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エッセイ「徒然なるままに、土曜日」

2024年3月2日、午前

 先月、久しぶりにTwitter(X)で呟くようになってからというもの、まとまった文章を書く時間がめっきり減ってしまった。どこからともなく訪れる「焦り」のような感覚を認めたのでパソコンを開く。さて、何を書こうか。とりあえず指を動かしてはみるものの途端に行き詰ってしまった。私はもともと「何かを書こう」と思って筆を起こすタイプではない。「書きたくてたまらない何か」が湧き出た時に自然と書いてしまうタイプなのだ。決められたテーマで決められた頻度エッセイを投稿するプロを見ると、私にはとてもじゃないができないなと思う。もちろん誰もができるわけではないから彼らはお金をもらえるし、それ故に「プロ」なのだが。
 このように意外と「何を書く」と決めずにうだうだ書き連ねるのは得意かもしれない。考えてみれば暇さえあれば一人でうだうだやっているのだから当然か。私の頭の中は何かを見て、何かを思い、自ら「そりゃそうじゃ」と突っ込むというサイクルを繰り返している。この時間を「創造と破壊」と表すのだろうか。数十年前には自己完結で終わらせるしかなかったであろうものを、私は今、全世界に向けて垂れ流している。私の頭の中を読んでくれる人がちらほら存在することは不思議でまだ半信半疑だが、ありがたい。noteを始める前と比べて自らの「居場所」を感じられるようになってきたと思う。
 どうやら「居場所」というのは私にとって非常に重要なキーワードらしい。先日、知人の住まいを訪問する機会があったのだが、他人の生活空間に足を踏み入れることがいかに私を混乱させるか再認識する出来事となった。昔から「誰かの生活」を感じる場所は苦手だ。友達の家はもちろん、偉人の生家や平城京跡など今は誰も住んでいない歴史的建造物(や跡地)でさえ、空気が重く肩にのしかかり苦しさを感じる。その理由の一つは単に慣れない場所が苦手というものだが、それ以上に私の神経を刺激し混乱させる「何か」がある。こう見えてあまりスピリチュアルな話を好まない私なのでひとまず「感受性」の言葉で片付けようと思うが、私の想像力は自分が思っている以上に奔放なのかもしれない。
 振り返ってみると子供の頃から「家にいるのに帰りたい」と思っていた。家にいたって帰りたいのだから、外にいる間はもちろんもっと帰りたかった。「どこに」と聞かれると困るのだが、自室よりも落ち着ける「居場所」がある気がしてならない。「どうして?」と聞かれるともっと困る。とりあえず納得している答えは「私は宇宙人だから」なのだが、そんなことを真顔で言っても誰も真剣に取り合ってはくれない。電波キャラをやりたいほど「個性」を求めていないし、むしろ私は「普通」でいたいのだが。
 「居場所」を考えていると必ず思い出す歌詞がある。―― 月で生まれた人は 地球には戻れない ――YUKIのCOSMIC BOXという曲の出だしだ。どういうわけかこのフレーズを聞くと「確かにな」と納得できる。やはり私は宇宙で生まれたのだろうか。生命の源が宇宙からやって来たという話が本当なら、あながち間違いではないのかもしれない。いいや、間違いだろうか。さすがに言い過ぎだろうか。突拍子もないのだろうか。私の確かな「居場所」はどこにあるのだろうか。

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