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【小説】 伊藤くんはホームボタンを押しつづける

「わん、おーけーろっく」
「ううん、これ、ワンオクロックって読むねん」
「ああ、へえ。1時」

 今日の昼休み。
 トイレに行こうと席を立とうとしたその時、後ろの席の伊藤くんに声を掛けられた。
「山下さん、これ聴いてみて」
 そう言って、イヤフォンの片側を渡される。言われるまま、耳につけた。
 え、何、うるさっ。
「ちょっと、音下げられる?」
 甲高くてハスキーな声の男性が歌っている。どんどんジャカジャカ。

『今日も君は 信じること忘れずに目覚められていますか
 時が経つと 自分さえも信じれなくなる時代のようです』

 怒っている。うるさいし何だかよく分からないけど、この人怒ってんなー、というのだけは分かる。熱気のこもった音楽が左耳に流れる。
 集中して聴いているふりをして、そっと伊藤くんの顔を見る。伊藤くんも集中しているのか、じっと手元のスマホを見つめて、画面をつけたり消したりしていた。

 正直、私には苦手な音楽だった。
 『今日も君は』って、いったい誰に向かって言ってるの?どうしてそんなに怒っているの?聴いてるこっちまで疲れちゃうんだけど。
 私は静かな音楽が好きだし、久石譲を聴いて勉強するのが一番落ち着く、という人間だ。何なら、自然の音が一番好きだ。だからこんなに激しい音楽、全然興味がない。
 でも、私にこれを聴かせてきたということは、伊藤くんはこのワンオクロックが好きなのだろう。どうしよう。何て言おう。

『まだ まだ 時間はまだあんぞ
 先見の明 今は研ぎ澄まして
 主人公は 一人だけ 自分の 物語の始まり』

 ハスキーな声は、最後まで怒りとおして、歌い終えた。
 私は伊藤くんのアイフォンを覗き込んで、再生画面を見る。
「わん、おーけーろっく」
「ううん、これ、ワンオクロックって読むねん」
「ああ、へえ。1時」
 そして、案の定。
「どうだった?」
「なんかちょっと…激しいね。伊藤くん、好きなの?」
「うん、好き。ボーカルが、タカって言うんやけど、めっちゃかっこよくってさ。森進一の息子なんやけど」
「あ、へーえ。森進一の息子なんだ」
 そこから伊藤くんは、しばらくワンオクロックについて熱く語っていた。正直、私は興味がなかった。というか、なぜ伊藤くんがそんな話を私にするのかも謎だった。彼とは勉強のこととかテレビの話なんかはちょくちょくしていたし、たまにメールをすることだってあったけど、伊藤くんがこんなに一方的に何かを語る人だとは思っていなかった。

「もしよかったら、他のも聴かん?これに」
 そう言って伊藤くんが差し出したのは、USBメモリだった。嘘でしょ。もしやこれって
「ワンオクのアルバム入れてあるから」
やっぱり?あーやっぱりそういうやつ?
「あ、うん…ありがとう」
 なぜ。なぜ伊藤くんは私にワンオクを聴かせたがるの。そしてUSBにまでデータと入れてくるという、念の入れよう。怖い。ああ神様。私がいったい、何をしたと言うのでしょう。
 USBを受け取り、ようやく私は伊藤くん、いやワンオクから開放された。
 と思ったら、再び伊藤くんに呼び止められた。
「もしよかったら、ミュージックビデオも、かっこいいから見てみて」


 私は自分の真面目さを呪った。
 帰りのバスでミュージックビデオを見、家に帰ってスマホにデータを移し、風呂と食事の時間以外、ずっとワンオクを聴いていた。
 そして分かったのは、ワンオクは英語の歌詞が多いので、英語の勉強をするのには邪魔になる、ということ。
 そしてやっぱり、特に大人に対して、彼らは怒っているということ。だとすると、私は怒るほど大人というものに対して興味がないけれど、もしかすると伊藤くんは大人に対して怒っているのかも知れない、ということ。
 あと、タカくんは「の」の発音などの際に、森進一っぽくなることがある、ということ。
 しかし一番の問題は、これらは全部、伊藤くんが求めている感想ではないだろう、ということだった。


