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俳優・坂本龍一の軌跡

 坂本龍一の50年近いキャリアの中でも、特筆すべき項目のひとつが、『ラストエンペラー』によって第60回アカデミー賞作曲賞を受賞したことだろう。
 エンニオ・モリコーネをはじめとする映画音楽の巨匠たちが、監督のベルナルド・ベルトルッチへ、我こそはとアピールするなかで、坂本が音楽も手がけることが決まったのは、撮影終了から半年後。ベルトルッチは当初、坂本を〈俳優〉として起用しただけだった。

 俳優・坂本龍一の誕生は、今やクリスマスのスタンダードナンバーになったMerry Christmas Mr.Lawrenceを生んだ大島渚監督の『戦場のメリークリスマス』(83年)が原点。坂本が演じた捕虜収容所所長のヨノイと、英国軍陸軍少佐ジャック・セリアズ(デヴィッド・ボウイ)との関係を描いたこの秀作は、最初から坂本龍一の出演が決まっていたわけではなく――というより、ビートたけし、デヴィッド・ボウイも含めて、キャスティングが二転三転した末に決定したものだった。

 最初の配役では、ロバート・レッドフォード、滝田栄、緒形拳が予定されたが、レッドフォードは大島の監督作ということで興味を示したものの、脚本を読んでアート・フィルムの要素が強いため断ってきた。結果、ハリウッドスター出演の大作を予定していたはずが雲行きは怪しくなり、製作費の調達も停滞したことから製作開始が遅れ、滝田、緒形も予定が合わなくなってしまう。レッドフォードに代わってデヴィッド・ボウイの出演が決まり、日本人俳優は、勝新太郎、若山富三郎、菅原文太、沢田研二、三浦友和らが候補となって次々とオファーしたが決まらず(沢田研二+勝新太郎でも見てみたかった!)、最終的に演技では未知数の坂本龍一とビートたけしという、同時代の人気ミュージシャンと漫才師という意外な組み合わせとなった。

 これは奇をてらったものではなく、大島渚は初期作のころから「一に素人、二に歌うたい、三、四がなくて五に映画スター、六、七、八、九となくて十に新劇」と公言していた。つまり、映画の主役なんてものは演技の基礎を習得した舞台俳優や演技派ではなく、演技経験の全くない素人=新人を抜擢するか、歌手が良い。それがダメなら誰もが知っているスター俳優を起用すべきだというわけだ。
 実際、大島の映画は素人、新人俳優、歌手が主役になることが多い。遺作となった『御法度』(99年)も、まだ芸能界に入っていなかった松田優作の遺児、松田龍平を発掘し、これがデビュー作となった。その意味で、デヴィッド・ボウイ、坂本龍一、ビートたけしという組み合わせは、結果的に大島好みの並びとなったわけだ。

 『戦メリ』(この略称は大島渚の要望で使われることになった)の音楽は、坂本への出演交渉の席で、坂本から言い出した。大島と坂本はこのときが初対面であり、当時の坂本に映画音楽の経験はなかったが、大島は即座にその申し出を了承した。そして撮影が終わり、それまで撮ってきたものを東京に持ち帰って現像した頃、ちょうどベルナルド・ベルトルッチが来日した。5時間16分の大作『1900年』(76年)が6年遅れで日本公開されることになったためのキャンペーンである。『戦メリ』のラッシュを観たベルトルッチは、ボウイが坂本を抱き寄せるカットを、映画史上最も美しいラブシーンだと称賛したという。だが、この段階では、まだベルトルッチと坂本は出会っていない。やがて、『戦メリ』のプロデューサー、ジェレミー・トーマスが『ラストエンペラー』も手がけることになり、両者の距離が近づくことになる。その一方で、『戦メリ』と『ラストエンペラー』の間に、1本の主演映画が坂本にオファーされていた。

