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大和名所図会 巻三

この note では『大和名所図会』の挿絵ページを翻刻します。本文ページは大正時代の活字版があるのでそちらを参照してみてくださいね。👀 → 国立国会図書館デジタルコレクション『大日本名所図会 第1輯 第3編』(大正8年)

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会3』 5/65

古今
西大寺のほとりの柳をよめる

あさみどり いとよりかけて 白露を
  玉にもぬける 春の柳か
             僧正遍照

※ 「古今」は、古今和歌集。

青柳で遊ぶ幼児を肩車する少年と
煙管片手に話しかける旅人
出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会3』 6/65

西大寺さいだいじ
夫木
 さりともと 西の大寺 頼む哉
   そなたの願ひ ともしからしを
          殷冨門院 

※ 「夫木」は、夫木ふぼく和歌抄。
※ 「殷冨いんぷ門院もんいん」は、平安時代後期から鎌倉時代初期の女院。後白河天皇の第一皇女、亮子りょうし内親王。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会3』 7/65

西大寺さいだいじ
添下そうのしも郡 西大寺村にあり。南都七大寺 其一なり。人皇四十六代 孝謙かうけん天皇の 勅願ちよくぐはん にして、天平 神護しんご寺元年、伽藍がらんこと/\く 成就じやうじゆしけり。(拾芥抄)

孝謙帝かうけんてい高野こうの天皇とも申奉りき。されば 高野寺とぞ名づけられたり。仁明天皇は、此寺を 崇敬すうけうありて、兠卒とそつ天宮てんきうとも仰られき。(類聚國史)

開山は、釈常騰しやくのじやうとうとかや。實敏じつびん大僧都は此寺に於て、三ろんしうひろめ給ひしよりながく伝へたり。(釈書)

※ 「拾芥抄しゅうがいしょう」は、室町時代の有職を中心とした類書。
※ 「類聚るいじゅ國史こくし」は、平安時代前期に編纂された史書。編纂者は菅原道真。
※ 「釈書しゃくしょ」は、仏教の書物。釈典。
※ 「兠卒とそつ天宮てんきう」は、仏教の世界観における天界のひとつ。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会3』 8/65

秋篠里あきしのゝさと
壬二
 長き夜の いこまおろしや 寒からん
     秋篠の里に 衣うつ也

秌篠や 庄屋さへなき 村しぐれ
     凡兆

秋篠の里に響く衣を打つ音

※ 「壬二」は、壬二みに集。
※ 「いこまおろし」は、生駒颪いこまおろし。冬に生駒山から吹き下ろす風のこと。
※ 「秌篠」は、秋篠あきしの
※ 「村しぐれ」は、晩秋から初冬にかけて、ひとしきり降ってはやみ、やんでは降る小雨のこと。むら時雨しぐれ
※ 「凡兆」は、江戸中期の俳人、野沢のざわ 凡兆ぼんちょう

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会3』 9/65

秋篠里あきしのゝさと
類字名所集に平群へぐりぐんとあり。今、添下そうのしも郡也。

※ 「類字名所集」は、類字るいじ名所めいしょ和歌集のこと。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会3』 10/65

陵圖考曰
垂仁すいにん天皇 みさゝぎあざな 宝来山といふ。

※ 「陵圖考」は、天明八年(1788年)に出版された『大和御陵図考』のことと思われます。
※ 「垂仁天皇陵、あざな 宝来山」は、宝来山古墳のこと。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会3』 11/65

菅原すがはら天神てんじん社 菅原寺すがはらてら
続千載
 子規 しばしやすらへ 菅原や
    ふしみの里の むら雨の空
            定家

※ 「子規」は、ほととぎすの別名。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会3』 12/65

伏見岡ふしみのをか
ひざへきて 眠りくらふる 蝶々かな
            ●●

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会3』 13/65

唐招提寺 南都七寺の其一也
𦾔號きうがうは、建初律寺、天平宝字三年の建立より、今一千廿余年に至る迄、炎上ゑんじやうさいなし。一度も作りかへず。古代の 伽藍がらんにして、世に たぐひなき梵殺ぼんさつなり。

※ 「𦾔號きうがう」は、旧号。
※ 「梵殺ぼんさつ」は、仏語で寺院のこと。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会3』 14/65

