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フンヅマリならぬ言ヅマリにご用心

冬虫夏草のように、私から花が咲いたらいいのになぁ。

ごきげんよう、もくれんです。

無気力・自堕落に一週間ほど過ごしまして、通院時にも「よく来れたね。」と先生に言われました。先生、どうもありがとう。

精神的な落ち込みがないし、食べてはいるから「まぁ悪くないのかな。」とぼんやり考えてたけど、無気力も健康とは程遠いなぁとふと冷静になった。

精神疾患はバロメーターがないから厄介だ。よくなってるのかなってないのか判別しづらいし、怠惰なのか疾病なのか、発達なのか性格なのかとかもよくわからない。わかりやすく数値が出る病も数値改善が見られないとイライラするだろうから、どっちもどっちではあるのだけれど。

自分のことを「ビジネスメンヘラなんじゃないだろうか。」と疑うのも疲れる。自分を信じることが揺らぐと、かように人は弱いものだなと思う。

最近どんどん言葉を忘れていっている実感があって、本当にうつとは老いの先取りに似ている。孤独で元気がなくて行動範囲が狭い。虚無虚無しい。

私が子どもの時から今まで、ずっとプライドを持ってるのが文才と言葉の瞬発力なので、こいつらが無くなるとヤバイ。逆に言うと、どんなに病んでも「病んだ時に出てくる私の言葉は美しいな!」というのが逆転一発ホームランのように私の闇に穴を開ける。「こんなに美しい言葉がでてくるなら、このOSもまだ捨てたもんじゃないぞ、ヨシヨシ。」みたいな。

ベッドで布団にくるまりながら「何も言葉がでてこないなぁというか人と話してないから廃れてってるなぁ、でも喋る人もいなけりゃ、やるべきこともやる気力もないなぁ、あーあ。」とひとりごちつつ、通院は行かないといけないのでなんとか行って、行ったついでに松濤美術館に行ってきた。

彫刻家の舟越桂の作品展で、なんとワンコイン(500円)だった。安い。

コレ目当てにわざわざ美術館に行く人はあんまりいないような気がしていて(失礼ながら。)、私が美術館に向かう途中、美術館のポスターを見ている買い物帰りかと思しきおばあちゃんがいた。私が美術館の受付でアンケートに記入していると、先程のおばあちゃんもやってきたので、たぶんさっきポスター見たからやってきたんだろうなと私は思った。元々行こうとしていたようには見えなかったもの。松濤マダムなんだろうか。「今日何日だったかしら?」なんて会話を二言三言して、アンケートを記入し(コロナの影響で連絡先といつ入場したかを美術館が管理しているアンケート)美術館に入った。

松濤美術館はとっても小さい美術館なのだが、ちょっとバブルを思わせる建物が味があって好きだ。ドーナツ型をしていて、なぜかドーナッツホール部分に噴水がある。

舟越桂は作品を見たのはケルンの美術館が初めてで「おやこんなところに舟越桂」と思ったのを覚えている。天童荒太の「悼む人」の表紙になって、おおお~と思ったのは何年前だったか。


一度見たら忘れられない作風なので、名前はよく知っていたが、本格的に作品を見るのは初めてだった。楠で作られた胸像たちは、まったくバミりがなく点在しており、しげしげゆっくり近くで眺めることができる。松濤美術館は天井も高くないので、作品の存在感も他の美術館で見るより増している気がした。

ちなみに、舟越桂のお父さんの船越保武も彫刻家で、船越保武の作品は長崎で二十六聖人を見たことがある。

この長崎の二十六聖人というのは豊臣秀吉に迫害され、とうとう殉教した26人のキリシタンの像なのだが、ちょうど私が長崎に旅行した時に、船越保武が作成にあたって描いたスケッチ・下絵を見ることができたこともあり、とても印象に残っていた。当時「舟越桂のお父さんが作ってたのか、コレ!」と思った思い出がある。また、この二十六聖人というのが、私が修学旅行で長崎に来た時に題材にしたものだったので、いやまし記憶に残った。(私が行っていた高校はミッションスクールだったので、修学旅行で長崎に行く際、長崎のキリスト教について調べて発表しなくてはいけなかったのである。)

26人の聖人の内、最年少の殉教者が12歳で「改宗すれば命は助けてやる。」と言われたのを「つかの間の命など永遠の命に勝るか。殉教を選ぶ。」と殉教してしまった信心深いヤツで、私は長らく「このようにならねばキリスト教を信じているとは言えないのだな。」と思い「キリスト教徒にはなれないし、ならない。」と固く誓ったものである。

そんなことも思い出しつつ、舟越桂の展覧会に臨んだのだが、これがまた非常に良かった。舟越桂といえば木の彫刻に瞳に大理石をはめ込むスタイルが有名だが、その瞳がとても危うげで見てるとも見てないとも言えない目をしている。(もちろん焦点が定まってて優しげな作品もあったが。)

冬の本・舟越桂

(船越桂・冬の本)

これホント写真だとよくわからないので、実物を見るしかないんだけど、実になんとも言えない目をしている。虚ろだが雄弁、とはこのことだと思う。

舟越桂の作品は静かな印象があったのだが、今回の展覧会タイトル「私の中にある泉」の通り、そこから湧き上がるものがたくさんあるなと思った。静かなんだけど、私の中になにかが湧いてくるし、作品自体にもなにかが湧いている。

水に映る月蝕

船越桂・水に映る月蝕

例えば、私は草間彌生の作品を見ても何も湧き上がってこない。草間彌生の作品の主張が強すぎて「草間彌生だなぁ。」と思うだけ。舟越桂の作品も、どれを見ても「舟越桂だなぁ。」ではあるんだけど、それぞれの作品がとても何かを引き出してくる、私の中から。なんだこれは。モネにもルノワールにもロダンにも感じないんだが。なんなんだ、これは!

特に、地上2Fの展示室は入った瞬間に鳥肌が立った。舟越桂のスフィンクス・シリーズが並んでいたのだが、異形なるスフィンクスはよくわからない私の感覚をゾクゾクさせた。

戦争を見るスフィンクスⅡ

戦争を見るスフィンクスⅡ

私は作品を何度も何度も見ながら、錆びついた蛇口がキュルキュルと音を立てて開くように、私の心から言葉が溢れてくるのを感じた。そして、この一週間臥せって、何もしていない私の心に詰まっていた言葉がよどみなく流れていくのを感じた。ありきたりな言葉だけど、美の魔法を感じた。美しいものを見たら、無気力で冬虫夏草になりたかった私の虚ろな心に水が湧き流れ目が見開かれた。繊維のようなものなんだろうか、美しさとは。摂取すると心が流れ、言葉があふれる。

あ、私フンヅマリだったんだわ。

そんな言葉がポロっと出てきた。

フンヅマリならぬ言ヅマリ(ゲンヅマリ)。

言葉が、言いたいようで言えなくてラードのように固まって、心から出てこなかった。言葉がどんどん出てこなくなる自分に涸れ井戸の恐怖を感じた。

美しいものが必要だったんだ。美しいものに染まるとこんなにも私も雄弁になるんだった。私の井戸は涸れてなかった。

感受性が生きていてよかった。震える心があってよかった。それを書ける私の指先に感謝した。

今度また言ヅマリになったら、美しいものを見よう。

これから、何度でも何度でも。


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