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【小説】 ぜんぶ、わたしの

「私これがいい。メイプルシナモン、ひとつ。」
 ドーナツ屋のレジで、エミコはそれを指さす。
「もー、エミコが食べるんじゃないんだって。松田さんの送別会用なんだから、松田さんの好きそうなやつ選ばないと」
 同僚のマリがエミコを嗜める。いいの、だってどうせ私が食べるんだから、とエミコは心のなかで呟いた。
「じゃあプレーン。松田さんはプレーンが好きなんじゃないかな」
 何でもシンプルが好きな人だから。鞄も、スマホケースも、夜の行いも。

 松田さんの転職を惜しんで、送別会にはたくさんの人が集まった。松田さんは目まぐるしく席を替え、色んな人のところへ挨拶に回っていた。
 少し場が落ち着いてきたところで、松田さんから皆への挨拶があり、マリから花束が、エミコからドーナツが手渡された。
「ありがとう!」
「おつかれさん」
「美人な奥さんによろしくな!」
 どこからともなくそんな野次が飛ぶ。どっと笑う観衆の中で、エミコだけがうまく笑えない。薄暗がりの中で、松田さんの左手薬指の指輪がやけにギラギラと光っていた。

 送別会は二次会に及び、二次会が終わると松田さんは「それじゃ、そろそろ僕はここで」と言った。「嫁さんに怒られちゃうもんな」「早く帰ってやれ」という声に見送られて帰路についた松田さんは、途中にあるいつものホテルで、同じく二次会で切り上げたエミコと落ち合ったのだった。

「幹事、ありがとうね」
 部屋に入る前のエレベーターから、松田さんはエミコの腰に手を回し、髪に唇を寄せて囁いた。
「これ、エミコが選んでくれたんでしょ?」
 エミコの前にドーナツの袋をユラユラさせて、松田さんが笑う。笑うと八重歯が印象的な人だった。
「あとで一緒に食べよう」
「あとって?」
「終わった、あと」
 また、松田さんの口元に八重歯がのぞいた。

 松田さんは今日も、シンプルに優しくエミコを抱いた。
 これでもう、何度目だろう。エミコの憧れが陶酔と罪悪感に変わったのは、半年ほど前のことだった。家が窮屈だとこぼす松田さんとエミコが飲みに行くようになり、一線を越えて男女の仲になるまで、それほど多くの時間はかからなかった。エミコにとって初めての、人に言えない恋愛。松田さんの逃げ場になれるなら、松田さんの癒やしになれるのなら、それで良い。優しい松田さんの眼差しの先に、私がいる。その事実はエミコにとって、常識やモラル、あまつさえ自尊心よりも大切なことのように思えたのだった。

「ドーナツ、食べます?」
 下着にバスローブを羽織って、二人分、備え付けの紅茶を淹れながら、エミコは松田さんに問うた。松田さんにはプレーンのを買ってあるんです、とは言わなかった。
「俺は要らないかなぁ。エミコの食べてるところを見てたいな」
 そう言って松田さんは紅茶を受け取り、ときおり八重歯を覗かせながら、エミコがドーナツを食べる様を眺めていた。
「ドーナツって、なんで穴が空いてるんでしょうね」
 エミコはそう言いながら、一つ食べきったところで二つ目のドーナツに手をのばした。松田さん用に買ったプレーン。
「エミコが持ちやすいようにじゃない?」
 真剣な顔で松田さんが応じる。その顔を、エミコはドーナツの穴ごしに見つめながら言った。
「先を見通すためかも」
「先を?」
「松田さん、おせちって食べます?」
「今は食べないな。その…まあ、作ってくれないから。実家にいたころは、食べてたよ。毎年」
 ドーナツの穴から見える松田さんは、伏し目がちに頬の髭を撫でた。
「おせちに入ってるレンコンって、『先を見通す』縁起物なんですって」
「うん」
 松田さんがゆっくりと、紅茶をすする。
「だから、もしかしたらドーナツも、『先を見通せる』のかもしれないなあ、と思って」
「…うん」
 ドーナツの中の松田さんと目が合う。
 一秒、二秒、三秒。
「…転職は、」
「うん?」
「転職は上手くいく、だそうです」
 ドーナツの裏から無邪気に笑って、エミコはようやく、そのドーナツを口にした。松田さんが食べなかった、プレーンドーナツ。
「ありがとう」
 松田さんがメガネの奥の目を細めて笑った。


 「これ、あげる。残りもエミコが食べていいよ」
 午前三時。帰り支度をしながら、エミコが食べ切れなかったドーナツを指して、松田さんが言った。あと一つ。最後に残った、エミコの好きなメイプルシナモン。
「いらないんですか」
「一つだけ持って帰るのも…ねえ」
 髭を撫で、エミコの髪を撫で、その身体を引き寄せて松田さんが言った。
「元気でやるんだよ」
 寂しそうに、でもいつも通り、松田さんは「また会おうね」とは言わない。同じ職場を去るこの期に及んでも、松田さんはエミコに「またね」とは言ってくれなかった。 

 二人で迎える朝はない。それも、いつも通り。松田さんが出ていった扉をしばし見つめて、気がつくと涙がエミコの頬をつたっている。それも、いつも通り。

 チェックアウトまでの時間、エミコは松田さんの腕の中で眠る夢を見ながら、ぬくもりの残らない布団にしがみついて夢と現のあいだを行き来する。会ったことも見たこともない「美人な奥さん」が夢に現れたところで、エミコは目を覚ました。夢見の悪さに唸りながらシャワーを浴びて、朝食代わりに食べようと例のドーナツを取り出す。メイプルシナモン。

「やっぱプレーン買う必要、無かったんじゃん」
 そう呟いて、エミコはドーナツの穴から部屋を見渡した。冷えたベッド。松田さんが飲んだマグカップ。ゴミ箱のコンドーム。一人分のコート。一人で出る扉。
 あのとき言おうとした言葉。
「私たちの未来に、見通しはないですね」

 エミコは喉から衝き上げる何かを押し込むようにして、ドーナツを口に詰め込んだ。甘くて、甘ったるくて、しょっぱい。それはまるで、ドーナツに首を締められているかのようだった。


いつもありがとうのかたも、はじめましてのかたも、お読みいただきありがとうございます。 数多の情報の中で、大切な時間を割いて読んでくださったこと、とてもとても嬉しいです。 あなたの今日が良い日でありますように!!