【小説】 ニッキ飴

 ぼくは出来るだけ、お母さんに優しくしようと思っている。

 お母さんは美人で、外面がいい。きれいなお母さんで良かったわねと、人からよく言われるけれど、家の中でのお母さんは、本当はとてつもなくだらしなく、そしてヒステリックな人だった。
「私に死ねと思っているんでしょう」
「あなたは私を責めている」
 そう叫んでは、手当たりしだいに家の物を投げつける。そうやってぼくやお父さんに当たり散らしたあとは、部屋にこもって、トイレ以外はずっと布団にくるまって、家事はおろか食事すら取らなくなって、ぼくたちが謝りに来るまでずっとそうしている。ぼくはただ、ぼくの意見を聞いてほしかっただけで、お母さんに死ねなんて思ったことはなかったのだけど、でもずっとそういうふうに言われていると、本当にそう思っているような気になってくるから不思議だった。

 ある日、ぼくとお父さんは、そんなお母さんを家に置いて車ででかけた。行き先は分からなかったけれど、ぼくは黙って助手席に座り、聴いたこともない英語の音楽が車中に流れるのを聴いていた。ときおりお父さんはその歌を口ずさみ、ぼくはそんなお父さんを見たのが初めてだったので驚いた。

 車は海沿いのボーリング場に停車した。その駐車場で、見たことのない女の人を紹介された。お父さんよりすごく若くて、色が白くて、少し太っちょな人だった。こんにちは、と笑ったその目が、細くて顔に埋まってしまいそうだった。その人はぼくに、茶色い透明の飴をくれた。
「これはね、ニッキ飴っていうの。すこし辛いんだけど、お姉さんこれが大好きなの。食べてみて」
 隣で見ていたお父さんが、俊は辛いものが苦手だからなと笑った。ぼくはそれを口に放り込んで、露骨に顔をしかめた後、親指を立てて「グッド」のサインをした。女の人もお父さんも笑っていた。
 それからぼくたちはボーリングをしたけれど、ぼくも女の人もものすごく下手っぴで、上手なお父さんの姿を見て、二人でわあわあ手を叩いてばかりいた。ぼくは、お母さんだったらこんな時、ぜったいに不機嫌になっただろうな、なんてことを考えた。
 ボーリングを終えて、夜になって、みんなで近くのレストランでご飯を食べた。女の人はお父さんととても仲が良いみたいで、健介さんはこれが好きなんでしょう、なんて言ってお父さんと一緒にメニュー表を覗き込んでいた。ぼくはそのとき、この人がお母さんだったらいいのにな、ということを思いながら二人を眺めていて、ハッと我に返ったとき、ぼくの心は罪悪感でいっぱいになった。
 それから後のことは覚えていない。食事を終えて、お姉さんとさよならをして家に戻ると、ぐちゃぐちゃだったリビングはさらにぐちゃぐちゃになっていて、ぼくとお父さんは、お母さんが、どこへ行っていたのかと叫び続けるなか、ただひたすら一晩中、ごめんなさいを繰り返した。

 それから何度か、あの女の人には会ったけれど、しばらくしてそれもパタリとなくなった。そのときのお父さんはすごく悲しそうで、だからぼくは、あの女の人がぼくのお母さんになることはなくなったのだということを理解した。それはすごく残念なことで、そして残念に思っていることはお母さんに対してとても酷いことで、だからぼくはお母さんには絶対に優しくしようと心に決めたのだった。

「私に死ねと思っているんでしょう」
 そう聞かれてぼくはいつも真心を込めて答える。
「ううん、思ってないよ、ほんとうに」

 だけどぼくはそれから、ニッキ飴を肌身はなさず持ち歩くようになった。


いつもありがとうのかたも、はじめましてのかたも、お読みいただきありがとうございます。 数多の情報の中で、大切な時間を割いて読んでくださったこと、とてもとても嬉しいです。 あなたの今日が良い日でありますように!!