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【年末特別企画②】B級SF映画と侮るなかれ!年末年始休みに時間を持て余しているなら「ガンヘッド」を見て欲しい。

大ファンだとか、無人島へ1本持っていくならこのビデオだとか、そういう類の「気になる」ではない。・・・そうではないのだが、何年経っても妙に忘れられないSF映画がある、という話を今日はしたいと思う。そして今は年末から年始に向かう時期、コロナ禍も収まりきっていない中での正月休みは、やはり巣籠で過ごそうという方も多かろう。
そこで、テレビもつまらん、netflixも韓流推しばかりで食い切れない、という貴兄に、平成最初期に世へ放たれたSF映画はいかがかな?ということなのだ。
だが、強引に押し込んでいこうという気持ちはない。バブル期の浮ついた日本では、こんな作品も大真面目に製作されていたのだよ、という昔話を聞いていただければ、で書き始める次第だ。

●今やゲイ文化の伝道者である高嶋政伸がまだ青かった時代、それが「ガンヘッド」●
実はおいら、小学校時代は本の虫でもあった。学校の図書室にあった夏目漱石と出会って読書の虜になり、目にすることができる作品を読み切った後に筒井康隆にハマった。今はもう美容室に姿を変えてしまったかつての書店で、店主の親父に面白いと勧められて沼に落ちたのだ。
とにかく一人称が「俺」で、口語調の文体が新鮮だった。なにせ、とっかかりが「私」であり「吾輩」でもあった漱石だっただけに、「俺に関する噂」やら「霊長類、南へ」といった筒井のドタバタコメディはまさに衝撃だった。おいらは父親にテレビを見せてもらえないという子供時代を過ごしていたので、部屋でラジオを聞きながら流れてくるディスコソングに体を揺らし、その傍らで筒井を読み、そこから日本のSF小説をむさぼるように取り込んでいた。小松左京や星新一、広瀬正といった昭和40年代後半から50年代にかけて文庫本化されたSF小説を毎日毎晩読んでいた。そして、宿題を横目に星新一っぽいショートショートを書いては、一人で悦に入っていた。考えてみれば、相当「変化球」な子供時代だったと自分でも思う。まぁ、テレビ全盛の昭和にテレビが選択できないと、こういう方向に行かざるを得なかった、ということだ。

中学、高校とSFだけでなく、書店がポップを作って宣伝するような小説にも手を出すようになり、今度は村上春樹の沼に沈んでいくことになるのだが、時々思い出したようにかつて読んだSF作品をまた掘り出して、などということもしていた。ティーンエイジャーは今も昔も、金がないと相場が決まっているからだ。
そんな不真面目なSFファンだったおいらの前に登場したのが「ガンヘッド」だった、というわけだ。

「ガンヘッド」は、付き合いのあった出版社から、アルバイト感覚で宣伝記事を書いてくれ、と宣材と共にサンプルビデオを渡されたのが出会いだった。1989年=平成元年のことで、今と違い仕事はそこらに腐るほど転がっていたし、本業に穴を開けなければ内職(今は副業と呼ぶんだよね?)をとやかく言われることもなかった。というか、社畜ばかりじゃ仕事をこなしきれない、そんな世の中だったのだ。
そういうわけで、おいらはかなり軽い気持ちでその仕事を引き受けた。半ドンの土曜日を利用して下調べをし、日曜日にそれっぽい記事を書き上げ、月曜に出版社へ原稿を速達で送った。
その時までの「ガンヘッド」の印象は、実写でロボット物なんて珍しいな、というものだった。製作に東宝が絡んでいる、だからゴジラと同じように高嶋政伸がキャスティングされたんだな、というあたりの「さもありなん」感もあり、原稿にはそういう負の空気を滲ませないよう腐心した記憶もある。まぁ、言ってみれば空騒ぎするがごとく盛り上げて、それで内心は覚めつつ書きました、という感じだった。そもそもこの「ガンヘッド」は、どんな客層を想定して製作されたのか?がよくわからなかった。この頃、ウルトラマンは新シリーズの製作が途絶えており(1980年のウルトラマン80が最後で、次は1996年のウルトラマンティガの登場までの「空白の16年」の最中だった)、特撮作品自体が勢いを失っていた。そこに実写のロボット物、しかもテレビ放映されない劇場版だけのメディア展開なので、子供を取り込むことは難しい。結局、物好きな大人「だけ」を狙ったのでは、テレビ側の大プッシュでもない限り巷を席巻することは無理だろうと思っていたのだ。

しかし、仮にも自分が書いた原稿が活字になった縁もあり、劇場公開が始まると何となく気になって、「ガンヘッド」のポスターが貼られた映画館の前を通ると、本編を見てみるか、という気分になった。
そして・・・。

●数多あるB級SF映画の一つに過ぎない、なのにおいらは号泣●
種明かしをすれば、原稿を書いた時の予想そのものの結果だった。何しろ、この年の映画興行成績で「ガンヘッド」は最下位だったのだ。正直、どれほどの駄作でも世に放てばそれなりに金になっていたあの頃にして、それでも金に嫌われた現実が全てを物語っていたと言っていい。
どんな作品だったのか?当時の評価や21世紀になってからの動きについては、こちらを参照いただきたい。


