『MESSIA-異聞天草四郎』考察②ーリノの信仰
『MESSISA-異聞天草四郎』のリノ。リノのシーンで特に印象に残っているのが、島原・天草の民たちが四郎とともに立ちがる場面です。
みんなが結束を固める中、リノだけは十字架を切り、その場を離れていく。このシーンが鮮烈に脳裏に焼き付けられました。なぜ、リノは、みんなとともに四郎に縋ることができなかったのか。それは、リノにとって、四郎の考え方に信仰上、相いれないものがあったからだろうと思います。
それでは、リノにとって、キリスト教を信仰するとは、どういったものだったのでしょうか。
彼の信仰の在り方について考えている時、脳裏をよぎった人物がいました。それは、『沈黙』に出てくる青年宣教師のロドリゴです。『沈黙』は、遠藤周作の小説で、『MESSIA-異聞天草四郎』より時代はくだりますが、隠れキリシタンの弾圧を描いた作品です。
「日本のキリシタンたちを救う」という高い志を胸に抱いて、長崎にやってきた青年宣教師ロドリゴ。しかし、彼は幕府によるキリシタンの弾圧に直面し、人々や仲間が死んでいく中、自分の無力さを痛感します。自身も、捕らえられ、拷問を受け、棄教を迫られ、信仰さえも揺らぎかける、そんな絶望的な状況の中で、彼は、神に、イエス・キリストに問いかけ続けます。そして、ある日頭に響いたイエスの言葉。この言葉によって、彼は救われ、「踏む」ことを選択するのです。
私は、このロドリゴとメサイアのリノが、どこか重なって見えました。絶望的な状況におかれ人物が、「逃げる」ことを選択し、「裏切り者」の烙印をおされる。「逃げること」を自分で選択したのか、選択させられたのかという違いはあるけれど、ロドリゴもリノも一人生き残るという十字架を背負った(背負わざるをえなかった)ことは共通しています。そして、二人とも、救いのない状況の中で、イエスに、神に、「何が正しいのか。」と問うのです。
それでは、リノやロドリゴが信仰していたキリスト教とはどういう宗教なのでしょうか。
大澤真幸さんと橋爪大三郎さんの『ふしぎなキリスト教』(講談社 ,2011)、土井健司の『キリスト教は戦争好きか キリスト教的思考入門』(朝日新聞出版,2012)をもとに、この宗教の一側面を紐解いていきたいと思います。
キリスト教の前身であるユダヤ教は、バビロン捕囚など、諸外国から迫害を受け続けてきたユダヤ民族によって信仰されていました。そんな彼らの拠り所は唯一神ヤハウェとの契約でした。神はすべての民族の中から、ユダヤの民を選び、彼らに救済を約束したのです。
けれど、彼らは諸外国の脅威にさらされ、苦難の歴史を歩みます。なぜ救済をなかなかもたらさない神を彼らは信仰していたのか。その一つの解釈が、『ふしぎなキリスト教』で示されています。
…Godとの不断のコミュニケーションを祈りといいます。この種の祈りは、一神教に特有のものなんですね。祈りを通して、ある種の解決が与えられると、赦しといって、Godと人間の調和した状態が実現する。赦しがえられるまでは、悲しみに圧倒され、Godのつくったこの世界を受け入れられない、理解できないという状態が続く。…すべての出来事はGodの意思に起こる…そこで、不断の対話を繰り返すことになる。…悩んで、いくら考えても、答えはえられない。…残る考え方は、これが試練だということ。このような困った出来事を与えて、私がどう考えどう行動するのかGodがみておられると考える…(p65-66)
つらい現実に直面したとしても、これは試練だと考え、神に救済されるよう行動することが、彼らの心の砦だったと言えます。ユダヤ教にとって(キリスト教にとっても)、神は絶対的に正しい存在のため、その意思を人間が疑ったり、試したりしてはいけないのです。
旧約聖書の内容の一つに、「ヨブ記」があります。こちらのホームページで、分かりやすく(おもしろく!)解説されていたので、引用させていただきました。
「ヨブ記」では、神を敬虔に信仰し幸せに暮らしていたヨブが、神(もしくはサタン)によって、財産も家族も奪われ、病気に侵され、絶望の淵に突き落とされます。彼の友人たちは、「ヨブが何か罪を犯したから、ヨブがひどいめにあっている。」と主張しますが、ヨブは「こんな理不尽な目にあうような罪を犯していない。」と強く反論し、神にまでも挑みます。そのようなヨブに対して、神は「世界の中心は自分であり、ヨブではない。」と諭すのです。自分の利己的な考えを悔い改めたヨブは、神によって救われ、財産と健康を取り戻します。
「ヨブ記」は、「善い行いをした人を、神は救う。」という因果応報論的な信仰の考え方を否定しています。現実は理不尽であり、神もまた人間の理解の及ばない道理で世界を動かしています。善く生きているからといって、神は必ずしも人を救いません。けれど、人は、試練が積み重なる状況の中でも神を信じ、生きることが求められているのです。
主人公の必死の祈りにもかかわらず、神は頑なに「沈黙」を守ったままである。果して信者の祈りは、神にとどいているのか、いやそもそも神は、本当に存在するのか、と。
