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1人じゃ やっぱり何もできない

2種類の苦悩について考えた。
1つは、生と死と向き合うことで生まれる苦悩。
もう1つは、生と死と向き合わずに生まれたものによって生じる苦悩。

きっかけは、「ある精肉店のはなし」だった。

これはドキュメンタリー映画。
町役場の小さな講演会場で上映されていた。

製作会社に問い合わせるとDVD(有料)を貸し出してくれて、自主上映会ができるようになっているようだ。

この映画の「精肉店」は、牛を飼い、育てるところから、殺し、さばき、パック詰めし、店頭で売るまでの過程を、一家で営んでいた。

この精肉店の7代目となる兄弟の心にあるのは
被差別部落がゆえに、いわれなき差別を受けてきた親の姿。

この映画には、2つの苦悩が、象徴的に切り抜かれていると感じた。

いつかは自分の手で牛の命をいただく(頭に斧のような道具を振り下ろす) 瞬間がくると分かっていても、飼うことで出てくる愛着。
寂しそうに、どこか清々しく語っていた。
殺すとは言わない。命を終わらすのではない。命をいただくのだから。魚や鶏を殺すと言わずに「しめる」というし、豚や牛を「割る」と言うんだと。

他者の死、自分の生と向き合い続けたことで生まれた苦悩の中で、決心し、生きていた。
強く、美しくすら感じた。

この苦悩とは対照的に描かれていると感じた苦悩は、被差別部落によるものだ。

被差別部落を作り、死に関わるような仕事を、被差別部落の人たちに押し付け、さらに、死を疎ましいものだと自分から遠ざけ、死と向き合った人たちを汚らわしいと忌み嫌い、人として生きることまで否定した。

生と死の危うさを恐れ、向き合うことを放棄した。

そんな人からすれば、差別は正しかったんだろう。
生と死の抜け落ちた感覚。

とても怖いと思う。
美しさなど、とんでもない。

生と死を見つめることは楽ではないと思う。
どうして生きているんだろう。
なんで、あの時、死ななかったんだろう。
自分が生まれてきた意味は?

それが人を死に追いやることもあるだろう。
私は、命を自ら断つことを決して肯定しないけれど、生死を見つめ続けているならば、生死を見放して生きようとするより、ずっと“生”を感じる。

歪(いびつ)で、濁っていて、一見、汚れて見えるかもしれない。
それでも強さと美しさ感じずにはいられない。

だから、私は生きていたい
と思えるのかもしれない。

生死を見放して生じる苦悩など、誰も求めていないと思うんだ。
差別、いじめ、偏見。

生死と向き合えば、それらの問題が全て解決するなどという、甘い考えを持っている訳ではない。

でも、生死と向き合えた人が、誰かに作り上げられた差別や偏見などに苦悩し、命を絶ってしまうのは、どうしようもなく悲しくて、やり切れなくて。

生死と向き合う意味が、生を選ぶ意味が、どこかにないかと探りながら書いてみたんだけど、そう簡単には見つからないみたいだ。

とりあえず今、思うことは、生死と向き合った苦悩の中で生きたいし、その苦悩を吐き出した言葉を聞き続けたいということ。

結局、私は、あなたと生きていたいんだ。

いつもお願いに行き着てしまって申し訳ない。
この手紙を読んでやってくれませんか。
私のために。
弱くて卑怯で、逃げてばかりの私のために。

強くなった私は、きっと誰かの為になることができると思うから。


#雑記 #ある精肉店のはなし #イベントレポ #生 #死

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