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運河に関する雑学②「王の道」

さて、前回の記事

では、古代エジプトのファラオたちが拓こうとした紅海から地中海を結ぶ運河、いわゆる「ファラオの運河」について書きました。

紅海からナイル川を経由して地中海に抜ける運河は、一度は完成したと言われています。
その偉業を成し遂げたのは、実は私たちがイメージする、ピラミッドやスフィンクスを建造した、いわゆる古代エジプトのファラオではありません。

では、それを成し遂げた王とはいったい何者なのでしょうか…。
過去のファラオ達に匹敵する、またはそれ以上の力を持つ人物だったことは間違いないでしょう。

今回は、スエズ運河の前身となる運河を完成させた偉大な王について書いていきたいと思います。

1,その王の名は

まず、その王が誰なのでしょう…。
恐らく、世界史を高校で勉強された方は名前を聞いたことがあるのではないでしょうか。

彼は「諸王の王」と呼ばれ、かのアレクサンドロス大王もその偉業に敬服したといいます。

その名は「ダレイオス1世」

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そう、アケメネス朝ペルシア第3代にして、世界帝国へ成長したペルシアの全盛期を築き、ペルセポリスの建設をスタートさせた偉大なる王です。

ところで、アケメネス朝ペルシアの初代王はキュロス2世

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です。
キュロス2世は、ダレイオス1世を凌ぐ傑物でした。

当時、新バビロニア王国の属国に過ぎなかった小国、ペルシア王国を率い、大国であるメディア、そしてリュディアを滅ぼします。
ちなみにリュディアは、所有者の姿を透明にする伝説の指輪、「ギューゲースの指輪」を持つとされる王が統治していた国です。何だか「ロードオブザリング」のサウロンの指輪

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を彷彿とさせる能力ですが…。

続いて、1万人の精鋭部隊(不死隊)を率いて、かつて支配を受けていた新バビロニア王国を打ち倒し、バビロンに囚われていた(バビロン捕囚)ユダヤ人を解き放ち、エルサレムの神殿の再建を命じました。
このことから、キュロス2世は『イザヤ書』で救世主(メシア)として描かれています。

その後、キュロス2世は紀元前529年に急死してしまいます。
原因は戦死と言われています。
しかし、彼の征した広大な領土とその政策(彼は、宗教や他民族に寛容な政策を取りました)はその後も受け継がれます。

2代王は「カンビュセス2世」

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です。
キュロス2世の長男であり、キュロス2世が没した時には既に実権を譲り受けていたことから、統治はスムーズに移行され…たように思えました。

ところが、カンビュセス2世は、王位を奪おうとしていると誤解して弟のスメルディスを手にかけてしまったことを皮切りに、酒に溺れ、様々な残虐行為に手を染めてしまいます。
一方で、オリエント世界で最後まで独立を保っていたエジプト王国を勢力下におさめます。ここに、アケメネス朝ペルシアによるオリエント世界の統一が成し遂げられました。

この時、メンフィスを攻め落としたカンビュセス2世は、ファラオが持つ称号や衣装を奪い取ります。これ以降、アケメネス朝ペルシアの王は「ファラオ」の称号を兼ねることになります。

しかし、その後も失政が続き、遂に弟のスメルディス(!?)が反乱を起こします

実は、カンビュセス2世は弟を殺害したことを極秘にしており、それを利用して、スメルディスに容姿が似た人物を担いで反乱を起こした司祭がいたのだそうです。

その反乱を鎮圧できないと悟ったカンビュセス2世は、紀元前522年、自ら死を選び、この世を去りました。

しかし、スメルディス(の偽物)と司祭はペルシア帝国の王位を継承することはできませんでした。最終的に王位を勝ち取ったダレイオス1世の即位の経緯を描いた『ベヒストゥン碑文』

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によると、この偽スメルディスと司祭の一味は、アフラ・マズダー神(ゾロアスター教の最高神)

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の加護を受けたダレイオス1世により打ち倒され、神の意志によりダレイオス1世は王となった、とあります。

そう、キュロス2世の直系の子孫ではない王、それがダレイオス1世です。

2,英雄か、それとも簒奪者か

3代目の王、ダレイオス1世は、元々カンビュセス2世の「槍持ち(親衛隊員)」でした。
つまり、キュロス2世の血を引いた直系の王族ではないということですね。
そして、神の加護を受けて偽の王を打ち倒した…と。
既にこの辺りからきな臭い感じがします。
「歴史は勝者が作る」とも言われますし、碑文の内容もダレイオス1世が命じて書かせたもの。偽の王、神の加護の件も含め、どこまで事実なのかは疑わしいところもあります。

ダレイオス1世の出自は、碑文によればアケメネス朝の傍流であるとされています。これも「自称」で、真相は不明です。
近年では、実はダレイオス1世こそが王位を武力で奪い取った簒奪者であるという説もあります。
実際、ダレイオス1世が王位に就いた後、国内では反乱が頻発し、彼はその鎮圧に奔走することになります。
これらの反乱は、ダレイオスを簒奪者と見なした各地の有力者たちが起こした…という見方もできますね。

激しい戦いの末にこれらの反乱を鎮圧したダレイオスは、結果として強大な王権を手にします。
(壬申の乱の結果、有力な豪族を排除して強力な権力を手中に収めた大海人皇子(天武天皇)の話を彷彿とさせる流れです)

ちなみに、この反乱鎮圧時に活躍したのが「6人のペルシア人」だったと言われているのですが、これが誰なのかはわかっていません。
いずれにしても、その後のダレイオス1世は、帝国の基盤を構成するペルシア人の支持を固める必要がありました。
そこで彼が用いた称号が「諸王の王( xšāyaθiya xšāyaθiyānām)」です。
これは、現代のペルシア語の「シャー(王)」の語源になった言葉で、ダレイオス1世はペルシア人の王であり、諸民族を制する世界帝国の王であることを誇示するための称号でした。

