父親と乾杯した事がない
私は、記憶の中お父さんと会話をしている死んでいるわけではないが何故か会いたいと思わない。
それは母に申し訳ない気持ちが日々を強くもし弱くもするお酒を呑めるようなり五年程たった今。
ほんの少しだけ父とお酒を酌み交わしてみたいなと思ってしまった。だか、私が知る限り父はお酒が全く飲めない。そう、根っからの甘党男子なのである。印象も申し上げるとこだわりの強い甘党男子。あと、食のこだわりの強さと言ったら母から聞かされて来ただけでも5店舗好きなとこの好きな物が脳裏に焼き付いて離れない。桑園になり、かれこれ印象の中の父と同い年くらいになった。
そう、私は父が大好きである。
同士として好きなのか
異性として好きなのか
父親として好きなのか
未だに謎であるが、その胸のつっかえや答えのない答え合わせが私自身の生きるうえでの日々の課題になりつつある。「幼き頃、私は父に捨てられた」とばかり思ってきたが、最近は「私が捨てたのではないか」と考えるようになった。
年齢があがれば記憶が薄れ食べれたものですら今では食べれないものだとしてショックを受ける始末。そう環境や、物事の捉え方の処理能力ですら速度は落ちていく始末。これが属に言う「大人になった」ではなかろうか。
今、何を見て何を聞いて
何に笑いかけてますか?
こうやって、連絡出来ない日常でのやりとりの中で過去と比べる事への執着がどんどん薄れて行けるとき、私は幸せになってもいいんだと言われている気がした。そう、変わりたいと想える程にアナタに恋してる。この先の未来を見てみたいなと色んな方法で乾杯を繰り返す私。
強さと弱さの隣り合わせで私にとっての
「#また、乾杯しよう」
が繰り返される。思い出は時に残酷で時にほっこりして色んな感情を私にくれる。生きるうえでの過去への会話より未来への会話楽しめる人間で私は在りたい。その方は、私に似てるようで似てないどこか懐かしさもあり、魂の中でなんでそんな感覚なのか理解できないけど理解してみたいと思わせる不思議さにいつも翻弄され、なんでそんなに私は、アナタを必要としているのかを日々自問自答しては好きなのだと再確認している。
これから先、愛に変わる乾杯は訪れるかは
まだ分からないがなるようになりたいと
願い続ければきっと
相手も心打たれる事もあるかもしれない。
そんな風に私はまた、乾杯をする。