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【小説】 フォイユにて

「ねえ、この木」
 ケーキ屋に入る直前、妻が立ち止まった。『フォイユ』と書かれた店の看板横にそびえる、大きな樹。その根本を指している。
「芽が出てる」
 ほんとうだ、と僕は頷いた。待ちわびた春を急かすように、小さな芽がぴょこんと生えていた。
「新しい命だね」
「新しい細胞かもしれないよ」
 僕たちは大樹を見上げ、半年前を思い出していた。


 それは僕の誕生日、夏が秋へと変わるころだった。二人でフォイユに誕生日ケーキを買いに歩いた。道すがら、妻はぽつりぽつりと僕に語った。前日に診断を受けた、流産の話を。
「あのね、仕方がないんだって。こういう初期の流産は、ほとんどが染色体異常で、それは一定数起こるものなんだって」
 うん、と僕は妻の手を握り返す。冷たい。感情が昂ぶっているとき、妻の手はいつも冷たかった。
「自然の仕組みなんだって」
 うん、と僕は頷いた。妊娠を知ったときの妻の嬉しそうな顔を知っている僕は、ただ彼女の手を温めるしか出来なかった。
 不意に彼女が立ち止まる。道端にひっくり返ってジジジと鳴くセミを見ていた。あれ、と僕が声をあげる。
「もう秋なのに、まだいたんだ。居残り組のセミだね」
「このセミはさ…わたし達とおんなじ夏を生きたんだよね」
 ジジジ、と鳴く音が小さくなる。そうだ。もうすぐこの命は死んでしまう。僕と妻は息を殺してその姿を眺めていた。
 わたしね、と妻が口を開く。
「怖いの。今これだけ幸せなのに、あなたもわたしも年老いていくということが。すべて終わりに向かっていくということが」
 そうだね、と僕は同調する。
「僕もそんなふうに考えることがあるよ」
「だけど、子どもがいたら…、あなたとの子どもが生まれたら、そしたら、老いや死への恐怖も、少しは和らぐんじゃないかと、思っていたの」
 だけどわからない、と彼女は言った。短い間だったけど、この体に命を宿してみて分からなくなった。もしかして、恐怖が増えるのかもしれない。命がそこにあるかぎり、恐怖は拭えないのかもしれない。
 セミは静かになり、動かなくなった。妻はしゃがんで手を合わせ、また歩きだす。
「わたし、絵を描くのが好きでしょ? 今も一つ、描き進めているのがあるんだけど」
「うん」
「ときどき思うんだ。この絵もいつか、なくなってしまう。もしかすると私よりは長生きするかもしれないけど、間違いなくいつかなくなってしまう。それなのに、わたしは今どうしてこれを描いているんだろうって」
 それはそうだけど、でも、と僕が言いかけたそのとき、妻がピタリと立ち止まった。フォイユの店の樹の前だった。
「ああ。もう、葉っぱが落ちだしてる」
 見上げる妻の視線を追うと、なるほどたしかに、風に吹かれて一枚、二枚と落ちていく枯れ葉があった。
「ついさっきまで、まぶしい夏を謳歌していたのにな」
 僕とつないでいない方の妻の手が、その下腹部に添えられる。命が宿っていた場所。僕たちは悲しみを持て余したまま、フォイユでケーキを買った。

 その日の夜、ささやかなお祝いをして二人でケーキを食べた。ケーキの種類は、妻が好きなザッハトルテ。定番だった。付き合い出した当初からずっと変わらない、僕たちのルールのようなもの。僕の誕生日でも、妻の誕生日でも、僕たちはいつも、ザッハトルテに年齢分のろうそくを刺し、お祝いをするのだった。
「明日の夕方には入院だからね。今のうちに美味しいもの食べとかなきゃ」
 そう言ってここぞとばかりにケーキを頬張る妻を、どうどうと宥めた。
「明後日には帰ってくるんだから。それまで置いといてもいいんじゃない?」
「そんなの腐っちゃうかもしれないじゃない」
 威勢よく食べ進めていた妻だったが、思いのほか早くに白旗をあげてきた。
「もうだめ。食べらんない。若い頃はワンホールまるまる食べられたんだけどなあ」
「そんなもんだよ。僕ももう、昔みたいには食べられない」
 これが歳をとっていくってことか。妻が悲しそうに呟いた。

「あのね」
 夜、布団の中で僕は妻の背中に向かって語りかけた。彼女が寝ていないのは明らかだった。静かに肩が震えている。
「僕ね、きみの絵が大好きなんだよ。確かにその絵は、永遠には残らないかもしれない。もしかして、その絵を見られるのは僕だけかもしれない。せっかく生まれたのに、いつか土に還るのかもしれない。それでも僕はきみの絵が好きなんだよ」
 僕が背中に手を添えると、妻が大きく息を吐いた。
「僕はさ、きみと出会う前はとっても孤独で、だけど運命の人に出会えたらそのときは、まるで二人で一人になったかのように、ぽっかり穴空いていた心がぴったり満たされるものだと思っていたんだ。だけど違った。二人は一人にはなれなくて、互いに同じになれないまま老いていくんだと、今になってようやく分かってきた」
 妻の息が、心持ち穏やかになる。背中越しに僕の話に耳を傾けているのがわかる。
「きみの言うように、子どもがいたら安心できるのかもしれない。反対に、恐怖が増すのかもしれない。それは分からない。だけどどっちにしても、僕はきみのことが好きだよ。たとえそれが、いつか互いに離れ離れになって、無に帰すことだとしても」
 妻はなにも言わなかった。ただ泣いて、僕のほうへ向き直り、そして僕の腕の中で眠りに落ちた。


 あれから半年が経った。
 無事流産手術を終え、少しずつその悲しみから立ち直った妻と僕は、再び何気ない穏やかな毎日を過ごしていたところだった。
 妻の誕生日の半年後に、僕の誕生日はやってくる。春先の寒さの緩みを感じながら、二人でフォイユに向かった。そこで、例の樹の根本に生える新芽を見つけたのだった。

「命と細胞って、どう違うんだろう」
「細胞に命ってあるのかな」
 それは難しい問いですねえ、と二人で言い合いながら店内に入った。と思ったら、妻がこちらに向き直り、あのね、と切り出した。
「今年からザッハトルテやめて、このシフォンチーズケーキにしない? お互い、もういい年だし、ザッハトルテは食べ切れないでしょ。このケーキなら、まだ胃にもたれないと思う」
 え、と僕は驚いた。
「いいの? ザッハトルテ好きなんでしょ?」
 食べきれないなら小さいのを頼むとかすればいいんじゃない、という僕の言葉を遮って、妻が首を横に振る。
「だめ。小さいのだったらろうそくが全部刺せなくなっちゃう」
「もう、全部刺さなくてもいいんじゃない?」
 だーめ、とまたも妻が首を横に振る。
「わたしもあなたも、ろうそくが一本ずつ増えていくのを、ちゃんと数えていかなくちゃ。互いに老いていくのを、きちんとこの目で見ていかなくちゃ」
 諭すように笑うその姿に、僕は彼女の中に再び新芽が息づくのを感じていた。
  それは幾度目かの妻との春のことだった。


いつもありがとうのかたも、はじめましてのかたも、お読みいただきありがとうございます。 数多の情報の中で、大切な時間を割いて読んでくださったこと、とてもとても嬉しいです。 あなたの今日が良い日でありますように!!