにもなれない。

本当は解っています、解っているつもりです。ここで自分を虐げても、なんにもならないと。悲劇のヒロイン振るような自分が心底、気持ち悪いです。でもこうしている間にも、涙が出て来ては、胸が痛くなります。

はっきり言って、うるさいです。他の誰もわたしを罰さないなら、わたしが罰するしかないのです。それなのにわたしの内側に泣いている人がいる。その人のせいでわたしは泣いているし胸が痛いのです。

わたしが書いていることは誰かに理解してもらえるのでしょうか。わたしが言いたいのは、わたしの言うことがどれだけ少ない人にしか支持されないか心配だということです。

noteでは自由に振る舞うとわたしは決めています。誰にも邪魔される筋合いはありません。だから皆さんの目にわたしがどう映るかなんて、わたしにはどうでもいいことだったりします。これはわたし個人の意見ですが、人は自分の見たいようにしか物事が見えませんし、見ません。わたしのこの記事を見てくださったかたの中で、わたしのことをへんなやつだと思うなら、そのかたにとってはそうだし、それが真実です。わたしはそれでいいです。

「ネガティヴ吐いたら、ヤバいヤツ認定されるよ」とご忠告を頂いたこともあります。ありがとうございます。
しかし、それが一体なんだというのでしょうか。他人の目を気にして己を曲げているような余剰時間なんてわたしには無いのです。ヤバいヤツ認定してくる人とは所詮それまでです。装った自分には、装った自分を気に入っている人達が集まってきます。しかし人はいつまでも自分を出せずにいられるわけでもないでしょう。装いをといて自分を出したら、装った自分を好きだった人達は皆、離れていきます。そういう過程を経るのが面倒臭い!だったら最初から素の自分で生きたほうが手っ取り早いし、余計な時間を取られないし、余計な人間関係に悩まされる時間も減ります。

ああもうめちゃくちゃで申し訳ないです。
でも今、わたしはこういう人間なんです。

なんにもならないものを書いてすみません。ただご理解いただきたいのは、わたしはこうやってわたしだけのためにnoteを書くことがあるということです。本当にごめんなさい。どなたからも期待されていないことも知っています。それでもわたしは自分のことを情けないなあと思います。

書いたら幾らか落ち着きました。
次回noteを書く時は、この落ち込みが少しでもましになっているといいなと思います。いや、ましにするように持っていくつもりではありますが、わたしの主治医曰く「人間も自然の一部」とのことでつまり、「どうにかしよう、とするほうが、どうかしている」とわたしは解釈しています。予防線を張るようですみません。

いきなりこんなんで恥ずかしい限りです。でもこれもわたしですし、折角打ったので記事としてあげようかなと思います。ここまで読んでしまったかたがいらっしゃったら、本当に申し訳ないです。

でも、本当にありがとうございます。

眠剤。ぶち込んで寝ます。
おやすみなさい。

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