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廃墟に現れた幻影の撮影所

 伊丹十三は、自らが設立した伊丹プロダクションで製作費を全額出資して映画を作り続けてきた。デビュー作の『お葬式』は低予算(と言っても1億円以上かかっている)だったものの、伊丹プロの自主映画である以上、ヒットしなければ次回作をつくる目処は立たない。

 映画製作における予算配分で、重要な判断を求められるのが、どのシーンをロケーションで撮影し、どのシーンをセットに持ち込むかである。低予算映画ならば、オールロケーションも珍しくない。実際、『お葬式』は、大半のシーンを伊丹の自宅で撮影している。ある程度の予算があれば、撮影所のスタジオにセットを建て込むこともある。

 『マルサの女』は、都内の様々な場所でロケーションされた映画だが、どうしてもセットを組まなければ撮ることが出来ないシーンも出てくる。前半の税務署、後半の国税局査察部などは、実際の場所を借りて撮ることも出来ないので、必然的にセットを組む必要がある。
 しかし、これはスタジオのレンタル費用もかかり、美術費用も含め、潤沢な製作費がないと不可能である。本作の製作費は2億数千万円だが、スタジオに税務署のセットを建てる余裕はなかった。それならば、自由に使える無人の広大な建物に手を加えてロケセットとして税務署を作り出すしかない。そんな、おあつらえ向きな場所が、新宿のごく近くにあった。

 現在、東京オペラシティが建つ東京都渋谷区幡ヶ谷。ここにかつて長らく建っていたのが東京工業試験所である。広大な敷地に大正時代に建てられた研究施設が建ち並び、雰囲気のある階段、各部屋、廊下などが幾つも存在していた。
 1970年代末に筑波へ移転した後は、長らく無人の廃墟となっていたのが幸いし、80年代の低予算映画に頻繁に登場する有名ロケ地となった。
『海と毒薬』(86年)では、戦時中の大学病院として使用され、まるで巨大なセットの様な雰囲気を醸し出していたが、テレビドラマ『スクールウォーズ』などでも活用されていただけに、様々な使い方のできる空間だった。
 伊丹は、黒沢清監督の『ドレミファ娘の血は騒ぐ』(85年)に出演した際にもここでロケを行ったが、『お葬式』でも、劇中でCMを撮影するスタジオの控室の場面で、この廃墟を使用したことがある。そして『マルサの女』では税務署、国税局がここに作られることになった。

 伊丹はこの廃墟をいたく気に入り、「将来取り壊して国立劇場が建つとか聞いているが、現在の使われ方のほうが遥かに文化的だ。大都会の一隅に過去と、そして映画の未来に向かって開いているこのような通路こそが文化財というものではないか」(『「マルサの女」日記』伊丹十三 著/文藝春秋)と絶賛した。
 実際、本作では壁の色をピンク、薄緑などへ塗り替えて変化をつけ、家具、備品を巧みに配置することで、一見しただけでは廃墟で撮影したとは思えないほど、活気に満ちた税務署の空間を生み出している。こうした自由に撮影する場を確保できたからこそ、税務署内、国税局内での同僚たちとの丁々発止を丁寧に撮ることができたのだ。

 東京工業試験所——この廃墟は、80年代の日本映画を影で支えた幻の撮影所と言えるのではないか。



初出『新映画をめぐる怠惰な日常』に加筆修正

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映画監督伊丹十三とは何者だったのか? 伊丹十三と伊丹映画を、13本の記事と4本のコラムをもとに再発見する特集です。

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