唐招提寺たうせうだいじ
蓬莱ほうらい村の南にあり。ろう門に 唐招提寺たうせうだいじがくあり。孝謙かうけん天皇の 宸筆しんぴつ也。建立より 火災くはさいなし。

開基かいき 鑑真がんじん大僧都
宗㫖律 真言兼学
聖武しやうむてい御願ごぐはんにして 草創さう/\ありし 霊場れいじやう也。此地は、新田部にたべ親王の旧宅にてありしを大僧正に賜ふ。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会3』 15/65

鑑真がんじん和尚、遣唐使けんたうし 同舩どうせんにて 来朝らいてうし給ふ時、龍神 仏舎利を望しかば、すなはち あたへ、風波ふうはしづめ給ふ。

嵐の海にあらわれた龍神と
それを鎮める鑑真
大きく揺さぶられる船
出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会3』 16/65

佛足跡石碑圖

碑の高さ六尺余、廣さ一尺五寸餘、厚さ二寸、両傍一寸五分計、石面に倭歌廿一首、分て二段とす。上段十一行、下段十行、冗談二首の上に、恭佛跡の三字あり。第九首の上に一十七首の四字あり。下段第七首の上に死字あり。盖十七首は佛足跡を讃するの歌也。四首は呵嘖生死を詠む歌なり。今こゝに書する文字は、十七首の内、十首計の句を摘て、其石碑の体相を圖するのみなり。

恭佛跡 一十七首
美阿止都久留伊志乃比鼻伎
弥蘓知阿麻利布多都乃加
与伎此止乃麻佐尓美初牟
巳乃美阿止夜与呂豆比賀
伊可奈留夜此止尓伊麻世
麻須良乎乃須乙美佐岐
麻須良乎乃布美於初

呵嘖生死
波阿米尓伊多利都知佐門由須
佐伎波此乃阿都伎止毛加羅
乎遅奈伎夜礼尓於止礼留比
舎加乃美阿止伊波尓宇都志
久須理師波都祢乃母阿礼
巳乃美阿止乎麻婆利麻
於保美阿止乎美尓久留比

真蹟 長一尺五寸七分 廣五寸三分
竪行に文字 ● 奥にあらはす

盤石高一尺八寸餘 平面縦二尺五寸 横三尺二寸五分 

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会3』 18/65

西にしきやう 八幡宮はちまんぐう
薬師寺やくしじ 南都七大寺 其一なり

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会3』 19/65

西にしの
孝謙かうけん天皇 御出家の後、此地にまし/\けるよし、正統記に見へたり。

※ 「正統記」は、神皇じんのう正統記しょうとうき。北朝時代の史論で、著者は北畠親房きたばたけちかふさ

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会3』 21/65

矢田やたの地蔵ぢざう 金剛山こんがうせん

矢田の地蔵
出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会3』 19/65

金剛山寺こんがうせんじ
矢田村にあり。俗に、矢田寺やたじといふ(釈書)。本尊は 地蔵ぢざう菩薩ぼさつ也。天武てんぷ天皇てんわう勅願ちよくぐはん、開山は 知通ちつう僧都(縁起)。此僧都は、斉明さいめい四年七月に 唐土もろこしにわたり、玄奘げんじやう三蔵に 唯識ゆいしきをまなび、帰朝きてうの後、白鳳はくほう元年三月僧正たり(釈書)。

そも/\、地蔵菩薩は、むかし、此寺に すみける 満米まんまい上人といふあり。廿年の 星霜せいさうを送て、地蔵菩薩を 信敬しんけうし奉る。其頃、小野篁おのゝたかむら 此 上人と 師檀しだんのちぎりあり。たかむら は、いとあやしき人にて、朝廷てうていにありながら、たましひ㷔魔ゑんま王宮にぞあそびける。ある時、えん王なげき のたまはく、すゑのの 衆生 つみおもし。そのつみかへつて我身をくるしめる事 はなはだし。時に 㷔王ゑんわうしん、只 菩薩ぼさつかいをうけさせ給ふにはしかじと そうす。

炎王ゑんわう さはおもへども、陰府いんふ戒師かいしなし、いかゞせん。たかむら すゝみて、わが 師友しゆう戒業かいげう 純情じゆんじやうの人ありと そうす。炎王ゑんわう そのよびきたれ、すなはち  たかむら  かの 上人のもとに行て、しか/\の事侍ると申、上人あやまたず、たかむらともに行かとせしが、琰官ゑんくはんにいたりき。則、上人を 師子ししゆかにあふぎすへて、炎王ゑんわう かぶりをかたむけ、菩薩ぼさつかいをうけ給ふて後、なにかは 布施ふせにまいらせん。

