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三大運河についての雑学

先日、世界の海運の重要な位置を占める、エジプトのスエズ運河

スエズ運河

で大事件が発生しました。

日本の船会社が所有する巨大コンテナ船「EVER GIVEN」

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が、運河内で座礁し自力航行不能になってしまったのです。

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その時の様子を撮影した写真がこちらでまとめられています。

EVER GIVENは、全長400m、最大幅60m、排水量22万トン程というとてつもない巨大船です。
かの戦艦大和が全長263m、幅38.9m、排水量6万4千トン。

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アメリカ海軍の原子力空母の全長が333mほど

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よりもさらに巨大です。間違いなく世界最大級の船舶と言えるでしょう。

この巨大船が運河を塞ぐように座礁してしまったため、スエズ運河では船の大渋滞が発生。

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欧州とアジア地域の物流に対する影響が懸念されました。

幸い、エジプト当局の必死の努力の甲斐もあり、4月3日に離礁に成功、一時400隻以上にのぼった大渋滞も解消されました。
4月16日現在、賠償問題で同船は未だ足止め中。賠償額は1000億円(!)とも。

ところで、このような運河は何故作られたのでしょうか。
今回、きっかけはともかく、運河の重要性が再認識されたタイミングですので、運河について少し考えてみたいと思います。

1,そもそも運河とは

運河は、船舶の移動のために人工的に造られた水路のことです。
その歴史はかなり古く、日本では平清盛が開削したという伝承がある「音戸の瀬戸(広島県)」や、記録に残っているものとしては江戸初期に開削された「道頓堀(大阪)」などがあります。

海外では、中国でも、7世紀に建設された隋の大運河の話は世界史でよく取り上げられますし、エジプトでも紀元前500年頃に運河が開削されたそうです。
現存するもので有名どころとしては、ルイ14世の治世に開削され、フランスの物流に革命をもたらしたミディ運河(1681年開通)

ミディ運河

北米大陸最古のカナダのリドー運河(1832年開通)

リドー運河

があります。

今も昔も、水運は物流の極めて重要な分野です。
低コストでの大量輸送に関して水運にかなうものはありません。

輸送の形態を大別すると、
・陸上輸送(人力、畜力、輸送機械=自動車など)
・航空輸送(航空機)
・水上輸送(船舶)

になります。
それぞれ一長一短ですが、
水上輸送は「大量性」に優れ、安価に輸送が可能だが、「高速性」には劣るとされます。
そのため、傷みづらい食糧(穀物など)、資源、重量や大きさのある機械類は水上輸送一択になります。
さらには、1960年代以降はコンテナの普及により荷役が大幅に効率化。コンテナ船による輸送も活発化しています。

日本の貿易は、重量ベースでは99%、金額ベースでも75%が水上輸送に依存しています。
日本の場合は島国という特性もありますが、世界的に見ても水上輸送への依存度は現在でもかなり高い状況に変わりはありません。


2,世界の主要な運河

世界中には多くの運河が開かれましたが、現役の運河で特に有名なのはやはり、地中海(大西洋)と紅海(インド洋)を結ぶ「スエズ運河(エジプト)」

スエズ運河2

太平洋とカリブ海(大西洋)を結ぶ「パナマ運河(パナマ)」

パナマ運河

北海とバルト海を結ぶ「キール運河」

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です。
これらを合わせて世界三大運河と言われています。

3,スエズ運河とは

スエズ運河は、地中海と紅海を結ぶ運河です。
もう少し広く見ると、大西洋とインド洋を結んでいると考えても良いですね。

スエズ運河


全長はおよそ200km、現在通行できる船の最大幅は77.5m、喫水は20m以下。
これは「スエズマックス」と呼ばれる基準で、今でもこれを上回る大きさの船はアフリカ最南端の喜望峰経由でインド洋に向かわなくてはなりません。

1859年に建設が開始され、開通は1869年。建設におよそ10年の歳月がかかりました。

スエズ運河建設を主導したのはフランスです。
ナポレオン三世の縁戚でもあるフェルディナン・ド・レセップス

レセップス

でした。
彼は度重なる困難を乗り越え、スエズ運河を完成させます。
特にイギリスによる建設妨害工作は非常に激しく(イギリスは、運河開通によりインド航路の支配権を失うことに強い危機感を持っていました)、運河建設は遅れに遅れ、開削費用も想定の2倍に膨れ上がります。
また、掘削工事に当初、エジプト人を賦役として強制動員したこともあり、諸外国から非難を浴びたこともありました。
当時のオスマン帝国エジプト総督サイード・パシャ

