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たんまん日記(3歳3ヶ月)

1月の半ばくらいから、娘たんまんの前頭葉がまたレベルアップした。
「こうすれば(怒られたり怒ったりせず)うまくいく」と理解したとでもいうべきか、単純に「我慢」を覚えはじめたというべきか、とにかくそんなふうな。

宣言どおり、クリスマスに画材をプレゼント


1月中旬某日の早朝、私は娘に起こされた。
「トイレいきたい!」
就寝直前にトイレに行かなかった日の娘は、だいたい早朝トイレに起きる。はいはい、とこれまたトイレが近い妊婦の私も一緒に用を済ませ、再び布団の中にもぐりこむ。
7時を過ぎなければまだ寝て良い、というのがうちの家訓である。実際、娘も寝てくれる。

…のだが、寝るポジションに入るまでが、これまた長い。ママの右で寝る、いややっぱり左、やっぱりたんまんのいちご布団。こちらはそれに付き合っていたら眠気が雲散霧消、再入眠しづらくなるので、できるだけ省エネで見守る。そして、早く寝てくれと念じる。そんな私の横で、またもやもぞもぞしだす娘。どうやら散らかったぬいぐるみたちを、ご丁寧に一体一体枕元に並べているらしい。かわいい。かわいいですねえ。でも、寝よ? いや寝て。たのむ。

「ドキンちゃんのぬいぐるみがなぁい…!!」

あああああああ。なんでいないのドキン。無理むり、真っ暗な寝室でドキンちゃん探すのは無理よ。しかもドキンだけ他のぬいぐるみより小さいから、余計にタチが悪い。見つからないのはいつも決まってドキン。なんて手のかかるドキン。

「…ドキンちゃん今ねんねしてるんちゃう? 寝かしてあげ」

今にも泣き出しそうな娘を刺激せぬよう、なにげない雰囲気で、しかし布団の中から身動きせずに応じる私。暗闇の中、どこに埋まってるかわからんドキンを探すなんて、せっかくの眠気が吹っ飛んでしまう。ただでさえ身体が重いのだ。むりむりむり。ドキンなしで寝てくれ、たのm

「ドキンぢゃん…ドキンぢゃんないーーーっっっ」

ふぇ、とか、ひぃん!、みたいな声を上げ始めてしまった。あー面倒くさい。面倒くさいぞこれは。ここからの娘は、パニックになって泣き叫ぶルート一択である。そうなったら安眠どころか、最大ボリュームの泣き声で私に訴え続け、ひと悶着してからの、ぐずぐず仲直り時間までがまーーた長い。

いかん…
たかがドキン。されどドキン。
娘にとっては譲れないことなのだろう。ぬいぐるみを枕元に勢揃いさせて気持ちよく眠る。彼女はそう心に決めてしまったのだ。一度決めたことはやり遂げる。ええことやないか…ええこと…

「ヴヴヴン!」
眠そうに不機嫌そうに起き上がり、ドキンちゃんを探す私。幸い、布団を剥いだらすぐに見つかった。
「これそんなに大事なこと?? …はよ寝てよ!」
不機嫌に言い放つ。

私にとって、ドキンちゃんを探すことは重要ではない。でも娘にとって大事なことだったのだと言うのなら、それが達成されたのであれば、グズグズを引きずらず、ちゃんとそれで満足して寝てくれ。娘の大事なことに協力したんだから、そちらもママに協力してくれ。

そんな気持ちで発した言葉だったが、なんと娘は本当に、私の言葉を聞くと、コテンと布団の中で寝る体勢に入った。

しぃん…

静寂。そのまま二人して二度寝についた。

至るところに数字を書くので書かせてみたら予想以上に書けた(二段目以降)


お互いが、お互いの機嫌を読んで回避した嵐。これまでなら、「不機嫌そうなママ」にも納得がいかず、大泣きしていたはずの娘。

何かが変わったぞ…?

そう思い、改めて娘を観察してみると、なるほど確かに何かが違う。日常の中で、「こうすればうまくいく」というのを会得しつつある。ここまでは甘えて良くて、でもそれ以上は良くない。これをすれば怒られる。

出来ないことやしたくないことは、まだまだ泣いて騒ぐけれども、でも、明らかに「我慢出来ること」が増えている。感動と同時に、これは諦めの学習なのだろうかという不安が、私の中でむくりと頭をもたげる。

ひらがなも一部書けるよな〜と渡したら、こちらは一つも書いてくれなかった


これはまず間違いなく娘の成長であり、もっと言えば、待ちに待った「前頭葉の発達」なのだろうと思う。思うのだけれども、己の経験上、「言うことをきく(きかせる)」ということへの恐怖心は少なからずあって、我慢ガマンと我慢ばかりをさせて主体性を奪ってしまっているのではないかという不安が常につきまとう。