 1983年5月28日に『戦メリ』は公開されたが、それから1月も経たない6月16日、フランシス・F・コッポラ製作総指揮、製作・山本又一朗、ポール・シュレイダー脚本・監督による『MISHIMA -11月25日・快晴-』(仮題)の製作発表が行われた。
 三島由紀夫の自決した日を軸にその半生と代表作を組み合わせて描く国際大作である。日本人俳優を起用した日本語の映画ということで、国内の注目も高かった。最初に三島役へオファーされた高倉健が周囲からの反対で断ると、次に名前が挙がったのが他ならぬ坂本龍一である。もちろん、これは公開中の『戦メリ』がヒットしたことによる反応だろうが、インテリジェンスとナルシズムを併せ持つ存在を演じるには、既存の俳優では難しいという判断もあったのではないか。

 坂本は“ある理由”で断ったが、その後、45歳で自決した三島を演じる日本人俳優を探すのは困難を極めた。無名の新人を含めて候補は50人にも達し、山本寛斎、永島敏行、小林薫らの名も挙がった。最終的に三島役へ決まったのは、奇しくも『戦メリ』で最初に配役されていた緒形拳だった。なお、三島の遺族からのクレームなどを理由に、この作品の日本での劇場公開は見送られた。

ベルナルド・ベルトルッチとの攻防

 坂本龍一とベルトルッチの初対面は1985年。第1回東京国際映画祭の審査委員として来日したベルトルッチと、レセプションで顔を合わせた。今度、清朝最後の皇帝、愛新覚羅溥儀の話を撮る予定だと熱心に語り始めたベルトルッチと、気がついてみれば1時間以上話し込んだ坂本だったが、このときはまだ正式にオファーがあったわけではない。ただ、プロデューサーのジェレミー・トーマスは、日本人キャストに坂本と大島渚を巻き込もうと画策していた。

 1986年に正式の出演オファーがあったとき、まだ脚本ができておらず、何を演じるかもよく確認しないまま、ベルトルッチの作品に参加できるならと、坂本は出演を正式に了承する。これには理由があった。
 1982年に中上健次の小説『千年の愉楽』が出版されると、直ぐに坂本は映画化を思い立ち、中上に申し出ると快諾を得た。監督には面識はなかったがベルナルド・ベルトルッチしかいないと坂本は考えていた。だが、中上がこの企画を角川書店の社長・角川春樹に話すと、角川映画のプロデューサーであり、『汚れた英雄』(82年)で監督デビューしたばかりでもあった角川は、「オレが監督する」と言い出したため、坂本は映画化を諦めることになった(遥か後に若松孝二監督によって映画化された)。
 こうした経緯があったためにベルトルッチからのオファーに無条件で了承したわけだが、後で確認すると自分が演じるのは甘粕正彦の役だと気づき、坂本はいささか後悔したという。

 というのも、甘粕正彦は憲兵大尉だった1923年、関東大震災の混乱に乗じてアナーキストの大杉栄と内縁の妻・伊藤野枝、大杉の甥でまだ6歳だった橘宗一を拉致し、虐殺した事件を起こした人物である。懲役10年の判決により下獄していたが恩赦により保釈され、満州で特務機関を設立して暗躍。愛新覚羅溥儀とは満州国建国時に関係し、その後は満洲映画協会(以下満映)理事長の席につき、終戦と共に自決した。甘粕事件と呼ばれた虐殺事件のダークなイメージと裏腹に、満映時代は一般人には柔和な印象を持たれており、単純なヒールというわけでもない。

 これまで映画では、新東宝の『大虐殺』(60年)に甘粕事件の一端が描かれており、沼田曜一が甘粕を演じている。『ラストエンペラー』に登場するのは満映時代の甘粕である。坂本が甘粕役に怯んだのは、その経歴というよりも、「またファナティックなバッド・ジャパニーズを演じてしまうのか」(『季刊リュミエール』1987-冬 第10号)という杞憂だった。『戦メリ』のヨノイ役が、その後の〈俳優・坂本龍一〉に三島由紀夫、甘粕正彦の役を引き寄せるほどの狂気と妖しさに満ちていたといえば聞こえはいいが、逆に言えば、俳優としての可能性を画一的なイメージへ押し込めてしまうほど、インパクトが強かったということでもある。