上人、地獄ぢごく苦報くほうを見んこそ ねがはしけれ。則、炎王ゑんわう 上人を將て 行給ひしが、たちまち阿鼻あびじやう にいたりき。見わたせば、てつ門の かぜ銅釜どうふほのおを吹なびかせ、山には つるぎゑだをつらね、いけには けぶりをたて、其外 受苦じゆく衆生しゆぜう かずをしらず。

それがなかに、法師ほうしひとり ほのほにこがるゝありけり。いかなればにや、身に 三衣さんゑをまとひながら、かくにせめらるゝといへば、われこれ 地蔵ぢぞう菩薩ぼさつ也。衆生の苦にかはりて、かくのくるしみをうくる。されども、無縁むゑん衆生しゆじやうは、すくふに たよりなし。なんぢ娑婆しやば世界せかいにかへりて、われゑんをむすばしめよ。又、かくの をうくる事をかたれ。

上人 拜礼はいれいして、立かへらるゝに、冥使みやうし うるしぬりの箱一つを 上人に奉侍。扨、娑婆しやばにかへりて、かのはこをひらけるに、白米しらけ満ゝみち/\たり。取に したがひてみつるほどに、生涯しやうがい いとやすし(釈書)。さらば、地蔵尊を 造立ざうりうせんとて、良工りやうくをまねきぬれば、化人の たりて つくりけるとぞ。みたけ 五尺、今の本尊これ也。

※ 「 知通ちつう僧都」は、飛鳥時代の法相宗の僧。
※ 「師子ししゆか」は、獅子の床。仏のすわるところ。獅子の座。
※ 「かぶり」は、かぶり
※ 「扨」は、さて。
※「化人けにん」は、仏・菩薩ぼさつ衆生しゅじょうを救うために仮に人の姿になったもの。

金剛山寺 本堂
出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会3』 22/65

筒井つゝい
筒井順慶、つねに愛して茶湯に用ひられしとぞ

松風に 塵のかたよる しみづ哉
            一道

菊を手折ってきた若者

※ 「筒井つつい順慶じゅんけい」は、大和筒井城を拠点とした戦国大名で、茶湯、謡曲、歌道などにも秀でていました。
※ 「一道」は、幕末の俳人、北川きたがわ犂春れいしゅんのことと思われます。別号は一道居。

手入れが行き届いた趣向をこらした庭
出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会3』 23/65

松尾寺まつのおてら

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会3』 20/65

補陀洛山ふだらくさん 西松尾寺
矢田の南にあり。天武帝の 皇子みこ 舎人いへひと親王しんわうの 御願也。本尊 十一面 観世音くわんぜをんは、親王のさく大黒天だいこくてん弘法こうぼう大師の作也。是は 市守いちもり長者ちやうじや佛とかや。舎人しやじん親王の 石塔せきたうは 本堂の うしろにあり。鎮守ちんじゆ松尾まつのを明神みやうじん。これは酒神にして、山しろ松尾と 御同神也。

松尾寺
出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会3』 26/65

霊仙寺りやうせんじ

霊仙寺
出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会3』 24/65

鼻高びかうさん 霊仙寺りやうせんじ
伏見岡の西にあり。行基ぎやうぎ菩薩の 開基かいき也。鼻高びかううづみしより 山號とせり。又、なん天竺てんぢく婆羅門ばらもん行基ぎやうぎとはじめて あい給ふ時、霊山の 釈迦しやかの 御まへにちぎりてしの和歌より 寺號じがうとせり。本尊は、薬師やくし如来 脇士けうじ 十二 神将しんしやうともに、行基の さく也。又、三とうあり。鎮守ちんじゆは 十六所権現ごんげんなり。行基の住給へる室は、本堂の西の方にて 今に 持佛じぶつ堂 残れり。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会3』 27/65

般若崫はんにやくつ 寶山寺ほうざんじ

寶山寺ほうざんじ
生駒いこま山にあり。般若窟はんにやくつは、役小角ゑんのしやうかく 修行しゆぎやう霊窟れいくつ也。中こう 寶山ほうさん和尚。本堂の中尊は 不動ふどう明王、左右は 矜迦羅こんがら逝多迦せいたか 地蔵ぢざう観音也。寶山の作。

※ 「 矜迦羅こんがら逝多迦せいたか 地蔵ぢざう観音」は、不動明王の脇侍きょうじ矜羯羅こんがら童子と制吒迦せいたか童子。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会3』 28/65

