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俳優・伊丹十三のこの1本〜 『吾輩は猫である』

 俳優時代の伊丹十三といえば、監督デビュー直前の時期にあたる『家族ゲーム』『細雪』の印象が強いかもしれないが、筆者が〈俳優・伊丹十三〉で1本を選ぶなら、『吾輩は猫である』で演じた美学者・迷亭役を挙げたい。
 おなじみの夏目漱石の同名原作を、市川崑監督によって映画化したもので、苦沙弥教師役には仲代達矢が扮している。

 猫が主人公の映画というのは撮影に苦労しそうだが、すでに『私は二歳』で赤ん坊を主人公にした映画を見事に傑作に仕上げた市川崑からすれば、技工を凝らして猫を擬人化させるのはお手の物だけに、様々な方法が模索されたようだ。
 脚本の初期段階では原作同様に猫が喋る設定だったというが、完成した作品では猫は常に中心に居るものの、終盤まで喋ることはなく、苦沙弥や迷亭が、猫はこんなことを思っているのだろうと、猫の心情を代弁する。それでいて猫の眼を通して社会や人間への批評を加える原作が持っていた視点は、映画でも失われていない。苦沙弥教師の家族や迷亭らを交えた日常を中心に、実業家・金田の娘と寒月の結婚騒動に苦沙弥が巻き込まれ、金田からの嫌がらせに対抗するという、原作のエピソードを巧く整理したものになっている。
 苦沙弥教師にしろ、伊丹が演じた迷亭にしろ、インテリかつ変人であり、何ら誇るものもなく、金に不自由し、妙に頑固な明治時代の文化系男子だが、彼らは世間に対しては何ら役に立たない話を部屋に籠って興じる姿を自覚しており、その寂寥感をほのかに漂わせているのが良い。
 猫の視点で人間たちを観察する市川崑は、毎日呑気に暮らしているような彼らが一瞬見せる暗い表情を見逃さない。シンセサイザーで奏でられるバッハの曲が全篇に配され、人工的な音色がより寒々しく感じるせいもあるが、登場人物が一瞬垣間見せる孤独が際立つ。

 殊に、迷亭が見事な枝ぶりの松を見て、あまりに見事なのでどうしても生きていなければならぬことはないと首をくくろうとする話を得々と話す場面など、その後の自死を思えば特別な思いで観てしまうが、伊丹自身が迷亭のような人間だったのではないかとも思えてくる。 
 なお、本作を観れば、漱石の自宅を参考に邸宅を緻密に再現した美術監督・西岡善信のセットに見惚れてしまうが、伊丹も同様だったようで、台所のセットを出演料から棒引きすることで譲ってもらい、湯河原の自宅(『お葬式』の舞台になった家)へ移築したという。

【初出】『市川崑大全』(洋泉社)の拙稿より一部引用の上、加筆修正。

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映画監督伊丹十三とは何者だったのか? 伊丹十三と伊丹映画を、13本の記事と4本のコラムをもとに再発見する特集です。

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