 翌日。
 案の定、昼ごはん前に伊藤くんに呼び止められる。
「ワンオク聴いてくれた?」
「うん、聴いたよ。何か…やっぱり激しいね」
「激しいか。そっか。山下さん、あんまりこういうの聴かなさそうやもんね」
「うん、でも、こういう世界もあるんだなあって、勉強になったよ」
 実際、私は昨日、勉強そっちのけでワンオクの勉強をしたようなものだ。
「何か、ごめん、押し付けがましくて」
 今になって、伊藤くんは申し訳なさそうに頭をかしげた。遅い。もう私はワンオクを聴き込んじゃったわよ。
「ううん。でも、なんで私に、ワンオク聴かせてくれたの」
 あーうん。と言いながら、口ごもる伊藤くん。なんで、と言い募る私。こんなに真面目にワンオクを聴いたのだから、それくらい教えてくれてもいいだろう。
 もごもご言いながら、伊藤くんが私に渡してきたもの。それは、またもやイヤフォンだった。またかよ。もういいよそれは。とはさすがに言えないので、言われるがままイヤフォンをはめる私。

 流れてきた音は、意外にも、ワンオクの曲ではなかった。
 低めでアンニュイな感じの、女性の声。

『少し寂しそうな君に こんな歌を聴かせよう』

 しまった。私は、簡単にイヤフォンをはめたのを激しく後悔した。今度は、この女性アーティストの曲を聴いてくれと、新たなUSBを渡されるのだろうか。それが、伊藤くんの常套手段なのだろうか。それは困る。さすがに断りたい。今日こそは、静かな音を聴いて勉強したい。
 ああ神様。伊藤くんは音楽を広める伝道師か何かなのでしょうか。いったい何が、彼をそこまで駆り立てるのでしょう。
 真剣に音楽を聴くふりをして、また私は、伊藤くんの様子を伺った。彼は今日も、じっと手元のスマホを見つめて、画面をつけたり消したりしていた。
 曲はサビに突入する。

『フツフツと鳴り出す青春の音
 乾いたメロディで踊ろうよ
 君はロックなんか聴かないと思いながら
 少しでも僕に近づいてほしくて
 ロックなんか聴かないと思うけれど
 僕はこんな歌で あんな歌で 恋を乗り越えてきた』

 ようやく、鈍い私にも状況が読めてきた。
 これはもしかして、いやもしかしなくても、彼をここまで駆り立てているのは、私への好意、ということだろうか。
 そんなことを考えるのは、自意識過剰なのだろうか。でも、どう考えてもこの曲は、好きな人にロックを通して自分を分かって欲しい、自分に近づいて欲しい、という曲だ。それを今こうして私に聴かせる理由って、私を好きだということ以外に、なにがある?

 なんだよ伊藤。分かりにくいよ。
 そう心のなかで伊藤くんに毒づきながらも、私は焦った。曲よ終わるな。曲が終われば、さすがの私も好意に気づいたことになってしまう。そんなの恥ずかしすぎる。頼む。曲よ、永遠に終わってくれるな。
 再び伊藤くんをそっと見ると、彫刻か何かのように固まって、ひたすらに画面をつけたり消したりしていた。

『君がロックなんか聴かないこと 知ってるけど
 恋人のように 寄り添ってほしくて
 ロックなんか聴かないと思うけれど
 僕はこんな歌で あんな歌で まだ胸が痛いんだ』

 女性の声が、『僕』を代弁する。
 君はロックを聴かない。でも近づいて欲しい。そう繰り返す。

 そして、神様に私の願いが聞き入れられることなんてことはもちろんなく、あっけなく曲が終わった。
 イヤフォンをつけたまま、しばらく固まったままの、私たち。放っておいたら、伊藤くんはこのまま彫刻になってしまいそうだった。ひっきりなしにホームボタンを押していた親指まで、動きを止めている。もはや彼が息をしているのかも、怪しかった。
 仕方ないので私が顔をあげる。

「あー…のさ。私も、聴いて欲しいのがあるんだ。川のせせらぎ音と、暖炉の火の音と、波の音と、野鳥の鳴き声。明日、それUSBに入れてくるから、聴いてくれないかな」





いつもありがとうのかたも、はじめましてのかたも、お読みいただきありがとうございます。 数多の情報の中で、大切な時間を割いて読んでくださったこと、とてもとても嬉しいです。 あなたの今日が良い日でありますように!!