ガンヘッド - wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%B3%E3%83%98%E3%83%83%E3%83%89


あらすじを簡単に書いておきたい。
2025年、世界は高度に発達した産業ロボットなしでは立ちいかない状況になっていた。8JOと呼ばれる島がそうしたロボットの生産拠点とされ、巨大工場ともなっていた。その島を管理する為に導入された巨大コンピューターの「カイロン5」が、突然自我に目覚め、人類に反旗を翻し始める。人類は応戦を決意、8JOはロボット同士がぶつかり合う戦場となるもののカイロン5側が勝利し、島は制圧されロボットの要塞となってしまう。
13年後、金の為にこの島からカイロン5のCPUを盗み出そうとするトレジャーハンターなるグループが潜入するが、そこでカイロン5が世界征服を画策していることが判明し、再び人間対ロボットの戦いが繰り広げられる。
主役の高嶋政伸はトレジャーハンターの一人として登場し、カイロン5と戦う為に量産型ロボットのガンヘッドに乗り込むことになる・・・、これが序盤の展開だ。

まぁ、今ではアニメでも取り上げないかもしれない近未来の物語で、これのどこに涙が出る場面へ向かう要素が?という疑問ももっともだ。
この作品にはミッキー・カーティスや斎藤洋介といった、テレビで一度は姿を目にしたであろう俳優も登場する。だが、彼らは本当に呆気なく死んでしまうので、それが悲しいからか?と言われそうだが、そうではない。

●人間とロボット、ポンコツな「二人」が揃って立ち上がるのが「ガンヘッド」●
高嶋政伸の役名はブルックリン、彼はかつて10日間ガンヘッドの中に閉じ込められ、それがトラウマとなって一人ではガンヘッドを操縦することができないパイロットだ。
一方のガンヘッドは、2025年の戦闘で全滅させられたロボット軍団の生き残りで、8JOに潜入しカイロン5に攻撃された際、ブルックリンが再起動させて13年ぶりに「目を覚ます」ことになる。だが、ガンヘッドはガンヘッドで、戦闘によりCPUが損傷しており、自分では動くことができない。
そんなパイロットとロボットが、まさに二人左脚でカイロン5へ挑んでいく物語だ。

ガンヘッドにはAIが搭載されており、一人で操縦できないブルックリンと会話しながらフォローする関係となるが、そのキャラクター設定が絶妙だ。
というのもこのAI、野球が大好きで、しかもドジャースの大ファンだ。ロサンゼルス移転後はもちろん、それ以前のブルックリン時代も含め、すべての試合結果をデータとして抱えている。更に、彼はコンソールにメッセージやプログラムを表示するのだが、Dの文字だけがドジャースのロゴの書体になっているという凝りようで、こうした細かい演出にリアルな野球ファンも頷いてしまうわけだ。
SFものでは、よくコンピュータと人間の接点として「郷愁」をモチーフにすることがある。ガンヘッドではそれが野球でありドジャースになっている、ということなのだ。
実はこの物語の世界はポストアポカリプス=大戦後の世界となっていて、ドジャースなど既に影も形もない。そんな荒廃した世の中になっている。だから余計に、失われた過去を大事に抱えるガンヘッドのAIが愛おしく見えてくるのだ。
そんなドジャース狂のAIとコンビを組む人間の名前がブルックリン、これがまた心憎い。ブルックリン・ドジャースと言えば1950年代までの古きよき時代の記憶として、特にアメリカ人には郷愁を誘うワードになっている。それを抱えた人間とAIが揃ったのだ、うまくいかないわけがない、という空気ができあがる。

ガンヘッドAIは、ブルックリンとの会話にも野球を持ち出す。通常時は、2001年宇宙の旅のHALのように無機質で確率論を盾にするだけの「食えない奴」だが、一たび窮地に立たされると、いきなり人間臭いことを言い始める。
追い詰められ、ガス欠で立ち往生となった時、ブルックリンは単身でカイロン5へ突撃しようとするのだが、それをAIはこう言って止めるのだ。
「確かに確率で言えば9回裏2アウトで勝ち目はない、だがそんなものクソくらえでしょ」

しかもガンヘッドは、基本は戦車なのだが、なぜか立ち上がって戦うこともできる。全くもってそんな機能は無用なので、あくまでも立ち上がったら見栄えがする、単純により戦闘ロボットらしくてカッコいい、プラモにしたら売れるんじゃないか、といった製作側の都合だけを盛り込んだ設定にさえ見えるのだが、この立ち姿はロボットにとって「埃り」だ、とAIに言わせている。
そして、いよいよ最終決戦となり、カイロン5へ突撃しようとする際に、ブルックリンが
「俺たちがどんなにすごいか、カイロンに思い知らせてやろうぜ!」
と叫ぶ。
するとAIが
「最後に一つだけ。死ぬ時はスタンディグモードでお願いします」
と一言。
これにブルックリンはこう答える。
「You got it,Buddy!(おうよ!相棒!)」

