「弔電が来ないから優しくない」
家族のみで、ひっそりと執り行った母の葬式でのことだ。
夫の会社(外資系)から、弔電が届かなかった。夫が、「弔電が必要」の申請をしそびれたらしい。
「まあ、文化が違うからな」
と父親が言う。
妹が、鼻で笑いながら言い放った。
「でも、優しくはないよな」
***
食事中は、歌を歌わない。
コース料理なら、外側のカトラリーから使用する。
その場に見合った服を着る。
「この度は、ごしゅ…」とわざとモニョモニョする。
礼儀というのは、ある集団が作った文化のいち様式みたいなものだ。ドメスティックな中で存在する不文律。集団を集団たらしめ、他の集団と差別化を図るもの。
礼儀は地域性を反映する。だからこそ、この多様性の時代に礼儀は揺らぐ。その不文律は絶対か?を問い直す必要がある。
食事中に歌を歌って構わない地域もあるかもしれない。
カトラリーではなく手で食べることがマナーと言える地域だってあるだろう。
スーツも制服もなく、私服勤務の会社だってある。
わざとモニョモニョする、という発想が理解できない人もいるだろう。
今の時代に必要なのは、「この度はご愁傷さまです」とはっきり言い切る人を、「礼儀」の斧を以て「優しくはない」と断罪することではない。自分の常識が誰しもの常識ではないと知ること、相手のバックグラウンドを想像することだ。それが出来ずに安直な「礼儀」の斧を振りかざす人間が、一番「優しくはない」んじゃないだろうか。
そもそも私は弔電を「優しい」とは思わない。もちろん、元は優しさから生まれたお作法であろうことは想像に難くない。けれどだからといって、今そのお作法に乗っ取ることが必ずしも「優しさ」であるとは思わない。お作法をお作法として踏襲した、ただそれだけのこと。それ以上でも以下でもない。
「礼儀」にばかり囚われていたら、本当に優しい相手を見誤る。「礼儀」に振り回されて本質が見えていないなんて、本末転倒が過ぎるだろう。
私は、「礼儀」以上の優しさを知っている。「礼儀」が持つ(と思われる)優しさが敵わない、優しさを知っている。だから「礼儀」に優しさを見ない。その奥にある本当の優しさは、もっと大きくて、もっと温かくて、型にはまらないものだ。
「礼儀」は「礼儀」。
それ以上でも、以下でもない。
妹よ。
あなたが「礼儀」の優しさにこだわることは、何を意味するだろう。
いつもありがとうのかたも、はじめましてのかたも、お読みいただきありがとうございます。 数多の情報の中で、大切な時間を割いて読んでくださったこと、とてもとても嬉しいです。 あなたの今日が良い日でありますように!!