・妊娠していてあまり抱っこ出来ないというママには、一回の抱っこで納得する(その代わりパパへは激しい「抱っこ!」要請)。
・ママとお風呂に入りたい! と毎日のようにごねていたのも、パタリと言わなくなった(それからは時々思い出したように言うように)。
・タッチパッドも、決めた時間ですぐにやめられるようになった。
・楽しみにしていた幼稚園の導入保育がコロナでキャンセルになったら、泣きもせず、「でもまた行けるからね! また行けるよ!」と自分を言い聞かせる。

「すごぉい…!」と、成長した娘との平和な一日に感動するも、これは何かしら娘の我慢の上で成り立っている平和なのではないかと不安になる。そして改めて、感情的にならずに、できるだけフラットに考えようとする。


英語も書いた!というので見てみたらほんとに書いてた。右下には「パパ」の文字


平和な一日、というけれども、これまでのイヤイヤの毎日が激しすぎただけ、ともいえる。今だって、平和とはいえ娘の感情の起伏も普通にあるし、よくよく見れば、ただ我慢がうまくなったというよりも、一人遊びが上手くなった(集中できるようになった)ために平和な時間が増えたとも言える。

うん、やっぱり、前頭葉は間違いなく発達しているよな。超絶イヤイヤ期を抜けて、また新たなフェーズに入ったのは間違いない。我慢が上手くなって、娘自身も心の安寧を維持しやすくなったように見える。

ありがとう娘。ありがとう神様。ずっとこの時を待っていました。

けれど前頭葉が発達してきたということは、我慢が出来てしまうということは、やはり「我慢しすぎてしまう」リスクを孕むということ、そのことを常に忘れないでいたいと思うのだった。


最近の画伯の画風。線がたくさん


ちなみに。
ある程度の我慢をすることで心の安寧を維持することを、心理臨床で「枠」という。

関係性であったり、時間であったり、感情だったり、日々の生活だったり、そういったものに枠(フレーム)を設けることで、安定した安全な場所に身を置くという概念。

お金を払って、決まった時間に決まった距離感でカウンセリングを受ける。それも一つの「枠」。

その枠を壊し、境界線が曖昧な場所に身を置くと、不安定になってしまう。境界が曖昧な関係性、境界が曖昧な感情、境界が曖昧な時間。それらは刺激的で、不安定で、簡単に自己をかき乱す。

どこまでの「甘え」で己を納得させるのか。境界を認めず、際限なく求めた甘えの先には、己を怠惰と破滅に誘導したものへの恨みが生まれてしまう。

とはいえ、甘えなし、「枠」偏重で感情の伴わないロボットのような状態も、これまたとても辛い。


ハンガーにかかる洋服たち


…これは結構ディープな話で、そして個人的にも言いたいことが多いから、うまく圧縮して簡単に説明しようと思ったけれど、やっぱり簡単には説明できず。分かる人にはピンとくる、みたいな呟き文章になってしまいました。

まあでもね、要するに何が言いたいかっていうと、規律もだいじだし気持ちもだいじってこと。ほどほどに枠を持てて、ほどほどに甘えられることが人間だいじだし、娘にはそういうふうに育っていってもらえるよう接していきたいです、とそういう話。

一緒に図鑑を眺めながら「お花の一生」を解説した(緑)ら、娘の手によってファンシーな絵に仕上がった(オレンジ)。花びらが落ちるところが一番印象的だったとのこと。



そうそう。
ご覧の通りですね、うちのたんまんはとても絵が上手でしてね(親バカ)、だけど半年前に私が妊娠して、一時期、悪阻で本当に何も出来ない状態のときには、「ママの絵」すら描いてもらえなかったの。たんまん描いて、パパ描いて、おしまい。

それが、悪阻が収まってくるのと時を同じくして、だんだんまたママも描いてくれるようになって。

それから、「赤ちゃんしたくない!」「赤ちゃん好きくない!」の時期を経て、今では「赤ちゃん生まれたらね、たんまんがベビーカー押してあげるんだよ!」と言うように。


家族。ママのお腹に赤ちゃん


それでも自分の玩具をガジガジされるのは嫌らしく、何度も嫌だと主張してくるし、急に「赤ちゃんと遊びたくない!」と言うこともあり、それはそれで健全なことだなあと思う。

別にねえ、兄弟だからって仲良くしなきゃいけないことなんてないしねえ。

そんなこんなで、彼女なりに「赤ちゃんがお腹にいるママ」を受け止めつつある娘。昨日の夕食後はこんなことを喋っていた。

「あのねぇ〜、たんまんはぁ、(4月から)幼稚園いって〜、パパは、料理して、ママはぁ…ゴロゴロするの!」

ぐうの音も出なかった。


いつもありがとうのかたも、はじめましてのかたも、お読みいただきありがとうございます。 数多の情報の中で、大切な時間を割いて読んでくださったこと、とてもとても嬉しいです。 あなたの今日が良い日でありますように!!