3,「王の目・王の耳」そして「王の道」

反乱を鎮圧したダレイオス1世は、権力基盤を盤石なものにするために次々と手を打ちます。
先ずは、懸案である「血筋」問題の解決です。
彼は、王家の血を引く娘たちを次々に妻に迎え、その「血」の独占を目指します。
・キュロス2世の娘(アトッサとアルテュストネ)
・スメルディスの娘(パルミュス)
・カンビュセス2世の娘(パイデュメ)

これにより、誰かが王の血を継ぐ者として反旗を翻す可能性を徹底的に潰しました。

また、中央集権化を推し進め、全ての権力を手中に収めようとします。
その政策の中核をなしたのが「王の目・王の耳」と呼ばれる直属の官僚たちです。
ペルシアは20ほどの行政区に分かれていたのですが、その行政官たちを監視したのが王の目・王の耳でした。

さらに、隅々にまで支配が行き届くよう、インフラの整備を行いました。そして建設されたのが「王の道」

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です。
つまり、今でいう国道ですね。
行政首都スサから西のアナトリア半島にあるサルデスまで、石畳で舗装された全長2400kmに及ぶ王の道は、馬車で移動することが可能で、情報伝達や軍事的な用途としても大いに役立ったと考えられます。

加えて、帝国内の度量衡統一、貨幣の発行など、中央集権体制のモデルケースとも言える政策を遂行しました。
これらの大改革はペルシアの力をさらに高め、インダス川流域やギリシアへの遠征を可能にしました。
大改革と覇業で求心力を高める手法も、世界史で見れば枚挙にいとまがありませんね。
この流れを見ると、やはりダレイオス1世は、「血」という正統性に疑問符が付く以上、国をまとめ続けるには結果を出すしかなかったのではないだろうか…と見ることもできますね。

豊かなインダス川流域を抑えたダレイオス1世は、次にギリシアの完全征服(そして地中海の制海権獲得)を目指します。
イオニアの独立運動をきっかけとして、紀元前492年から紀元前449年のおよそ40年に渡る壮絶な「ペルシア戦争」

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の幕開けです。

この戦いでは、マラトンの戦いでペルシアの遠征軍が、アテナイを主力とするギリシア連合軍に粉砕されてしまいます。
遠征軍が約20000に対して死者が6000人超という被害は、全滅といっても過言ではない壊滅的な敗北でした。

この敗北は、ダレイオス1世にとって衝撃的であり、求心力の低下につながりかねません。そこで彼は、自ら遠征軍を率いることを決断します。

また、エジプトはギリシアに近く、「王の道」が通っていない帝国の西端に位置するため、常に反乱の危険性がありました。
そこでダレイオス1世は、戦争の継続と並行して、過去のファラオが成し遂げられなかった運河建設事業に着手します。
エジプトのファラオを兼ねるダレイオス1世ですが、やはりエジプトの人々からすれば異民族。
そう、「ファラオの運河」を完成させることで、過去のファラオに劣らない力を示すことができると考えたのでしょう。
ペルシアとエジプトを水運で結ぶことも、帝国にとっては大きなメリットがあります。

しかし、ダレイオス1世の肝いりで始まった運河建設事業の結末は、実は記録上はっきりしていません。
前述のワジ・トゥラミットの谷を活用したものであり、完成したとする記録(ダレイオス大王のスエズ碑文、ヘロドトス)と、未完成で終わったとする記録(アリストテレス、ストラポンなど)が入り乱れています。

そして、ギリシア遠征の準備を進めているさなかの紀元前486年、ダレイオス1世は急死してしまいます。王位は息子のクセルクセス1世に受け継がれました。

クセルクセス1世は、エジプトの反乱を鎮圧し、ギリシアとさらに壮絶な戦争を繰り広げることになります。
※「300(スリーハンドレッド)」

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という映画は、ペルシア戦争のテルモピュライの戦いを描いています。
この戦いでは、スパルタ王レオニダスが率いる300人のスパルタ兵(実際には同盟都市の兵を含め7000人程度)と、ペルシア遠征軍20万人が激突しました。
ペルシア遠征軍が200万人いたという記録もありますが、当時の兵站を考えると非現実的な数字ですね…。

4,結局、「ファラオの運河」は完成したのか

ファラオの運河がダレイオス1世の時代に完成したかどうかについては、確実な証拠がありません。
しかし、クセルクセス1世の記録では運河についてはほとんど触れられていないことから推測すると、「完成している」というのが私の考えです。

歴史において、「完成させた者」は自らの業績として誇示するのに対し、その後の「維持」の段階になると、ぱったりと記録が途絶えることはよくあります。
これは、「存在することが当たり前」になった状態では、それを権威の発揚には使えなくなるからですね。

このことから、クセルクセス1世の時代には運河は既に完成しており、普通に使われていたのではないかと推測しています。
しかしその後、アケメネス朝ペルシアの衰退により維持が困難になったため、運河は砂に埋まったと考えられます。

それを再生させたのが、アレキサンダー帝国の流れをくむプトレマイオス朝2代目のファラオ、プトレマイオス2世

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でした。

彼は埋まってしまった運河の再生に取り掛かりますが、大きな技術的問題に直面してしまいます。
また、その問題点についての記録が、後に歴史的な大勘違いを招く一因にもなるのですが…。

さて、長くなってしまいましたので、今回はここまで。
次回は、プトレマイオス2世の運河、そして近代に発生したある英雄の「大勘違い」について、書いていきたいと思います。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました!

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