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【レスリー・マッコーエンの死を悼む】Saturday Night - Bay City Rollers【2007年の記事を再掲】

Saturday Night - Bay City Rollers
https://www.youtube.com/watch?v=57g5Z_3kXOE

ベイ・シティ・ローラーズのボーカル死去 65歳

 英国のポップグループ「ベイ・シティ・ローラーズ」で全盛期のボーカルだったレスリー・マッコーエンさんが20日、死去した。65歳だった。遺族が22日、「自宅での突然死だった」とツイッターで明らかにした。死因は公表されていない。1970年代のヒット曲「サタデイ・ナイト」やカバー曲「バイ・バイ・ベイビー」などで知られる。


 55年生まれ。英ガーディアンによると、スコットランドのエディンバラで育ち、73年にベイ・シティ・ローラーズのボーカルになった。アルバム「エジンバラの騎士」で人気に火が付き、日本でも「ローラーズマニア」と呼ばれる熱心なファンを生んだ。


 トレードマークはタータンチェックの衣装だった。グループで1億2千万枚のレコードを売り上げた。マッコーエンさんは78年にグループを離れ、ソロ活動もした。日本での人気も高く、来日公演も多かった。


 2013年に「私たちは労働者階級出身の若者で、最も目指していたのは世界で公演し、自分たちの曲やスコットランド、タータンチェックを有名にすることだった」と振り返ったという。


 日本では、「サタデイ・ナイト」が替え歌でカバーされた「PECORI♡NIGHT」(Gorie with Jasmine&Joann)も人気になった。(ロンドン=金成隆一)

https://www.asahi.com/articles/ASP4R2PXJP4RUHBI003.html?ref=mixi


Saturday Night/Bay City Rollers
(サタディ・ナイト/ベイ・シティ・ローラーズ)

S A T U R D A Y night!
S A T U R D A Y night!
S A T U R D A Y night!
S A T U R D A Y night!

ど・よ・う・の・よ・る・だ・よ!
ど・よ・う・の・よ・る・だ・よ!
ど・よ・う・の・よ・る・だ・よ!
ど・よ・う・の・よ・る・だ・よ!

Gonna keep on dancin' to the rock'n roll
a Saturday night, Saturday night
Dancin' to the rhythm in our heart and soul
a Saturday Night, Saturday night
I,I,I,I, I just can't wait,
I,I,I, I got a date

ロックンロールで踊り続けるんだ
土曜の夜に、土曜の夜に
身も心もロックのリズムに浸して
土曜の夜に、土曜の夜に
僕、僕、僕、僕、待ちきれないよ!
僕、僕、僕、デートの約束したのさ!

At the good ole rock'n roll road show, I gotta go
Saturday Night,Saturday Night
Gonna rock it up, roll it up, do it all, have a ball,
Saturday Night,Saturday Night - - -
It's just a Saturday Night - -
It's just a Saturday Night - -
It's just a Saturday Night - -

古きよき時代のロックンロール・ショーへ、行かなきゃ
土曜の夜に、土曜の夜に
ロックンロールを踊って、皆集まって、できること全部やって、パーティ開いて
土曜の夜に、土曜の夜に
今夜が土曜の夜なんだ
今夜が土曜の夜なんだ
今夜が土曜の夜なんだ

S A T U R D A Y night!
S A T U R D A Y night!
S A T U R D A Y night!
S A T U R D A Y night!

ど・よ・う・の・よ・る・だ・よ!
ど・よ・う・の・よ・る・だ・よ!
ど・よ・う・の・よ・る・だ・よ!
ど・よ・う・の・よ・る・だ・よ!

