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【小説】 猫だというので

「吾輩は猫である」
 そう言って、婚約者が布団にくるまり家から一歩も出なくなったのは、一ヶ月前のこと。会社にも行かず、二人で住むには狭いワンルームで、一日中、布団に横になるか、テレビゲームをしていた。

 鬱にでもなってしまったかと心配した私は、どうしたの? 病院へ行く? などと彼に尋ねてみたりしたものの、つねに返事は「吾輩は猫である」だった。だから、どうして猫になったの、と聞いても、「猫だから分からない。なにも分からない」の一点張り。外の空気を吸わせようと家の外に連れ出そうとしようもんなら、何かに怯えるように恐ろしい力で私の手をふりほどいた。

 そうして、はじめは心配してあれこれと手を尽くした私だったが、彼があまりにも「猫である」と主張するばかりだったので、疲れ果ててしまい、二週間後にはもう、彼が猫であるという前提で生活を送ることにした。

 毎日作っていた料理もやめた。キャットフードを皿いっぱいに出して、彼の寝床に置いておく。すると、猫は露骨に拗ねてみせ、皿を無視し、シンク下をあさって、私が買ってきたカップ麺に湯を注いで食べていた。猫なのにカップ麺食べられるんだあ、と私が嫌味を飛ばしても、猫は何も言わないままだった。
 猫だそうなので、首輪を買ってみた。本当に猫用のものは入らなさそうだったので、いかがわしいサイトで勇気を出して買った、赤のフェイクレザー。猫がゲームに夢中になっている間に首に巻いてあげると、大人しく巻かれてくれたものの、翌朝には布団の枕元に投げ捨てられていた。

 翌月には、両家顔合わせの予定だった。それなのに、こんなときに、何を話しかけても頑として自分を「猫だ」と主張する婚約者を前に、私はさじを投げた。
 仕方がない。
 婚約者が猫になってしまったのだから、仕方がない。私は狭いワンルームに、男を連れ込んだ。街コンで知り合った、人の良さそうな男子大学生。農学部で研究をしているという彼は、なにを期待したのか、目をキラキラと輝かせて私の部屋に上がり、そして部屋の中で布団にくるまっている成人男性を見つけて、青ざめた。
「どちらさまですか」「すいません、帰ります」
 そう言って立ち去ろうとする彼を、私が強引に引き止める。
「ごめんね。あれは猫なの。だから気にしないで。ほんとう。ほんとうに猫だから。ねえねえ、日本酒とワイン、どっちが好き?」
「…ワイン」
「おつまみは、ナッツでいいかな? キャットフードもあるけど」
 機嫌よくふざける私を見る、彼の目は怯えていた。
 部屋の片隅にいた婚約者、もとい猫は、なにか言いたげにこちらを見ていたけれど、構わず私は大学生とお酒を飲んだ。いや、正確には、私だけが一方的にお酒を飲んでいた。かたや大学生はといえば、終始、正座のうえ無言で、持参したペットボトルの水を、乾いた口内を潤すようにしきりに口にしていた。
 私が、眠くなったところを見計らったのだろう。大学生は再度、「帰ります」と言って家を出た。立ち去るとき、彼は表を指して、「扉の前に、花束が置いてありましたよ。あれはたしか、ガマズミだったかな」だとかなんとか言っていた気がするけれど、眠さに抗えなかった私は、機嫌よく彼を見送って、そのまま泥のように眠りこけた。

 朝、起きると、猫が人間に戻っていた。否、人間が人間らしく人語を話しだした。昨夜はなんで僕にあんな仕打ちをしたんだ、僕は傷ついたという泣きごとから入り、彼は、どうして自分が猫になったのかを洗いざらい話しだした。彼の話はこうだった。実は、何年も前から二股をかけていた。どちらと結婚しようかとずっと迷っていたが、君に結婚しようと言われて心が決まった。それなのに、そんなタイミングで浮気相手に子どもが出来てしまい、連絡を断って無視していたら、至るところで待ち伏せされるようになり、家に引きこもるしかなくなった、ということだった。

 私は言葉を失った。いや、もしかすると私は、しばらく前から薄々勘付いていたのかもしれない。今となってはもう、そんなこと、どちらでも良かった。私は、ちょうど昨日荷物が届いて、大きな段ボールを持ち合わせていたことを思い出し、メソメソと泣くその猫を入れて、近くの公園に捨てた。


いつもありがとうのかたも、はじめましてのかたも、お読みいただきありがとうございます。 数多の情報の中で、大切な時間を割いて読んでくださったこと、とてもとても嬉しいです。 あなたの今日が良い日でありますように!!