鬼取山きとりせん 鶴林寺くはくりんじ
平群郡へぎりのこほり 生駒山いこまやまふもと、有里村にあり。中尊は 薬師やくし如来にして、此山の旧名は 般若岩屋はんにやのいはやといふ。又、鬼取おにとりとは、ゑんの行者、儀学ぎがく儀賢ぎけんの 二をとらへられし所といへり。されば、ゑんの行者 かつらぎ山におこなはれしとき、鬼神きじんをめしつかひ給ふ。めいをそむくものには 呪縛じゆばくありし也。かるがゆへ に、随はずと云事なし。(続日本紀)

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会3』 30/65

■馬いこま神社やしろ [■は彳+生]

※ 「■馬いこま」は、往馬いこま生駒いこま

生駒神社
奥に見えるのは生駒山
出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会3』 31/65

新千載
時鳥いこまの 山や過ぬらん
  へだつる雲の 外になくなり
   光明峯寺入道 前摂政左大臣

山を渡る時鳥(ほととぎす)を見上げる親子

※ 「新千載」は、新千載和歌集。
※ 「時鳥」は、ほととぎす。
※ 「光明峯寺入道」は、鎌倉初期の公卿、九条くじょう道家みちいえ

枝打ちをする男
出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会3』 32/65

鳴川山なるかはさん 千光寺せんくはうじ

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会3』 29/65

鳴川山なるかはさん 千光寺せんくはうじ
鳴川なるかは村にあり。役小角ゑんのしやうかく 御年三十七歳にいたるまで 此山において 顕密けんみつ行法ぎやうほうしゆし、般若窟はんにやくつ日夜にちや 持念じねんしけるに、巌間げんかんより 光明くはうめう 赫々かく/\として、千手せんじゆ観世音くはんぜをん 出現しゆつげんし給ふ。行者 歓喜かんき怡悦いえつし、即 尊像そんざうきざみ安置あんちし給ふ。其後、おほ峯をひらきて、かしこにうつり給ふ。故に、當山を 元山上と なづけて、かずゝの 行場ぎやうば大峯おほみねひとしくあり。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会3』 33/65

鳴川山なるかはやま 元山上もとさんじやう

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会3』 35/65

沈水香ちんすいかう
日本書紀曰、推古天皇三年四月、沈水漂著於淡路嶋其大一圍嶋人不知沈水交薪焼於竃其炯氣遠薫則異以獻之。

重八斤餘 圍二尺一寸 長三尺一寸五分
重九斤餘 圍一尺三寸長二尺一寸五分
重九斤 圍九寸五分 長二尺五分

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会3』 37/65

斑鳩里いかるがのさと
法輪寺ほうりんじ 駒塚こまつか

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会3』 34/65

法隆寺ほうりうじ
平群郡へぐりこほりにあり。𦾔名きうめう斑鳩寺いかるがじ(法相宗八宗兼学)。

人皇三十二代 用明ようめい天皇の 皇子わうじ 聖徳太子しやうとくたいし龍田たつたの明神のをしへにまかせ、斑鳩いかるがの地に 伽藍を 造立ざうりうし給ふ。一名、七徳寺といふ。金堂𠑊然げんぜんとして、西に輪蔵そばたちて、鳥路寺てうろじと号し、東に鐘樓しゆろうあり。北に講堂をかまへて、聖國しやうこく寺とよぶ。いぬゐ鎮守ちんじゆ社頭しやとうやしろして、寶蔵ほうざう寺ともよぶ。南に 法隆ほうりう学問がくもん寺の門 巍々ぎゝとして、金皷きんこ二口にこうをかけたり。上堂奥院大湯屋伽藍、こけして、松風宝鐸ほうちやくをとつるれば、法のこへ をのづから也。南都七大寺の其一なり。

駒塚こまつか
二井村に有り。聖徳太子の のり給ひし くろこまの墓といふ。今は をかの原とも、栗毛岡くりげのおかともいふ。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会3』 38/65

法隆寺ほうりうじ 夢殿ゆめとの

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会3』 36/65

夢殿ゆめとの
八角宝形堂也。上光院、又は上宮王院ともいふ。霊宝録 日本尊観世音前立、聖観音、東面九面観音、西面太子像、沈水香木にて太子聖作の観世音あり。毎正月十二日 開扉かいひあり。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会3』 39/65