 こうした波乱を予感させながらスタートした『ラストエンペラー』の撮影は、間もなく甘粕の最期をめぐって坂本とベルトルッチの間に齟齬が生まれて表面化することになった。
 昭和20年8月20日に甘粕が自殺したのは史実通りだが、その死ぬ方法が、実際は青酸カリによる服毒自殺だったが、ベルトルッチは脚本で切腹へ変更していた。これに驚いた坂本は、1週間にわたって説得工作を行った。史実とは違うことよりも、例え演技でも切腹するのは嫌だと坂本は主張した。

「あなたのような素晴らしい監督が自分の映画の中で切腹シーンなんか入れたら、日本人だけでなく世界中のあなたのファンが嘲笑するし悲しむからやめろ。ぼく自身もやる気はないんだから、ぼくをとるか切腹をとるかどっちかにしてくれ」(前掲書)

 そう迫った末、坂本はベルトリッチを折伏させることに成功した。

 ベルトルッチとすれば、本作の甘粕には日本人を象徴させる意図があっただけに、切腹というイメージが浮かんだのだろうが、坂本が『MISHIMA』で三島由紀夫役を断った“ある理由”も真相はそこにあったのではないか。前掲書で坂本は三島役を断った理由について、「やはりポール・シュレイダーとベルナルド・ベルトルッチとの違いでしょうね」と、暗に才能の差を示唆したが、三島がどのような形で自死を遂げたかを踏まえれば、〈切腹〉を演じることの忌避が大きかったのではないだろうか。

 結果として『ラストエンペラー』の切腹シーンは回避され、ベルトルッチと坂本のコラボレーションが極めて上手く進んだであろうことは、坂本演じる甘粕の気品あふれる振る舞いと、底に狂気を秘めた姿をフィルムに刻み込んだことからも実感できるはずだ。

幻の主演映画『ハリウッド・ゼン』

 『ラストエンペラー』以降の坂本龍一の俳優活動は、現段階では『ニューローズホテル』(98年)のみである。この作品で坂本は、銀縁眼鏡で冷徹な大企業の役員を演じているが、顔出し程度の役で特筆するほどではない。
 それよりも、この前に幻の出演作——それも、『戦メリ』『ラストエンペラー』を超えて代表作になっていたかも知れない主演作が存在した。それが大島渚監督の『ハリウッド・ゼン』である。

 フランス映画『マックス、モン・アムール』(86年)以来、新作が途絶えていた大島は、『戦メリ』のプロデューサー、ジェレミー・トーマスに新作の企画として、サイレント映画時代にハリウッドで大スターとなった日本人、早川雪洲を描く企画を提案した。

 もっとも、もとを辿れば、『マックス、モン・アムール』をパリで撮影中の大島にパリ在住の日本人ジャーナリスト・平井ゆかりが取材で対面した後、自ら書いた脚本を持参したのがきっかけである。平井が書いてきたのは、1923年にパリを訪れた大杉栄がアナーキストらとの会談を重ね、やがて逮捕されて国外退去処分となった実話をもとにした企画で、大島は興味を示した。なお、この1923年に日本へ強制送還された後に大杉は、前述したように、関東大震災の騒乱に乗じて憲兵大尉の甘粕正彦に虐殺されることになる。

