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暗闇の中に落ちる時㉕

※注)これは、2020年から私の身の上に起こったことを
思い出しながら、それを乗り越えるまでの経緯を
書き綴っているお話です。
先の事はわかりませんが、今現在はたくさんの出来事を超えて
新たな課題と共に元気に生きています。

(2021年4月)
2021年の春を迎え、手術を終えて一年経った私は身体も随分回復して、無理ない範囲で元気に仕事も行けていた。 
そのころの私は、気持ちだけは落とさないようにと、毎日できるかぎり元気に少しでも活動するように心がけていた。

とはいえ、そんな風に日々自分を元気づけながらも、やはり心はグラグラしていて、度々同じ病で失った父や友の事を思いだしては落ち込んだり、子供の顔を見るのが辛くて泣き、少しの体調の変化にビクビクしたりしていた。

精密検査を一年に一回はしなければならないという病院の決まりがあり、検査を受ける事に…。

前回の血液検査はなかなかよい数値だったので、緊張しながらも大丈夫だと信じたい自分がいた。

検査の内容は、血液検査、内診、細胞診、CT、MRI、胸のレントゲン、尿検査、心電図などなど。

どこもかしこも混み合っている中、待ち時間なども上手く考えながら、検査室をぐるぐる周る。
そのへんは思いつきの一人旅体験が生かされてか、手慣れたもので旅行中の飛行機や電車の乗り継ぎのように、少し計算しながら要領よく回って行く。いかに無駄な時間なく動けるか…どうでもいいけど(笑)割と得意な分野だ。

そういえば以前、地元の病院で受けたMRI検査では、宇宙的に狭い空間に閉じ込められたので、そのトラウマもあり、この検査は正直避けたい気持ちが大きいかった。でもこの時はさすが大きい病院!…なのか、こちらは最新機器が揃っていて、閉所恐怖症の私でも快適に終える事ができた。

難なく検査も終え、数日後に結果を聞きに行く。

勘が効く私だから、もうすでに胸がモヤモヤしている。家を出て歩きながら一生懸命思いを切り替えようとしても、どこか心当たりがあるのか落ち着かない。
ま、いつもの事だ。『血液検査の時だっていつもそうではないか。でも結果オーライの日もあったじゃないか。私の勘なんて当てにはならない。大丈夫。大丈夫。』そう思って診察室に入った時の先生の顔を見た瞬間『あ、あかんか…』ってすぐさま察知できた。

第一声『今日は言いにくい結果を伝えなければなりません。』から始まった。

『左右の腸骨内リンパ節と骨盤に再発、転移が見られます。術後からも言ってましたが、頸がんで子宮を全摘した後の再発、転移は非常に難しくて、できる事があまりないです。やれる事は…
①再発部分に放射線をして同時に抗がん剤をする方法
②分子標的薬の抗がん剤のみを使用した治療
この二択になります。 あなたの場合でこの病院で受けれる薬は2、3種類と少ないので、ひとまず始めて、合わなければ変えていく方法ですが、変えていく回数はあまり多くないです。』

この後、リスクと副作用の説明があり、
この説明には恐怖しか感じず、全身で拒絶している自分がいる。

リスク、副作用は100%ではないし、それを差し引いても、やらなければ思ったより短い人生になると言う説明だ。

標準治療に関しては1年間、毎回の検査で先生が私に進めてきた事だった。それでも私は逃げてきた。今回は最後通告だった。先生も流石に「もう断る理由がないところまで来ましたね」って雰囲気だ。

そこまでゴリ押しするくらいだから、やれば治癒するのか?そんな希望も感じながらふと聞いてみた。

『これやると、治る可能性はありますか?』

答えはノーだ…。

『では、この治療をするとどれくらい?やらなければどれくらい生きられる?』

数多くいる先生の患者さんの今までのパターンだと、同じように再発、転移した場合の統計としては、やらなければ1年くらいで症状が悪化して、だんだん身体も弱り…って感じらしい。
治療した場合でも、私の場合は治すための治療ではなく、延命治療になるとのこと。そして、それで2年ほど延命できるくらい…だそう。

先生の患者さんでは1人だけ、再発の後、首にも転移したけど、分子標的薬を使用して今でも元気にしている人がいると説明を加えた。

『数百人いる先生の患者のうちたった1人だけ?そして命を延ばすたった2年の為に辛い治療するのか…。』心の声が聞こえる。

『いやでも、あくまでま目安だしね。希望はあるかもだし。
やらなきゃ1年???やっても2年???早すぎる。まだ準備できてないよ。どうする私?』

この時点で一瞬にして人生のシャッターがガラガラガラと閉まって行く感じだった。

少しの沈黙の後…『ひとまず持って帰って、治療するなら早めに始めた方がよいので、ご家族とも話し合って、来週どうするか教えてください。』

あー…先生の声が遠くに聞こえる…。

胸が破裂しそうだ。嘘だと言ってくれ。
平常心を保ちながらも、小刻みに震える。流石に転落の幅が大きかった。回復までに積み上げた何かが地に落ちる。また、振り出しに戻った気分だった。

ひとまず、子供達以外の大人には伝えて、今後の話をする。重い空気が辺りを覆う。

泣いても仕方ないけど、涙は勝手に出るもんだ。もう限界かな。
どうすればいい? 治療して延命するか、治療しないで自宅でできる方法にかけるか。考えても答えはでない。
治療だって他のところに行けば違う方法があるはすだ。

MRIだけだと、まだわからないところもあるみたいだし、もう少し詳しく確実に確認する為にも、他にも方法があるはずだ!と、セカンドオピニオンもかねてPET検査を受ける為に更に大きな病院の予約を入れた。

そこからはセカンドオピニオン先を探したり、他の治療法もある病院探しが始まった。抜け道はあるはずだ。

とにかく動いてないと、気がどうにかなりそうだ。やるだけやって色々な方向からの話を聞いて、決めればいい。
焦るな!…いや、時間あんまりないんだよね。 追い詰められるってこんな感じ。逃げ場がないところまで、追い込まれてしまった。

やはりどこか能天気だったよね…私。

毎日、毎日情報収集と、1人になると不安しかなくよからぬ事しか頭によぎらないから、母や友人、そして旦那さんと話して気を落ち着かせる。検査や得た情報の報告だけでも、この時期はただ話す事がどれだけ助けになったかは言うまでもなく。

表面では落ち着いた雰囲気に装いながら、家事や子供の世話はやっていた。
外出した先での、あまり知らない人には、こんな話はできないし、恐ろしくてあまり触れないようにしていた。
帰宅するとまた現実に戻る。
装うほどに、内側は嵐で吹き飛ばされてボロボロになっていた。。。

身内と呼べる人達が揺れ動く私に付き合ってくれた長い時間。ほんとにあの時期の私にはその壁を乗り越えるすごいサポートだった。

話す事で自分の状況やコンディションがよく見えた。話しの中で新たな情報を得たりヒントを得たり。
とにかくピン!ときたら問い合わせて予約して動きまくった。

必要な情報が載っている記事や本もたくさん読んで答えを探していた。

きっと営業の仕事してたら、いい成績取れそうな、そのくらいの感じで必死に動き回っていた。

今思えば、ただ『大丈夫ですよ。それで治りますよ。』『生きれますよ。完治した人いますよ』『新しい治療法ありますよ。身体もそんなに負担なく治癒しますよ』って、誰かにそんな証明書をもらいたかっただけだったのだ。


…次回に続く

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