Gonna dance with my baby till the night is thru
a Saturday Night, Saturday Night
Tell her all the little things I'm gonna do
a Saturday night, Saturday Night
I,I,I,I, I love her so
I,I,I, I'm gonna let her know

彼女と一緒に踊るのさ、夜が明けるまで
土曜の夜に、土曜の夜に
どんな些細なことでも、僕のすることをあの子に伝えるのさ
土曜の夜に、土曜の夜に
僕、僕、僕、僕、彼女が大好きさ
僕、僕、僕、それをわかってもらうのさ

At the good ole rock'n roll road show, I gotta go
Saturday Night,Saturday Night
Gonna rock it up, roll it up, do it all, have a ball,
Saturday Night,Saturday Night - - -
It's just a Saturday Night - -
It's just a Saturday Night - -
It's just a Saturday Night - -

古きよき時代のロックンロール・ショーへ、行かなきゃ
土曜の夜に、土曜の夜に
ロックンロールを踊って、皆集まって、できること全部やって、パーティ開いて
土曜の夜に、土曜の夜に
今夜が土曜の夜なんだ
今夜が土曜の夜なんだ
今夜が土曜の夜なんだ

S A T U R D A Y NIGHT!
S A T U R D A Y NIGHT!
S A T U R D A Y NIGHT!
S A T U R D A Y NIGHT!
S A T U R D A Y NIGHT!
S A T U R D A Y NIGHT!

ど・よ・う・の・よ・る・だ・よ!
ど・よ・う・の・よ・る・だ・よ!
ど・よ・う・の・よ・る・だ・よ!
ど・よ・う・の・よ・る・だ・よ!
ど・よ・う・の・よ・る・だ・よ!
ど・よ・う・の・よ・る・だ・よ!

It's just a Saturday Night, It's just a Saturday Night,
It's just a Saturday Night, It's just a Saturday Night,
It's just a Saturday Night, It's just a Saturday Night,
It's just a Saturday Night, It's just a Saturday Night,

今夜が土曜の夜なんだ
今夜が土曜の夜なんだ
今夜が土曜の夜なんだ
今夜が土曜の夜なんだ

<対訳>多々野親父

日本における洋楽振興の旗振り役という観点で言えば、1970年代前半がカーペンターズ、そして1970年代後半、・・・というよりも1975年から1977年にかけての約3年はベイ・シティ・ローラーズということになるのではないでしょうか。特においらと同年代、もしくはお姉様の世代にとって、彼らは忘れられない存在になっているはずです。・・・違います?

とにかく、ベイ・シティ・ローラーズの人気はものすごいものでしたね。イギリスのアーティストでファンからヒステリックな声援を浴びたと言えばビートルズが真っ先に思い浮かびますけど、彼らの現役時代を知らないオイラにとっては、来日公演の為に降り立った羽田空港に2000人?もの女性陣が押し寄せて、歓声やら嬌声やらを挙げながら、感激のあまりすすり泣いてもいるという阿鼻叫喚の図の方が遥かに印象深いです。何せ、この模様はニュースで報じられましたからね。それは本当にセンセーショナルな出来事でしたよ。

ベイ・シティ・ローラーズの最盛期を小学生として過ごしたおいらは、女性陣が教室に持ち込んだタータンチェック模様の下敷きやらノートやらの群れにも目を白黒させたものです。この頃、ジャニーズはフォーリーブスがメインで、男性アイドルと言えば郷ひろみや西城秀樹、野口五郎あたりがメインストリームでした。この他になると、田川陽介とか・・・、そんな感じでしたよね。
で、日本人歌手ならテレビをつければどこかで目にすることができた為、野郎どもも彼らのイメージなら簡単に持つことはできました。けど、相手がベイ・シティ・ローラーズとなると話は大きく変わってきます。滅多にテレビには登場しないし、・・・まぁ、洋楽番組自体が皆無でしたからねぇ、ということで情報源は限られていたし、敢えてお金を使わないとベイシティローラーズって何?という質問の答えを得られなかったわけです。この適度な枯渇感が、アイドル好きの女の子達の魂に火を付けたんでしょうし、野郎どもには追従するかお手上げにするかのニ択を迫られる事態を生みましたよ、ということでした。

従って、ブームの渦中で好きな子がローラーズ病にかかってしまったヤツは特に悲惨でしたよね。その子と何か話をする為には、メンバーの名前やら曲名を覚えることが必須だったし、明星、平凡といったアイドル雑誌になけなしの小遣いをこっそり投資して勉強しなけりゃダメ・・・、更に、思うあの子がギャーギャー騒ぐ姿に幻滅までして、それが理由でひっそりと片思いに終止符を打った、なんていうケースもあったし(まぁ、教壇の上に乗ってホウキ片手にエリックのマネ!とかやり始めたら・・・、ねぇ?)。そういう意味で、ベイ・シティ・ローラーズは罪作りな連中だったと言うこともできますよね、ええ。

