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フジコ・ヘミングの演奏から受け取ったイメージと音楽観

 フジコ・ヘミングと聞けば、私は真っ先に月の光の名演を思い浮かべる。奥深く、人間味に溢れたぬくもりと哀愁を兼ね備えた音色は、全てを許容し包括するように私の心を癒してくれる。

今回の記事では、彼女のコンサートに初めて一人で足を運んだ高校二年の冬に書き残していたメモから、当時の記憶と感覚を整理しようと思う。

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 ドビュッシーの音楽を一層好きにさせてくれたピアニストが地元長野でコンサートをするという知らせを受け、すぐにチケットを購入した。高校生のなけなしのバイト代には少々高値であったが、毎日胸を弾ませる気持ちで当日を待っていたことを考えるとそれだけで満足できる程であった。

 

 イタリアのヴァイオリニスト、ヴァスコ・ヴァッシレフとの共演で、コンサートの幕開けは彼のシャコンヌのソロ演奏であった。私はオーケストラでは馴染みがあったものの、ヴァイオリンだけの生音をコンサートホールで聴いたのはこれが初めてであり、その力強さと繊細さのバランスに驚いた。そのすぐ後に続いたパガニーニでは、ヴァイオリンが怒り泣いているような激情を感じ取った。

 パガニーニの演奏を終えたところで拍手に包まれながらフジコヘミングが登壇し、スカルラッティのソナタ・英雄ポロネーズ・革命のエチュード・ラ・カンパネラ・タイスの瞑想曲と順々にプログラムが続いていく中で、響きに対する彼女の一貫した感性を私なりに感じ取ることが出来た。その皮切りになったのは第一幕の中盤にあった英雄ポロネーズの演奏である。

私は以前からこの曲に対し、華やかで今を時めくような英雄が、酒場で自分の過去の武勇伝を声高らかに力説するような映像を思い描いていた。それに合わせ、頭の中で思い描くのは煌びやかで圧倒的な演奏であったため、彼女の演奏は意外であった。

 決して音につややハリが無いというわけではなく、音粒一つ一つは輝いているものの、その輝きはぎらぎらと強い光を放つものではなく、品のある光のようで、どこか一枚ガラスの向こう側のような遠鳴りの印象を受けた。

もしかしたら彼女は弾きながら、遠い記憶の中に大切に仕舞ってある、思い出や景色を思い浮かべていたりするのではないだろうかと感じた。それは少女の頃のものであり、今もなお彼女の中で優しく煌めいているのかもしれない。そんな風に、彼女が過ごしてきた時の流れを感じさせるような響きであった。

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▶画像は会場に展示されていたフジコへミングが描いた猫と自身の肖像画

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 芸術には様々な視点があり、中には解釈の余地を与えるような作品・人間らしい揺らぎを感じさせる作品はよくないという考えがあることも最近になって知ったことであるが、私はそうは思わない。

芸術における核心部は共感・共鳴であり、受け取り手の想像力を掻き立て、心を揺さぶり、豊かにするような作品こそ大切に残されて欲しいと感じており、芸術が長きにわたって人々に愛されてきた理由なのではないかと考える。


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