サイード・パシャ

が40歳という若さで急逝したのは、その時の罪悪感などで心労を重ねたためとも言われています。

※実は、スエズ運河建設を近代で最初に企画したのは、かのフランス皇帝ナポレオン・ポナパルト

ナポレオン

でした。
しかし彼はまさかのミスと勘違いで、その計画を諦めることになります。
そのお話はまた別記事で…。

スエズ運河が結ぶ地中海と紅海には海面の高低差がほぼなかったため、建設方法は「水平式(単純に水路を掘りぬく)」で行われました。

建設後、ヨーロッパ・アジア間の航行距離の大幅な短縮は、東西交易の様相を激変させました。
一方、その重要性より国際紛争の舞台ともなり、第二次中東戦争はスエズ運河をめぐるエジプトとイスラエル(とイギリス・フランス)による戦いでした。
この停戦監視にあたったのが第一次国際連合緊急軍(UNEF)で、第一次中東戦争で設立された国際連合休戦監視機構 (UNTSO)と共に、現在の国連平和維持活動(PKO)の原型となっています。

4,パナマ運河とは

パナマ運河は、大西洋と太平洋を結ぶ運河です。
1880年建設開始、開通は1914年。完成まで34年もの歳月がかかっています。

中米にあるパナマ共和国のパナマ地峡を開削して作られました。
太平洋と大西洋を結ぶ世界の水運の超重要拠点です。
この運河を通ることにより、南米大陸最南端(マゼラン海峡やドレーク海峡)を通らずに両大洋を行き来できます。

マゼラン海峡やドレーク海峡を含む南極海エリアは、南極に膨大な寒気を閉じ込めている空気の渦(極渦)などの影響で、地球上でも最も荒れる海域です。

その激しさは

吠える40度(Roaring Forties)
狂う50度(Furious Fifties)
絶叫する60度(Shrieking Sixties)

と表現されます。
その危険な海域を通過しなくて済むパナマ運河の完成は、長い間待ち望まれていました。

当初、建設はスエズ運河完成の余勢をかってフランス主導で進められます。
その先頭に立ったのは、スエズ運河と同じレセップス。
スエズ運河建設で彼は伯爵という地位と莫大な財産を手にしていました。
彼はスエズ運河建設と同じ水平式でパナマ運河の建設を進めようとします。

しかし、彼はまた困難に直面しました。
最初に立ちはだかったのは、中米の熱帯気候と風土病。
特にマラリアと黄熱病の蔓延は工事進行に致命的な影響を及ぼしました。
(黄熱病の死亡率は、重症化した場合30~50%でした)

加えて、工事の難所であるクレブラ地帯でも彼を絶望が襲います。
この地域は標高100mほどの丘陵地帯ですが、非常に脆い地層でした。
主な組成は粘土と頁岩。これらは雨が降るとすぐに崩れ、泥流となって掘削中の運河を容赦なく埋め尽くします。
困難を極める建設で資金に窮乏、さらに、追加資金調達の過程で大規模な疑獄事件が発生、最終的に資金繰りに行き詰ったレセップス率いるスエズ運河会社はあえなく倒産してしまったのです。

そして、その建設はセオドア・ルーズベルト大統領

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率いるアメリカ合衆国によって引き継がれます。

アメリカ主導による建設は1903年にスタートします。
主任技師はジョン・フィンドリー・ウォレス

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しかし、彼が行った建設工事もレセップスと同じ困難に見舞われます。
さらに黄熱病の大流行でアメリカ人技師の大半が逃げ帰ってしまい、建設は中断。彼も辞任してしまいました。

後任はジョン・フランク・スティーブンス

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彼はまず、死亡率の高い黄熱病の大流行を抑えることを第一と考えます。
軍医ウィリアム・クロフォード・ゴーガス

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の活躍により、マラリアと黄熱病の流行を抑えることに成功、さらに福利厚生を整えた労働環境により、人員の消耗を抑えながら工事を進めていきました。
また、この時、運河の建設方法を水平式ではなく「閘門式」に変更する決定が下されます。

閘門式運河は、高低差があるエリアに運河がまたがっている場合に用いられる建設方法です。
途中に水位調整用のプール(閘室)を用意し、その水位調整で船を昇降させます。

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パナマ運河が結ぶ大西洋と太平洋の海面に高低差があること、さらに運河が内陸の分水嶺(丘陵)を貫通することから、水平式の建設は困難と判断されました。

スティーブンスの辞任後、後任のジョージ・ワシントン・ゲーサルス

ゲーサルス

により、工事は進められました。
彼は、運河全体を複数の工区に分けて競わせたり、週報の発行で情報を広く共有するなどの働き方改革を行い、工事のスピードを上げていきます。
その結果、1910年に閘室に水を供給するダム湖、ガトゥン湖