法隆寺ほうりうじ

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会3』 34/65

法隆寺ほうりうじ
平群郡へぐりこほりにあり。𦾔名きうめう斑鳩寺いかるがじ。法相宗、八宗兼学。人皇三十二代 用明ようめい天皇の 皇子わうじ 聖徳しやうとく太子たいし龍田たつたの明神のをしへにまかせ、斑鳩いかるがの地に 伽藍を 造立ざうりうし給ふ。一名七徳寺といふ。金堂 厳然げんぜんとして、西に輪蔵そばたちて、鳥路寺てうろじと号し、東に鐘樓しゆろうあり。北に講堂をかまへて、聖國しやうこく寺とよぶ。いにゐ鎮守ちんじゆ社頭しやとうやしろして、寶蔵ほうざう寺ともよぶ。南に 法隆ほうりう学問がくもん寺の門 巍々ぎゝとして、金鼓きんこ二口にこうをかけたり。上堂奥院大湯屋伽藍 こけして、松風 宝鐸ほうちやくをとつるれば、法の こへをのづから也。南都七大寺の其一なり。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会3』 41/65

竹原井
歌枕
 たかはらの 石井の水や あまるらん
   龍田の山の 五月雨の頃
          光俊

※ 「たかはら」は、竹原。

雨を楽しむ蛙を眺める
出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会3』 40/65

竹原たけはらの
椎木村の辺なるべし。ふ詳。

※ 「ふ詳」は、不詳。つまびらかならず。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会3』 43/65

立田たつた新宮しんぐう

続千載
立田川 氷の上に かけてけり
   神代のきかぬ 雪のしらゆふ
          津守国冬
たつた川

※ 「続千載」は、続千載しょくせんざい 和歌集。
※ 「津守つもり国冬くにふゆ」は、鎌倉時代の神職、歌人。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会3』 42/65

龍田たつたの新宮しんぐう
法隆寺より六七町、ひつじさる にあり。民家みんかのきをつらねて 龍田町といふ。まつるところ竜田比古たつたひこ竜田比女たつたひめのしん社二座。(延喜式)

新龍田は、推古すいこてい 十四年二月十五日、上宮太子法隆寺を建たまひなんの勝地を尋ねて巡行あり。平群へぐりの川より西坂の東をおもひよせたまひしに、龍田明神、老翁ろうおうに化しまし/\て、伽藍がらん勝地しやうちを をしへられ、我又 守護神しゆごしんとならんとの 神誓しんせいあり。太子、此 神告によつて 法隆寺ほうりうじたて給ふ。

龍田たつた明神は、むかし 崇神しゅしん天皇の御宇に、龍田山のみね降臨かうりんし給ふ。龍田たつた祭礼さいれいの日は、法施ほうせ衆僧しゆそう 三十人を 法隆寺ほうりうじより奉りなんとなり。それより永くつたはりて つとめられけるが、立野までは ほどとおしとて、爲にうつしける、又、法隆寺には 斑鳩寺いかるがてらかたはら勧請かんじやうして 鎮守ちんじゆとす。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会3』 44/65

瀧田たつた本宮ほんぐう
新古今
白雲の 立田の山の 八重桜
  いづれを花と わきておりけん
           道命法師

※ 「新古今」は、新古今和歌集。
※ 「道命どうみょう法師」は、平安時代中期の僧、歌人。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会3』 45/65

神南備かんなみ 三宝岸
紅葉川 磐瀬杜いはせのもり

続拾遺
 あらし吹 三宝の山の 紅葉ばは
   立田の川の 錦なりけり
           能因法師

亀瀬かめせたうげ
夜あらしや 龍田を越る 鹿の声
           塘雨

※ 「能因法師」は、平安時代中期の歌人。
※ 「塘雨」は、江戸時代の旅行家、百井ももい塘雨とうう

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会3』 46/65

古今
千早振 神代もきかず 龍田川
  からくれなゐに 水くるゝとは
           業平朝臣
龍田たつたかは

龍田川

※ 「古今」は、古今和歌集。
※ 「業平朝臣」は、在原業平ありわらのなりひら

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会3』 49/65

龍田川たつたかは
廣瀬郡より流れ、勢野を経て、立野の西、亀瀬かめせに至り、河州に入、立野にて漕運さううんとす。舟は、上み初瀬川を 加幡かはた村に通ひ、又、寺門を今里に通ふ。高瀬舟といふ。或書に曰、龍田の町を西へ出れば川あり、是 龍田川也。此川上を 平群へぐりたにといふ。生駒いこま嶽の ふもとより出る川なり。立野の西に紅葉川とて小溝こみぞあり。是を竜田川といふはあやまり也。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会3』 48/65

