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ビール、アンド

2年前、学生時代の友だちが営んでいるカレー(とクラフトビール)屋さんをはじめて訪れた。

彼女(Aちゃん)は頭がよく、ちゃんとした企業で働いた上で、脱サラして旦那さんとともに店を出していた。いっぽうの私はといえば、心身ともに脆弱でうだつの上がらない20代を過ごし、結婚しミニマムな生活を送っていた。子どもがほしいなあ、なんてことも考えていたころだった。

珍しく体調の良いある日、ふと思い立って夫とAちゃんの店へ出かけることにした。お店は、高円寺から高架下を抜けた先、集合住宅の1階にあった。青い芝生を横切って、店に顔を出す。しゃれた店だった。壁からビールの注ぎ口が生えていた。

「久しぶり! びっくりしたわ」と言って笑うAちゃんは相変わらずサバサバしていて、6、7年ぶりの再会にも関わらずとくに前置きはいらなかった。「お腹が弱いねん」と話す私に、「私も弱いで」と、会社員時代に腹痛とどう付き合ってきたかを話してくれた。

「ていうか、どしたん。2人してそんなでっかい鞄もって。なにが入ってるん」
当時リュックに凝っていた私と夫の、小旅行に行けそうな大きさのリュックを見てAちゃんが言った。
「いや…? とくになにも」
「うそやん。こんなでかいのに? ほんでまた、2人して似たようなかっこして」
ジーパンに、Tシャツ。確かに私と夫は似たような格好をしていたが、似たような格好をしている自覚のない私たちは、ただ顔を見合わせるしかなかった。その様子を眺めて笑うAちゃんは、まるでおかんのようだった。

Aちゃんの旦那さんの作るカレーは、めちゃくちゃうまかった。なんでもっとうちの近くに店ないねんと思うくらいにうまかった。

ちなみに、Aちゃんは料理が上手い、と学生時代から噂で聞いていたのもあって、てっきり私はAちゃんがカレーを作るものだと思いこんでいた。そんな彼女を差し置いて、旦那さんが腕を振るう。料理偏差値高すぎカップルだった。

うまいのはカレーだけではない。小鉢が安くてうまい。
いやほんま、安ない? いくら関西魂を忘れたら上沼恵美子にどつかれる言うても、さすがに安ない? ここ東京なんやからもっと高(たこ)せえ。

まあ、もちろん、いち客としたら嬉しい限りなんやけど。正直、一生関西魂忘れんとってほしいけど。
(※今の価格は知りません)

私は下戸でビールが飲めないので、代わりに夫がたくさん飲む。いろんなとこからお取り寄せされたクラフトビールを、おおかた制覇した(夫が)。表現力の乏しい夫は、ぜんぶ「美味しい」「美味しい」と言って飲んでいた。

友だちの店は、友だちの店じゃなくても、近所にあったら行きつけにするような店だった。

外が暗くなり店が賑わってきたところで、満ぷく満ぞくの私たち夫婦はAちゃんに別れを告げ、店をあとにした。芝生を抜けて店をふり返ると、あたたかな明かりが灯るガラス張りのアパートの一室が暗闇にぼうっと光って、まるでどこぞのおとぎ話の、賑やかな夕飯どきを覗き見ているかのようだった。

夫はビールでホカホカ、私はカレーのスパイスでお腹がポカポカ。帰りは2人ともご機嫌で、何駅分も歩いて帰った。
年のはじめの寒い夜だった。

私の妊娠が発覚したのは、その10日後のこと。

つわりがキツく、特にカレーは匂いだけで無理なほど、絶対に受けつけない体になっていた。もちろん、夫が自分で作って自分で食べるのもだめ。つわりが無事に治まった後も、カレーの匂いには警戒心が拭えなかった。

出産・育児にいっぱいいっぱいで、そして何より私が出不精なせいで、結局、あれから一度もAちゃんの店に行くことはないまま、今年、2020年を迎えた。

その間にAちゃんは、なんとビールづくりに手を出していた。なにやらでっかい機械を導入して、許可なんかも取って、ビールづくりに奮闘する様子がSNSにあげられていた。うそやん。すごすぎるやん。どんだけビール好きなん。

そんな矢先のコロナ、そして緊急事態宣言。
飲食業が打撃を受けているという話は聞いていた。ある日SNSを覗くと、Aちゃんのお店が試験的にデリバリーをするという告知が目にとまった。

あのカレーが??
家で??
食べられるんです???

自粛による引きこもり生活のなか、あのカレーが食べられるんなら最高や! そう思って連絡したら、デリバリーを始めたのはビールのみということだった。うそやん。私下戸やん。でも買う。夫に飲ますわ。10本。

(ボーリングできそう)

配達は郵送だったけれど、ありがとう、とのお手紙が入っていた。
夫は週末ごとにちびちびとビールを飲んでいたが、そのビールがなくなる前に、また新たな情報が舞い込んできた。今度はカレーもデリバリーしてくれるらしい。

ようやく来た、私のターン。ビールの注文が必須だから、うちのビール在庫はえらいことになるけれど、それもよし。

しかも今回は郵送ではなく、Aちゃん自身が配達に来てくれるとのこと。
指定の時刻、連絡を受けてベランダから下をのぞくと、若葉マークの車から降りたAちゃんが、こちらに手を振っていた。春らしくない、日差しの強い日だった。

「ええマンションやな。トイレあるんちゃう? ちょっと貸して」

私にビールとカレーを渡したAちゃんは、またしてもおかんぽいことを言って、颯爽とマンションの共用トイレに消えていった。いやそれ、おかんが我が子の下宿先に来て真っ先にするやつ。

トイレから出てきたAちゃんは、車で待つアルバイトくん(ニョッキだかセロリだか、変わったあだ名だった)に電話をかけ、「トイレいく?」と聞いてあげていた。セロリくんはトイレに行かなかった。

「久しぶり」
「大変やな」
「大変やで」
「子ども産まれてん」
「それも大変やな」
マンションの前で、二言三言、マスク越しに交わして、私たちは別れた。

届けられたカレーは、やっぱりうまかった。
なぜもっとたくさん買っておかなかったのかと悔やむくらいにうまかった。

夫のビールをひとくちだけ飲んでみる。
Aちゃんの、汗と努力と涙の結晶の味がした、とか調子の良いことを言えれば良いのだが、なんせ下戸な私にはよく分からない。ただ、素材を身近に感じる苦味と、オレンジの爽やかな香りが、カレーいっしょくの口を「仕上げ」るようにしゅわっと通り抜けていった。

あれは春のことだったのに、春が夏になって、その夏ももう終わろうとしている。

次は、お店で。
マスクも、なしで。
乾杯しよう。
私は下戸だから、夫に飲ませるけど。



P.S Aちゃんへ。もし万が一この記事を見つけたら、恥ずかしいので、そしていちおう私はここでは匿名なので、ぜひともご一報ください。改稿の要請も受け付けております。あと、なんかごめん。


いつもありがとうのかたも、はじめましてのかたも、お読みいただきありがとうございます。 数多の情報の中で、大切な時間を割いて読んでくださったこと、とてもとても嬉しいです。 あなたの今日が良い日でありますように!!