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が完成、さらに最難関クレブラの開削に成功し、パナマ運河は1914年、ついに完成しました。

パナマ運河を通過できるかどうかは、船舶の運用に極めて重要な影響を及ぼすため、現在でも船の規格は「パナマックス」と呼ばれるサイズ制約があります。
現在のパナマックスは、運河が拡張されたため
全長366m、全幅49m、喫水15.2mです。
先述のEVERGREENはこのサイズを超えていますが、近年は超パナマックスサイズの船も建造されており、これらの船はパナマ運河を通過しないことを前提に運用されています。

ちなみに、旧パナマックスは全長294.1m、全幅32.3m、喫水:12m
アメリカ軍の軍艦の大きさは、長らくこのサイズ制約を受けてきました。
旧日本海軍の大和級戦艦は、超パナマックスの戦艦としてアメリカ軍を威圧することを意識して建造されたとも言われています。

ところで、パナマ運河の閘室(プール)の水位調整に使われている水は、海水ではなくガトゥン湖の水です。つまりダム湖の水ですね。
実は、中南米で深刻化している熱帯雨林の破壊が、パナマ運河の運用に悪影響を及ぼす可能性が指摘されています。

パナマは国土の4割が森林地帯になっていますが、かつては国土の7割が熱帯雨林でした。さらに、20世紀末頃には、年平均で0.7%ほど(10年で14%)のペースで森林が減少し、森林による保水力の低下により、ガトゥン湖への水の流入量にも影響を及ぼす事態になりました。

その後、環境対策として焼畑に代わる農法の実践や、薪炭材の伐採を抑制するなどの対策を行い、現在では状況は改善に向かっています。
ちなみに、この時にパナマにJICAの協力で導入されたのが、傾斜地の多い日本で培われた「段々畑」の技術です。
段々畑は、身近な石を使って擁壁を建設することが可能で、地面を水平にして耕作することから、土壌流出を抑制し、土壌の保水力を高める効果もあります。
これに有機肥料の製造技術を組み合わせることで、持続可能な農業を実現し、焼畑による熱帯雨林の破壊を抑止することに成功しています。

パナマ運河の維持の裏に、日本の伝統技術が生きているのは少々意外ですね。

5,キール運河とは

三大運河の最後の一つはキール運河です。

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この運河は、ユトランド半島の付け根付近、ドイツ国内にあります。
全長98 km、幅102 m、水深11 mと、三大運河の名に恥じない大きな運河です。
北海とバルト半島を結び、1887年建設開始、開通は1895年です。

元々この地域には、ハンザ同盟やデンマークが建設した運河がありました(アイダ―運河など)

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ユトランド半島とスカンディナビア半島の間にあるズント海峡付近は海が荒れやすい交通の難所だったことなどがその理由です。

ドイツが1863年にデンマークを戦いで下し、この地域を占領すると、「鉄血宰相」オットー・フォン・ビスマルク

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はキールの港を軍港化し、強力な海軍の建設に着手します。
そして、軍艦がバルト海と北海を円滑に行き来できるよう、運河の大拡張に乗り出します。
こうして建設されたのがキール運河です。
さらに、ドイツ海軍が大型の戦艦を建造するたびにその通過を目的として運河の拡張が行われたため、パナマやスエズ運河のような大洋を結ぶ運河ではないにも関わらず、かなりの大きさを誇る運河となりました。

このような軍事的な意味合いが強い運河でしたが、建設当時はスエズ運河、パナマ運河のような工事中の死者を出さなかったそうです。
これは、両運河のように風土病がある地域ではなかったこと、比較的裕福な国(ドイツ)の国内で建設されたことから、当初から福利厚生や労働管理が十分に機能していたことが理由とされます。

ちなみに、キール運河も閘門式運河です。
内陸に丘陵地があるわけでもなく、北海とバルト海にも海面の高さの差はありません。
しかし、この地域は潮の満ち引きの差が大きいため(モンサンミッシェルの潮の満ち引きでご存知の方も…?)

それに対応するためのものです。パナマ運河のそれとは少し意味合いが違いますね。

6,最後に

というわけで、今回は三大運河を中心に、運河とは何かについて書いてみました。
折角ですので、各運河の建設の歴史などについてはもう少し掘り下げていこうと思います。
ちなみに、パナマ運河は建設に日本人が絡んでいるんですよね…。
その辺りのことも含めて、また次回の記事でお話ができればと思っています。

長くなりましたので、今回の記事はこれくらいで。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました!

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