信貴山しんぎさん

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会3』 47/65

信貴しぎ觀喜院くはんきいん てう護国ごこく孫子そんしは、開山 明連みやうれん 上人也。當初そのかみ聖徳しやうとく太子 官軍くはんぐん引率いんそつして 守屋もりや大臣を せめ給ひしに、大臣の 軍兵ぐんびやう 手痛ていたくして、官軍くはんぐん 三度 やぶれて 信貴しぎ山に にげ入けり。太子 誓願せいぐはん、丹心に侍りければ、山中に 石櫃せきひつあらはれて 多門天たもんてんめいあきらかなり。

ふかく しんたうとみたまひて、白膠木ぬるでのきにして、四天王の像を気障み、御 もとゞりおさめられ、さらすゝみ給ふ所に、生駒いこま山の ふもとにして、らう武者むしや忽然こつぜんと味方につかうまつれり。をそらくは、修羅しゆらをもあざむくべき猛将なり。

一人は 阿多あた大臣とめされ、一人は 坂本さかもと大臣とよびたまひしが、かれが 軍功ぐんこうたとへを とるにかたなし。ついに、守屋もりやうちければ、二臣 くもじやうして あとをかくす。扨、かの多門天の 石櫃せきひつの上に、ほう一丈の 殿舎でんしやたて給ひき。信貴しぎ山の 毘沙天びしやてん 是なり。其時、くはう太子、此山に向はせ給ひて、しんずべし とうとむべしと のたまひしより、信貴しぎ山とはいひける也。

※ 「もとゞり」は、髪を頭の上に集めて束ねた所。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会3』 50/65

続後拾
こがらし  の 立田の紅葉 もろともに
   さそへば さそふ 秋の川波
           衣笠前内大臣

冬かれや 大根葉流る 龍田川
           宇鹿

紅葉ながれる龍田川

※ 「続後拾」は、続後拾遺和歌集。
※ 「衣笠前内大臣」は、鎌倉時代の公卿・歌人、衣笠きぬがさ家良いえよし

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会3』 53/65

芹摘せりつみの后は、もとよすがもなき賤女なりしが、聖徳太子 斑鳩いかるが宮より参内の折、其 よそを花麗くはれいなれば、行人野に伏して拝す。芹摘の女ひとり、其事もなく、ひたもの沢辺の芹を摘ける。太子 あやしみ給ひ、官人をもつて問せらるゝに、女が曰、母の教を受て芹をつむ。いまだ太子見る事をゆるさず。太子驚て、左右に命じ、後車に のせしめ、后し給ふ。宿瘤が桑を採も亦 同日の論か。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会3』 56/65

達磨寺だるまじ
秋さびし 問答石に 鳩ふたつ
           沙睦

達磨だるま大師たいしの尊像は、迎年天明のはじめつかた、山州八幡清水の南に 圓福寺えんぷくじといふ 精舎しやうじやを建立し、此 尊像を安置して、達磨だるま堂とぶ。都名所圖絵拾遺に見へたり。

※ 「都名所圖絵拾遺」は、天明七年に出版された『拾遺都名所図会』のことと思われます。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会3』 59/65

垂仁すいにん天皇 御宇、たへまの蹶速くはや能見のみ宿祢すくねとちからを争ふ。これ 相撲すまひのはじまりなり。

※ 「たへまの蹶速くはや」は、当麻蹶速たいまのけはや。大和国当麻邑(現在の奈良県当麻町)の人。
※ 「能見のみ宿祢すくね」は、野見宿禰のみのすくね。出雲の人。垂仁天皇の前で、当麻蹴速と野見宿禰が力比べをしたことが相撲の始まりになったそうです。

当麻蹴速(たいまのけはや) VS  野見宿禰(のみのすくね)
出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会3』 61/65

たゑま染堂
春風や 染井にうつる 空の色
          湘夕

※ 「湘夕」は、秋里あきさと籬島りとう。湘夕は字。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会3』 62/65

當麻寺たへまでら

泊舩集
二上山當麻寺に詣て、庭上の松を見るに、凡 千とせもへたるならん。大いさ牛をもかくすともいふべけん。かれ非情といへども仏塚にひかれて、斧斤の罪をまぬがれたるぞ、幸いにしてたつとし。

僧朝顔 幾死かへる 法の松
         はせを

※ 「泊舩集」は、芭蕉の句集、泊船集はくせんしゅう
※ 「二上山當麻寺に詣て…」は、芭蕉の『野ざらし紀行』に記されている文章。
※ 「はせを」は、芭蕉ばしょう。松尾芭蕉。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会3』 58/65



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