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元禄に舞う二万翁

上流町人の文化が花開いた元禄時代を代表する作家をイメージした時に、最初に名前が挙がる人物の一人は井原西鶴。

主な作品として、『好色一代男』『好色五人女』『日本永代蔵』『世間胸算用』などが挙げられます。
彼の代表作は「浮世草子」と総称される身近な生活ネタ。
しかし実は、もともと彼は小説家ではありませんでした。

今回は、そんな西鶴の生涯を追ってみたいと思います。

1、西鶴の生まれは

井原西鶴は寛永19年(1642年)、紀州(和歌山県)の裕福な町人の家に生まれました。
幼少期に父を亡くした彼は、10代で家業を手代に任せ、文学の世界へ飛び込んだとされます。
※この辺りについては詳細な記録がないため、一部推測

2、宗因と西鶴

15歳の頃に俳諧を学び始め、21歳のときには点者(和歌や俳句の採点をする人)として独立していたそうです。
当初、彼が入門していたのは貞門俳諧でした。
この流派の祖は、松永貞徳

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彼は里村紹巴、九条稙通や細川幽斎など、錚々たる人物から歌を学んだ京文化のエリートでした。
朝廷から賜った「花咲翁」という称号の通り、その歌風は優美そのもの。
上流階級の人々に好まれましたが、この頃に一つの変化が現れます。

それは、町人や武士が経済的に豊かになり、文化面でも台頭を始めたことです。
彼らは滑稽さや新鮮味を好んだため、新たな流派が台頭します。
それが、大坂で生まれた「談林俳諧」です。
優美さや文学的な価値の高さよりは、面白さやテンポの良さが重視されるようになっていきます。
西鶴は、この流派の祖である西山宗因

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に弟子入りします。

結果として、西鶴の歌風は貞門俳諧の優美さを残しつつ、談林俳諧の滑稽さやテンポの良さを持つ、ハイブリッドな独自性を獲得していくのです。

ちなみに、西鶴の雅号は西山宗因の名前の一文字をもらったものとされます。
当時、名前の一文字を与えるのは自分の魂を分け与えるようなものでしたので、宗因と西鶴の関係の深さうかがえるエピソードです。

3、西鶴、即吟にハマり、燃え尽きる

さて、談林派は勢力を拡大していたとはいえ、まだまだ新興派閥でした。
貞門派など、古典的な作風を重んじる人々からは「阿蘭陀流」とバカにされていたのです。

西鶴は、ならばと反撃に出ます。談林俳諧にしかできないあるイベントを決行したのです。
それが「即吟」
軽妙なタッチの句を連続して詠み続ける、というテンポの良い談林派ならではの催し。
神社の境内で人々を集めて行われた即吟興行は大盛況でした。

延宝5年(1677年)3月、彼は大坂・生國魂神社で一昼夜1600句を詠みました。この時、多くの句を連続して詠むことを「矢数俳諧」と称します。
しかしその半年後、月松軒紀子が1800句を詠み記録更新。
翌年、大淀三千風が3000句を達成しました。
負けられない西鶴は、延宝8年5月、再び生國魂神社内で4000句を詠みます。
この時、自らの業績を京都三十三間堂で行われる弓術のイベントにちなんで「大矢数」と称しました。
しかし、この頃から西鶴は、俳諧の世界で生きていくことに迷いが生じしていたようです。

そして、トップの座を永遠に不動のものにするため、貞享元年(1684年)には摂津住吉の社前で一昼夜に渡り23500句を詠みます(!)。
24時間詠み続けたと仮定しても、1分間に16句、およそ4秒に1句詠んでいる計算になります。もはや想像を絶する世界です。
このイベントの後、西鶴は「二万翁」を自称するようになります。

このイベントでやり切った感が強かったのか、
「射て見たが 何の根もない 大矢数」
という句を残し、俳諧の世界からあっさり足を洗ってしまいました。

4、身内ネタで楽しんでいたのに…

さて、40代に入った西鶴は、俳諧の世界から小説の世界へと思い切った転身をしました。
その手始めになったのがあの代表作。天和二年(1682年)に執筆された『好色一代男』

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でした。
この作品、元は仲間内で楽しむためだけに書いたものだったそうで(今でいう同人誌)、版元も素人でした。

しかし、天和2(1682年)、この作品の評判を耳にした江戸奈良屋が、当時一流の絵師、菱川師宣

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の絵をつけて大々的に売り出しました。
同時に地元大阪でも、大阪池田屋からも、西鶴自筆の挿絵(諸説あり)が入ったバージョンが発売されています。

実はこの頃、出版業は成長産業でした。
天下泰平が不動のものとなり、大坂の著しい復興と経済発展は、特に上方町人の「教養」に対する需要を高めました。
そんな中、町民向けの絵入り仮名混じりの娯楽系出版物は大人気を博したのです。
ただ、当時は印刷は全て職人による手作業。
1日に100冊程度を刷るのがやっとで、出版には莫大な初期投資が必要でした。
そこで版元は、常に売れそうな作品をリサーチしていたのです。

元々矢数俳諧で有名だった西鶴の書いた小説。
矢数俳諧でのネームバリューもあり、作品の質も上々。これを版元が見逃すはずがありませんでした。

版元の見込み通り、好色一代男は大ヒット、西鶴は小説家への転身を決意したのです。
彼の作品は、「庶民的なあるある」を描いた作品なので、「浮世草子」と呼ばれるようになります。
話が前後しますが、住吉大社の23500句は、その後のことです。
西鶴は、このイベントで俳諧の世界と決別するつもりでいたんでしょうね。

5、転身した西鶴は…

さて、西鶴は小説家に転身、同時代の大人気作家として名を馳せます。

また、なかなか独特な人柄だったようで、原稿料の踏み倒しなど、色々なエピソードが残っています。
(当時、原稿料がもらえる作家というのはほぼ皆無だったので、前払いで原稿料がもらえる西鶴の人気ぶりが推測できます)
しかし、50代になると、彼は「今程目をいたみ筆も覚へ不申候」と書いているため、視力低下や健康不安に悩んでいたようです。
西鶴は元禄六年(1693年)に52歳で亡くなります。
銀三百匁(約40万円)の原稿料は、結局踏み倒されてしまいました…。

その後、綱吉の開放的な政策の反動で儒教的な勢力が再び台頭してきます。
開放的な文化の代表格であった浮世草子は、真っ先に批判の矢面に立たされてしまいました。
大人気作家西鶴の作品はその後、貸本屋などでひっそりと生き延びます。
作品の再評価にはは明治時代、淡島寒月

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の登場を待たねばなりませんでした。

というわけで、今日は久々の長文テキスト、井原西鶴について書いてみました。
皆さんのご参考になれば幸いです。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました!

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