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日本史のよくある質問 その14 「荘園」とは?④

前回まで記事では、延喜の荘園整理令と、その時期に起きていた律令体制の崩壊について触れました。

荘園とは?① 荘園とは?② 荘園とか?③
も読まれると、話の流れがつかみやすいと思います。

醍醐天皇と藤原時平は、延喜の荘園整理令を通して律令体制の再建を図ります。

しかし、その思いとは裏腹に、各地の荘園は拡大を続け、公民は次々と逃亡してその保護下に入っていきます。
班田も行われなくなり、調・庸の質も低下。
税がまともに徴収できなくなった朝廷は困窮し、律令体制に基づいた国家運営は窮地に立ちます。

他の国であれば「王朝が滅亡する」という段階(末期)なのですが、天皇制は崩壊しません。
何と、自ら統治システムを時代に即して大きく変更するという荒業で、この難局を乗り切っていきます。

その大転換を大きく見れば、「律令国家から王朝国家への変貌」と考えることができるのですが、まずその大前提となる、土地・人・税に関するシステムの大転換について今回は書いていきます。

というわけで、今回のテーマは

③朝廷の再反撃 徴税基準の大改革

です。

延喜の荘園整理令が出された頃の大きな問題点は、偽籍や浮浪、逃亡が増加したことでした。

これは、国家が戸籍を通して公民を把握できなくなった(どこに誰がいるのかわからない)ということを意味します。
そして、この戸籍を基本としていた

・班田を行う =公田を耕作させ、税(租)を納めさせる
・調や庸などの税を徴収する =成人男子からのみ

が行えなくなってしまったのです。

この租・調・庸のうち、負担が重いのは調や庸でした。
これは成人男子に対してかかる「人頭税」です。
つまり、「人」に対して税がかかっていたんですね。

租は?と思うのですが、租は収穫の3%程度でした。
班田自体が生活保護の意味もあったので、税率はそれほど高くないのです。

しかし、その「人」の所在を表す戸籍がきちんと作られない状態では、人頭税など取れるはずもありません。

さて、このような状況に対して朝廷はどのように対処したのでしょうか。
「戸籍による人の把握はもう無理」という点は、度重なる荘園整理令の不発から明らかです。
ということで、朝廷は発想の転換をします。
「人を把握して徴税できぬなら、土地を把握して徴税すれば良い」というイメージです。

つまり、

租だけではなく、調や庸などその他の税についても、「土地」を単位として、その土地を管理する者から徴収すれば良い

ということです。

かくして朝廷は、「人」単位の徴税から「土地」単位の徴税へと大きく動き出します。
荘園の拡大に悩まされ、荘園整理令も不発に終わった朝廷の再反撃開始です。

さて、土地を単位に徴税する…という発想は良いのですが、そうなれば税率は3%というわけにはいきません。
しかし、税を多く取れば、農家の経営は苦しくなってしまいます。
経営能力の低い者は、税に耐えかねて土地を捨て、逃亡してしまうでしょう。
逆に、経営能力が高い者であれば、収穫量を増やし、税収の増加にもつながるでしょう。

そうなると、「土地を誰に耕作させるか」は、税収に直結する大問題になります。
全員に平等に土地を配分する、という班田収授のシステムはここに終焉を迎えるのです。

さて、ところで誰に経営を任せようか…と考えた時に、良い人がいるではありませんか!

その②でも出てきた「富豪の輩」です。
彼らは元々は農民だったのですが、周囲の人々に高利貸し(米や銭を)貸し出すことなどで財をなした新興勢力です。
今でいえばベンチャー企業のやり手社長、といったところでしょうか。
さらに彼らは、「隷属民(奴婢)」をかかえています。


では、実際にどのように徴税を行ったのでしょうか。

まず、今まで班田として給付したり、乗田として賃租していた田を、「名」という単位に編成し直します。

実は、歴史における「名」とは、「田」の意味なのです。
つまり、「大名」とは「たくさんの名(=田)を支配する者」という意味なんですね。
また、名のことをしばしば「負名」とも言いますが、これは「納税の義務を負う名」という意味です。
※負名のことを「人」のことと捉えているケースがありますが、本来は「土地」を指しています。ここは試験に出ます(笑)


このようにして編成した名を、富豪の輩に預け、納税の責任を負わせたのです。
名を預かり、納税の責任を負った人物のことを「負名田堵」または「田堵」といいます。

ということは、「名」は田堵の私有地ではなく、形を変えた公地(国有地)なのです。

田堵たちは、税を取りまとめて納める代わりに、その名の経営を一任されます。
ただ、あくまで請負ですので、担当する名が変わることもしばしば。
国も、私有化を避けるために、意図的に請け負わせる名を固定化しなかった節があります。

このように国は、一時は荘園整理令などで富豪の輩を抑圧しようと考えましたが、それが無理と分かると一転、彼らを新たな国有地経営の担い手として利用しはじめたのです。
これらの国有地は、後に「公領」と呼ばれるようになります。

貴族というと、どうしても遊びに興じていて、文化レベルは高いが政治力などには長けていないようなイメージ

でとらえられがちですが、なかなか、時勢を見る目や大胆な施策など、なかなかその政治力は侮れませんね。

さて、一方でこの頃の荘園はどうなっていたのか。
実はこの一連の改革の中で、各国を管理する「国司」の役割が微妙に変化していきます。
その変化に応じて、荘園にも新たな動きが生まれてきます。

次回は、国衙の役割の変化と荘園の変質について書いていきたいと思います。

今回はここまで、ということで…。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました!

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