 平井が次に提案したのが早川雪洲の企画だった。大島はこの企画にも乗って、平井に脚本を書かせた。大島が改訂を指示するなど、しばらく脚本作りにかかっていたようだが、ある時、大島は単独で同じく早川雪洲を主人公にした異なる視点からの脚本を執筆することにした。言わば、若い映画志望者の企画を奪ったようなものだが、なんらかの形で納得させたのだろう。
  これ以前にも大島は『愛のコリーダ』(76年)の時も、旧知の脚本家・映画監督である深尾道典に脚本を書かせたが、ある時、全て引き取って単独で脚本を書いた。それが後に深尾から批判されたこともあったが、全てを一から作り出す映画監督がいる一方で、他人の才能から企画のきっかけを掴む監督もいる。『愛のコリーダ』以降の大島は、自分が作りたい映画というよりも、海外のマーケットを意識したエキゾチックな企画を好むようになっていく。

 大島の単独執筆で進み始めた『ハリウッド・ゼン』だが、脚本作りは難航する。大島はその理由をこう説明する。

「困ったことに、調べれば調べるほど考えれば考えるほど、セッシュウは魅力あるキャラクターとして浮かび上がって来ないのである。たしかに明治の日本人男性として、現在の日本人男性などよりはるかに強い精神性、肉体的人格を持っていたことは事実である。しかし、それは逆にいえばマッチョということであり、その女性関係などはとうてい現代の女性の容認できるところではない。」(『戦後50年映画100年』大島渚 著/風媒社)

 こうして、当初は早川雪洲のハリウッドでの成功を描く企画が、やがて彼の妻で女優の青木ツルを中心に、雪洲を追い抜いていったルドルフ・ヴァレンチノをめぐる内容へと変わっていった。
 脚本が完成し、キャスティングの検討が始まると、雪洲役を坂本龍一にと最初に言い出したのは、ジェレミー・トーマスだった。大島も最初から坂本を想定していたが、プロデューサーが言い出すのを待っていたという。妻・青木ツルに相応しい日系女優が見つからず、『ラストエンペラー』で皇后役だった中国人女優のジョーン・チェンが選ばれた。そしてヴァレンチノ役はジョニー・デップを始め幾つも候補が挙がった末にアントニオ・バンデラスが決まった。

 製作費70億円、1991年11月4日クランクイン、翌年1月末クランクアップ予定の大島映画としては空前の大作である。坂本は10月から開始予定だったワールドツアーを延期して雪洲役に打ち込むと語り、カナダのトロントにロケ地も決定するなど、着々と撮影開始に向けて進んでいた。
 ところが、セットの建込みも始まり、あと数週間でカメラが回ろうとする中、突如として製作が中断した。ジェレミー・トーマスが行っていた製作費の調達に見込みが立たなかったからだ。当時、彼はベルトルッチの『シェルタリング・スカイ』(90年)の興行が不発に終わり、苦境に立たされていた。結局、製作は一時中断し、半年後の1992年5月下旬に撮影開始が延長されることになっていたが、これもまた延期となり、同じくベルトルッチの『リトル・ブッダ』(93年)がヒットすれば今度こそ『ハリウッド・ゼン』も――という望みも虚しく、幻の企画となって終わった。

 だが、撮影寸前まで進んだだけに、〈俳優・坂本龍一〉がこの作品でどう映されようとしていたかを窺い知ることができるヒントを大島は残している。例えば1992年春には、こう発言している。

「彼(坂本龍一)には男の色気があるし、どんなときもサマになる人間的な華やかさがある。『戦メリ』から10年、英語も完璧になり一段とスケールアップした坂本さんなら雪洲を演じきれる」(『キネマ旬報』1992年4月上旬号)

 そして、音楽も担当することになっていた坂本は、「今回の映画ではジャズの時代の1920年代をどう表現するか自分も楽しみにしており、『戦メリ』以上の作品にしたい」(前掲書)と抱負を語っている。
 『ハリウッド・ゼン』の製作中止は、俳優としての坂本龍一の新たな飛躍と、音楽家としての坂本龍一のキャリアに加わっていたかも知れない可能性が無くなったという意味でも惜しまれる。

