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肯定できないことへの否定について

キリのいい日の記事は長くなる傾向にあるのかもしれない。noteを始めて14日目の今日はいつもよりちょっとだけ長めで、そこそこ口が悪めです。

昨日のnoteで「コロナめ!!!!!!!!!!!!!」なんて茶化して文句言いましたが、わたしは本当に本当に本当に最悪な気持ちです。わたしだけではないなんてこと百も承知ですが、ハッキリ言っちゃう。最悪だよ。書ききれない程の嫌なことも不安も絶望もあります。だから書かない今はだって書ききれないから。でもでも、わたしは、なんていうかこの「世界はひとつ感」というか、「あなただけじゃないんだよ感」というか、「ONE FOR ALL, ALL FOR ONE」感というか、が、本当に肯定できない。

いやわかる。今、一人で一人のまま立つことがどれだけ困難か。他者が確かに存在しているということがどれだけ救いか。わかる。そういう人たちのおかげで心が温まった経験が、眠れた夜が、腐らなかった日がいくつかはわたしにもある。しかし、しかしだよ。「これまでにないほどの団結力」や「これまでにないほどの愛情や友情」を「示す」ことを、なぜ強いられねばならぬのか。

違う違う、否定してないよ。「否定しないで」と言っている。救われた時間の一方で、眠れぬ夜も、腐った日も、全てどうしようもなく存在してしまっている。それに対する向き合い方は人それぞれで、だから正解不正解(一致不一致・適当不適当)も人それぞれのはずではないのか。ポジティブに捉えられないことを、愛せないことを、歌えないことを、踊れないことを、演劇ができないことを、大学に行けないことを、未来のことを考えられないことを、どうか否定しないでくれ。あなたの言う「世界」にわたしが組み込まれていないことを可哀想だと見なさないでくれ。

肯定できないことを、否定される覚えはない。それは暴力だ。

「寄り添えなくてごめんね」

勝手に寄り添おうとしてきたくせに、その人にとっての「世界」や「救済」や「肯定」や、もっと小さく言えば「素敵」、わたしがそれを受け取らずにいたらこう言われたことがあって、え〜マジでイかれてるな😅と思ったのだが、それが今世界規模でわたしに降り注いできている。これを最悪と言わずになんと言おうか。ざけんな。受け取った側が被害だと思えばそれは加害だ、みたいな記事を喜んでシェアしているやつに限ってこういうことをやる。あ、これは偏見です。

あなたの素敵はあなたが決めればいい。あなたがそれを素敵だと思うこと、それは絶対に否定しない。だから、わたしの素敵を決めつけることはやめてくれ。勝手に憐れまないでくれ。わたしの感性を矯正しようとしたりわたしの世界を否定したりすることは、少なくともわたしにとって最大で最悪の暴力だ。同化することだけを是としないでくれ。違うことを認め合う、それが理解だって言ってたじゃんお前ついこの間まで。

ハッキリ言っちゃう。わたしには寄り添う気なんてない、なぜなら無理だから。せめて否定しないだけです。そして「肯定しない」と「否定する」は断じてイコールではない。わたしは早くあなたに会いたい。願わくば劇場で。それだけ。

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