更に個人的な話をすれば、毎週土曜日に愛聴していた日本版全米Top40の中に「チャッピーのポップスレポート」が登場し、・・・これがベイ・シティ・ローラーズ中心のコーナーだったので、オイラは知りたくもないのに彼らの動向を頭の中に刷り込まれていくことになりました。で、例えば隣の席に座っているタータンチェック筆箱を持っている女の子と世間話をしている時に、ついつい言わなくてもいいネタを教えてしまい、放課後になるとフリーク達に囲まれたりもして。傍目からはモテているとでも見えたでしょうが、当人にとってみれば好きでもないバンドのことをあれこれ聞かれるなんて、複雑な心境の極致でしたね。しかも、ネタが無くなればあっという間に自分が彼女たちの興味から外れることもしっかりわかっていたので、その萎えっぷりも半端ではありませんでした。だから、このベイ・シティ・ローラーズのブームって、何と言うか、女の子に対する概念がまるっきり変った期間だったと言えるかもしれません。こういう人、多いんじゃないかなぁ。

しかし、日本だけでなく全世界の女の子が何故にあれほど熱狂したのか、今となってはもうよくわからなかったりします。多分、最も人気を集めたのはボーカルのレスリー・マッコーエンだったと思いますけど、別に絶世の美少年という感じではなかったし(ってか、オジサンでしたよね、かなり)、レスリーに対して妙にライバル心を燃やしていたギターのエリック・フォークナーなど、イギリスに行けばどこにでもいるお兄ちゃんという感ひしひしだったですし。自分の席の隣に座っていた女の子はベースのウッディ・ウッドがいいと言ってましたけど、うーん、まぁ、彼だって普通でした(この人、1980年代に入ってから、ポルノ男優やってましたよね?)。ってか、カッコよさなら(時代は少し前後しますけど)ベイビーズのジョン・ウェイトの方が遥かに上だったんじゃないかと。
ただ、ポップスバンドとしての能天気さには溢れていましたよね(それは、口パクがバレても問題なし、みたいな部分も含みます)。で、1970年代中期の音楽には、そういう突き抜けた明るさみたいなものが決定的に欠如していたことも確かで、このあたりの隙間をうまく彼らが埋めていた部分はあったのかもしれません。

しかし、ベイ・シティ・ローラーズの歴史って実はかなり古かったりします。その前身を溯ると1965年にアランとデレクのロングミューアー兄弟を中心として結成されたサクソンズというバンドにまで行きつくんですね。
ベイ・シティ・ローラーズと名乗り始めるのは1968年のことで、ここからしばらくの間、このバンドはエジンバラ周辺のライブハウスなどで音楽活動を行っていきます。そんな彼らのパフォーマンスを1970年にケイ・クラブで偶然目にしたのがベル・レコードの重役で、これをきっかけにレコーディング契約が結ばれることになります。そして1971年に「朝まで踊ろう(この曲のプロデュースはジョナサン・キングで、ジェントリーズというバンドのカバーバージョンだった)」でレコードデビューを果たします。この曲はイギリスのチャートで最高位9位をマークしますが、ベイ・シティ・ローラーズはメンバーの出入りが激しく、それが足を引っ張った部分もあったのか、なかなかトップバンドの座を射止めるまでには至りませんでした。

我々の記憶に深く刻まれているレスリー・マッコーエン、エリック・フォークナー、スチュアート・ウッディ・ウッド、アラン・ロングミュアー、デレク・ロングミュアーの5人組になったのは1974年のことでした。この陣容になったのと合わせて、ベイ・シティ・ローラーズには作曲家コンビのビル・マーティン&フィル・コールスターとタッグを組む体制が出来上がり、これがブレイクへの大きな一歩となっていきます。
イギリス中でベイ・シティ・ローラーズの名前が鳴り響いたのは、フォー・シーズンスのカバーだった「バイ・バイ・ベイビー」が6週間も1位を走った時で、これに合わせてティーンの女の子は彼らに嬌声を挙げるようになっていきます。更に「ふたりの純愛」も1位を獲得するなど、ベイ・シティ・ローラーズは1975年になっていきなりこの世の春を満喫することになるんですね。

