早熟の天才「画壇の家康」
今日は、江戸時代の御用絵師集団、狩野派の主要人物の一人、狩野探幽
の忌日です。
1,狩野派とは?
狩野正信を祖とし、室町時代中期(15世紀)から江戸時代末期(19世紀)まで、約400年に渡り日本の画壇の中心にあった御用絵師集団です。
※狩野正信も室町幕府御用絵師でした。
狩野派は血縁集団を中心にして画派を形成していました。
約4世紀に渡り、1つの血縁集団が御用絵師として画壇の中心にいた事例は、世界中を見渡しても他に例がありません。
更に、絵師の教育システムを確立したのも狩野派であり、当時の絵師は多かれ少なかれ、狩野派の作った絵師教育メソッドを受講しています。
そういった意味でも、狩野派が日本画壇に残した足跡は極めて大きいと言えますね。
狩野派が栄えた理由として、人材に恵まれていた点もあります。
探幽は勿論、狩野永徳、狩野山楽など、「天才」と呼ばれる絵師を一族から多く輩出しています。
その天才の1人に探幽も勿論含まれます。
2,狩野探幽の天才ぶり
狩野探幽は、幼少期から天才の呼び声高い絵師でした。
11歳の時、駿府に呼び出され家康と面会。さらに15歳で幕府御用絵師に任命されています。
小学5年生の頃に、既にその才能は大御所家康の耳に入るくらいだった、というわけです。末恐ろしい…。
3,江戸狩野派の長として
探幽は御用絵師に任じられた、と書きましたが、探幽はただの御用絵師ではありません。
御用絵師には「奥絵師」と「表絵師」がいます。
ランクとしては奥絵師の方が遥かに高く、その待遇は旗本と同じでした。
さて、日本史の授業で習ったかもしれません。
江戸幕府の旗本が持つ特権は何だったでしょうか…?
そう、将軍へのお目見え(謁見)が可能ということでしたね。
勿論、その地位は世襲できます。
俸禄の代わりに画料という給与をもらい、江戸市中に家屋敷を与えられ、
さらに家来を雇うこともできました。
確かに、旗本と遜色ない待遇ですね。勿論、探幽は奥絵師として鍛冶町に屋敷を与えられ、厚遇されています。
江戸幕府が狩野派の仕事を高く評価していたことが伺えます。
ちなみに、奥絵師は江戸城内に工房(アトリエ)があり、定期的に登城し、仕事をこなさなくてはなりません。その仕事とは勿論絵を描くこと。将軍からのプライベートな依頼もありましたが、贈答品も多く製作する必要があったため、常にアトリエは戦場だったようです。
さらに、美術鑑定士も兼ねていたため、美術品の鑑定(値付け)が全国から殺到。
また、将軍やその一家の絵の教育係として家庭教師に勤しんでいます。
さらにさらに、江戸城や主要寺社の襖絵、障壁画などの製作、メンテナンスも担当しています。
こう考えると、作業量が膨大過ぎる…と感じますね。
実際激務だったようで、次々に舞い込むタスクをこなすため、100人を超える絵師がその業務にあたっていたそうです。
そうなると、作業の質を保つため、教育や研修が必要になってきます。
実際、狩野派は教育プログラムをしっかりと作り上げ、絵師の質を保つことに腐心しています。
歴史では、「狩野派は変革を好まず、それが硬直化や陳腐化、衰退を招いた」ともされますが、御用絵師としての責任や業務量を考えれば「変革より今の仕事の質を保つことを重視する」のは理解できますね。
探幽は絵師として天才だっただけではなく、このような御用絵師としてのシステムも作り上げ、江戸狩野派の幕府御用絵師としての立場を盤石のものにしました。これが彼が「画壇の家康」と呼ばれる所以でもあります。
その後、江戸狩野派は探幽の血縁者により江戸時代が終わるまで、幕府御用絵師として栄え続けます。
4,探幽の不思議
最後に、狩野探幽について少し不思議なことがあるので、それに触れたいと思います。
狩野は屈指の天才狩野探幽。
代表作に『雪中梅竹遊禽図襖』(名古屋城)
などがあります。
永徳の画面全体を大胆に使い脈動するような描き方
とは異なり、余白を重んじた落ち着いた絵柄が特徴です。
※探幽も二条城の大広間四の間障壁画《松鷹図》
のように、大胆なタッチの作品も存在します。
探幽は優れた作品が数多く残していますが、実は1つも国宝指定されたものがないのです。
これは様々な理由が言われていますが、その一つに
葛飾北斎
伊藤若冲
など、江戸狩野派の保守性に対して、彼らのような革新的・カリスマ的で、海外でも著名な絵師の方が注目されやすいことも挙げられています。
真偽のほどはわかりませんが、狩野探幽の作品も国宝指定される日が来ると良いのですが…。
ということで、今日はこれくらいで。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。