坂本龍一と切腹

 その後、『マックス、モン・アムール』から13年の歳月を経て、大島は新撰組を描いた『御法度』(99年)を撮り、坂本は音楽監督として参加した。出演も、という話はあったようだが音楽に専念している。

 ところで、近年になって『ハリウッド・ゼン』の脚本が公刊(『大島渚著作集 第四巻 敵たちよ 同士たちよ』大島渚 著/現代思潮新社)されたことで、初めて内容の詳細も明らかとなったが、ここでも前述した坂本龍一と〈切腹〉をめぐる因縁が含まれている。それは、早川雪洲が自宅マンションのプールサイドで、ある日本人から刀を贈られるシーンに見られる。
 その刀を雪洲は傍らにいた俳優志望のルーディーことルドルフ・ヴァレンチノの喉元に突きつける。
 脚本には「雪洲は声を出して笑う。ルーディーは雪洲に微笑む」と、後に雪洲を追い抜いていくことになるヴァレンチノとの嫉妬愛憎を予感させる描写が書き込まれている。
 そして、刀を持ち込んだ日本人が、「この刀は、乃木将軍の持っていた刀の作者によって十六世紀に作られたものです」と説明すると、雪洲は怒り始める。
「なぜ乃木将軍の話をするのかね? それは日本でのことだ。私はここに住んでいる。乃木将軍には何の興味もないね」
 ルーディーが乃木将軍とは誰かを訊ねると、雪洲は「乃木希典大将は日露戦争のヒーローだった。彼は天皇の葬式の日に切腹したんだ。儀式的な自殺だけれど」と答える。さらにルーディーが戦争に勝って自殺したのか疑問を呈すると、雪洲は言う。
「自分の主人の死出の旅のお供をするというのは、日本古来の風習なのさ」     
 雪洲にとって、明治天皇と殉死した乃木将軍は極めて古めかしい日本人的な美的感覚の持ち主であり、多くの日本人のような崇拝の対象ではない。そして刀を持ち込んだ日本人へ「雪洲はアメリカでは刀は必要ないということをどうかおぼえておいて下さい。僕にはスパゲティと禅があれば充分です」と言い放つ。
 坂本龍一が『ラストエンペラー』の切腹シーンを拒否し、『MISHIMA』の三島由紀夫役を断る背景に見え隠れした〈切腹〉という儀式への嫌悪を、間接的ながら鮮やかに描いてみせたシーンと言えよう。

 ここで坂本の俳優としてのキャリアの始まりとなった『戦場のメリークリスマス』を思い出してみよう。この作品もまた朝鮮人軍属に切腹させようとするハラ軍曹(ビートたけし)のもとへ、坂本が演じるヨノイ大尉が現れるところから映画の幕が開く。〈俳優・坂本龍一〉が切腹と共にあったことは、『戦メリ』を全編観れば、いっそうその思いを強くするはずだ。

「またファナティックなバッド・ジャパニーズを演じてしまうのか」と、ぼやきつつも、そうした役を引き受け、演じ続けていたのが俳優・坂本龍一だった。
 『ハリウッド・ゼン』が実現していれば、脚本だけでは不鮮明だった〈坂本龍一と切腹〉の関係が解き明かされていたに違いない。大島渚も坂本龍一もいない今、それは永遠の謎となって残されることになった。


※ブログ『新映画をめぐる怠惰な日常』2018年7月掲載の記事(現在は非公開)に加筆修正。

【主な参考文献】
『季刊リュミエール』(筑摩書房)
『大島渚著作集 第四巻 敵たちよ 同士たちよ』(大島渚 著/現代思潮新社)
『戦後50年映画100年』(大島渚 著/風媒社)
『月刊イメージフォーラム 1983年 4月増刊 「これでもまだ君は大島渚が好きか!?』(ダゲレオ出版)
『ダ・ヴィンチ』(メディアファクトリー)
『MISHIMA』(垣井道弘 著/飛鳥新社)

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