しかし、アメリカでは苦戦が続きました。ベル・レコードのアメリカでの販売権はアリスタ・レコードが持っていましたが、ベイ・シティ・ローラーズがイギリスでヒットさせた曲は、アメリカのマーケットでことごとく失敗してジリ貧状態になっていきます。そこでアリスタのクライブ・デイヴィスはベイ・シティ・ローラーズで勝負を賭ける際、イギリスでの実績は無視して、単純にアメリカでウケそうな曲をシングルカットすることを決めます。ここで選ばれたのが「サタディ・ナイト」だったのでした。
合わせてアリスタでは、大々的なプロモーションをかけてベイ・シティ・ローラーズの認知度を上昇させる作戦を断行します。その中で最も大きかったイベントが、ABCテレビで放送していた「サタディ・ナイト・ライブ・ウィズ・ハワード・コーセル」のプレミアム・ショウに、イギリスから衛星中継で出演するというものでした。番組タイトルにマッチした曲を歌う白のジャケット(・・・というか洋ラン?)にタータンチェックの縁取りを施したコスチュームを着た面々に、この時からアメリカの女の子達も注目するようになっていきます。

クライブが施した戦略は見事に当たります。「サタデー・ナイト」は1975年10月11日に85位でHot100に顔を出すと、11月8日には念願のTop40入りを果たします。そしてここから36位→27位→17位→11位→9位→5位→4位→2位とチャートを駆け上がり、年が変わった1976年1月3日に全米1位を獲得したんですね。
以降、ベイ・シティ・ローラーズは「マネー・ハネー(最高位9位)」、「ロックンロール・ラブレター(最高位28位)」、ダスティ・スプリングフィールドのカバーで日本ではTBS系朝の情報番組「はなまる」のオープニングテーマでも知られている「二人だけのデート(最高位12位)」と、この年に合計4曲ものTop40ヒットを放つことになります。もう、完全にアメリカのガールズはベイ・シティ・ローラーズの虜になっちゃっていたんですね、これが。前年までの不振が嘘のような快進撃でしたが、しかし1977年になると風向きが大きく変わり始めていきます。そう、お家芸とも言えるメンバー交代の嵐が吹き荒れたんですね。まず、最年長だったアランが脱退し、イアン・ミッチェルが加わるもすぐに脱退、彼に代わってパット・マッグリンが加わるものの、やはり短期間でベイ・シティ・ローラーズを離れるというドタバタ劇が起きてしまったのでした。
それでも、レコードの方はひとまず7月から9月にかけて「夢の中の恋(ちょっとAORっぽい雰囲気も携えた曲でしたね。最高位10位)」がヒットし、まだまだ人気継続中の雰囲気を醸してはいましたが、1978年1月に最高位24位をマークした「ザ・ウェイ・ユー・フィール・トゥナイト」を最後に、結局チャートと無縁の状態に突入してしまいます。
そしてこの年の秋、フロントメンバーにして人気の源泉でもあったレスリーが日本公演を終えたところでベイ・シティ・ローラーズを脱退したことがトドメとなって、結局1981年に彼らは解散を選択することになるんですね(レスリーの代りにダンカン・フォールが加入していたが、どんな顔だったか思い出せない・・・)。

しかし、モンキーズを初めとする多くのアイドルバンドがそうであるように、ベイ・シティ・ローラーズも折に触れて再結成を繰り返しているようで、テレビで「あの人は今」系の企画が組まれれば、何度かに1回は彼らの様子が取り上げられたりもする存在となって、今に至っています。
2007年3月21日には、アリスタ・レコードが不当に安い印税しか支払っていないということで、かつてのメンバーが訴えを起こすというニュースも流れました。当時は全米1位を1曲でも出せば一生食べていけると言われた時代でしたけど、その中にあって約22万ドルしか支払われていなかったことを今になって掘り返したというわけです。その記事の中に、レスリーは音楽活動を続けているが、他のメンバーは配管工などで生計をたてている、という彼らの現状がおまけのように小さく報じられていました。気がつけば、あの「タータン・ハリケーン」から30年以上が過ぎているんですよねぇ。

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