おいらが号泣したのはこのシーンだった。
暗く鬱な世界観で進むこの映画に、まさかこんな胸がアツくなる展開が終盤に待っていようとは。
おいらがこうしたSF映画に精通しているわけでもないので大したことは言えないが、人間とロボットのバディ物など聞いたことがない。その意外性や斬新性、そしてブルックリンとAIがかわす会話の一つ一つがこれでもかと心に刺さって来る。この不思議な魅力を、もし時間と金に余裕があるなら貴兄にも味わってほしい、そんな思いでこの記事を書いている次第だ。

●売るのは難しい作品だった●
「ガンヘッド」は製作陣がそれぞれにやりたいことを持ち寄って、という部分が最大の障害になってしまった。監督の原田真人はアメリカで監督修業をした経緯から、「ガンヘッド」をハリウッド的な作品に仕上げたかったようだ。だが、当時のSFと言えばエイリアンが代表格で、監督もそういう作風でいきたかったのかもしれない。その為、ウルトラマンなどのように明るい中で巨大ロボットが暴れるというものではなく、非常に暗く見にくい中で人がごそごそ動くようなカットが多くなってしまっている。一方、製作に噛んでいたサンライズはとにかくロボットを動かしてプラモなどの商品販売につなげたいという思惑があった上、特撮班はゴジラっぽい映画を目指していたようで、これではまとまるものもまとまるわけがなかった。
悲しいのは、粗削りであるからこそのよさもあっただろう若き高嶋政伸の演技が、一歩引いて見ればただただ大根で、どうしてもセリフ回しの下手さが鼻についてもしまう。
そして本当に残念だったのは、1989年にはまだ「大きな友達」が今ほど多くはなかったことだ。わざわざ映画館まで行って、実写のロボット物を見ようという野郎が圧倒的に少なかった。おいらが、誰を標的にしてこの映画を作ったのか?と訝しがった点が、結局モロに興行成績最下位という現実になってしまったと言っていい。

「ガンヘッド」への気合の入り方は、原作なしのオリジナル作品で立ち上がった事でもよくわかる。だが、それゆえに説明不足に終始してしまう点は否めない。原田監督のきめの細かい演出は伏線となって随所にちりばめられているのだが、暗いトーンの絵面も相まって、本当に注意していないと見ている側はどんどんスルーしてしまう。
特撮も印象的で、実際に火薬を使ってのシーンなどは被弾した「痛み」を感じるほどに生々しいものだ。更に、ゆくゆくは海外展開も視野に入れていたのか、日本語と英語が混在するセリフが頻発し、英語部分は字幕も追わねばならない為、慣れていない人には相当厳しい視聴環境になっていたはずだ(この世界の核になる部分も英語で語られることもあり、ただでさえ見にくい画面で字幕も追え、は罰ゲームに等しかったのではないか?)。

令和の今なら、これほどアイディアが盛り込まれ、収拾がつかなくなった映画であっても、うまくコントロールして万人受けする作品にできたかもしれない。例えば、サンライズが望むロボット大暴れを叶える為に、冒頭からガンガン戦闘シーンを挿入し、落ち着いたところで本編スタート、なんていう手法も普通に展開できる。だが実際の「ガンヘッド」はなかなかロボットが出てこないまま前半部分が進んでしまう。このあたりの機転がきかない感じが、とにかく惜しい。そういう意味で10年、いや20年早過ぎた映画だったと言わざるを得ないのだ。

●あわよくば再評価を、そしてCGも使ったリメイクを●
柄にもなくアツく語ってしまった。
あまり熱を込めて書いてしまうと、これにほだされてレンタルビデオで見てしまった方はがっかりするかもしれないから、と己を諫めていたのだが、それでもこんな長文になってしまった。反省しきりである。
しかし、30年ちょっと前の映画製作現場には、こんな試みもされていた、ということを是非わかって欲しいと思う。実写ロボットものと言えば、今では東映の戦隊シリーズが代名詞になっていて、オリジナル作品にまで駒を進めようという動きは皆無だ。
だが、実写ならではの迫力は何物にも代えがたい。油まみれになる主人公の姿は、それだけで共感を呼ぶものだが、それさえも目にしなくなって久しいのが実情だ。
「ガンヘッド」にはロボットものが好きな「大きな友達」のみならず、サイバーパンクな世界が好きな貴兄にも訴えかけるパワーがある。同年代のSFで言えばシュワちゃんのターミネイターが代表格だが、80年代末期だからこそのどこか素朴で、限りなく手作業な製作現場の空気が、令和の今は失われてしまっていることも感じ取れるだろう。
願わくば「ガンヘッド」の再評価を、そして現代の技術をふんだんに盛り込んでのリメイクを切に願ってやまない。

ブルックリンとAIのやりとりに、再び脚光を浴びせて欲しいのだ。

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