これは、キリスト教徒にとっては、怖ろしい根源的な問いであり、ぼくら異教徒の胸にも素直にひびいてくる悩みであろう。このモチーフを追いつめてゆく作者の筆致は、緊張がみなぎり、迫力にあふれていて、ドラマチックな場面の豊富なこの長篇の中でも、文字通りの劇的頂点をなしている。
――佐伯彰一(文芸評論家) (アマゾンホームページより。『沈黙』の解説抜粋)
『沈黙』の解説においても説明されているように、キリスト教徒にとっても、「神はなぜ試練を与えるのか。私たちを救わないのか。」という命題は、切実な問いでありました。
「キリスト教」を考える上で鍵となる概念は、「愛(隣人愛)」と「神の国」です。
「ユダヤ教」において、人々は神との契約ー律法を遵守して生きようとします。そうすれば、終末の日、神に選ばれたユダヤ民族は救われるのです。しかし、律法を厳格に守ることを強制するファリサイ派が現れるなど、次第に、信仰は当初とは異なった形で発展していきます。
一方で、『キリスト教は戦争好きか キリスト教的思考入門』(p50-51)では、イエスは律法の根本精神は「愛」と捉えなおしたと示されています。
イエスは、「律法の中でどの掟が一番重要か。」という問いに対して、第一に「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」、第二に「隣人を自分のように愛しなさい。」と説くのです。
それでは、「隣人愛」とはどういったものなのでしょうか。二つの書籍では、次のように述べられています。
隣人と聞くと、身近で親しい人のことだと思うかもしれませんが、そうではない。罪深い人とかダメな人とか、よそ者とか嫌な奴、そういうものこそが「隣人」の典型として念頭におかれていて、彼らをこそ愛さなくてはいけない。…身近な人を赤の他人より優先することは本当の隣人愛ではない。『ふしぎなキリスト教』(p195)
「伝統的なユダヤ社会では、隣人とは「同胞」(ユダヤ人)を指しました。…(キリスト教では)誰が隣人であるのか規定せず、さまざまな存在に向かって関係性の可能性を開くことで、これまで隣人愛の対象とならなかった人ー見捨てられた者、見過ごされた者、社会の周縁に埋没する「貧者」ーに向かって積極的に愛が実践されていくことにつながります。 『キリスト教は戦争好きか キリスト教的思考入門』(p57)
このように、「ユダヤ教」では、神の救いの対象がユダヤ民族に限定されていましたが、「キリスト教」は、民族の垣根を超えて、全ての人が救済の対象となってきます。ただし、すべての人が救われるのではなく、神に選ばれた人のみ、最後の審判の日に、「神の国」へと開かれるのです。
「神の国」は、イエスが説いた、いずれ到来する、究極に救われた世界のことを示します。天でもなく、地でもない、「宴」のイメージで語られる世界。それまでの、社会的な地位や階級、すべての差が壊され、まっさらな状態となった、すべてが満たされた平穏な世界です。
キリスト教を信仰した人々は、イエスを信じ、神を信じ、どんなにつらい状況の中でも、自分が神に選ばれていると信じ、「神の国」の訪れを待っていたのだろうと思います。
マイノリティの人々、貧しい人々、迫害された人々、病気に苦しむ人のように、理不尽な現実に直面している人、絶望的な状況に身をおかれた人に寄り添い、現実を耐え忍ぶ力を与えてくれる。このような側面を、キリスト教は持っている。そんな気がします。
また、個々人の救済を念頭においているキリスト教においては、「戦うこと」は、あまり容認されていません。「右の頬を叩かれたら、左の頬を差し出しなさい。」ーイエスのこの言葉が示すように、キリスト教の教えの根本では、「戦うこと」は想定されていないのです。
神も、イエスも、「人格」を持った存在です。それゆえに、信仰する人々は、イエスと、神と、不断のコミュニケーション、対話をし続けます。「沈黙」のロドリゴのように、どんなに苦しい状況、試練にあっても、信仰が揺らぎそうになっても、対話を続け、その対話によって救われるのです。
一方、「MESSIA-異聞天草四郎」では、信仰による救いはどのように描かれているのでしょうか。
四郎は、「神が人々を救わないのはおかしい。」と主張し、「あなたがたこそ、神だ。神はあなた方の内にある。」と呼びかけ、「人格神」としての「神」を否定しました。また、キリスト教で容認されていない「戦い」へ、人々を誘います。
キリスト教の教えを学んだリノにとって、イエスも、「神」も、「人格」をもった存在です。だから、その存在を否定する四郎の考えに、どうしても賛同することはできなかった。だから、十字架を切り、その場を離れることしかできなかったのだろうと思います。(神はあなた方の内にあるという考え方には、歩み寄れるところもあったから、みんなのために旗を書いた、闘いに参加したところはあるのかなと思います。)
仲間の転向と四郎の首を差し出すよう松平に条件を出されたリノは、「神よ。教えてくれ、進むべき道を。」と、神に切実に問いかけます。けれど、神は、イエスは、その問いに答えを示しません。劇中では、リノは、「島原・天草の乱」のあと、筆をおき、独り救われず、失意の中で生き続けます。
そんなリノに救いを与えるのが、若い将軍徳川家綱です。彼は、キリシタンの生き方に寄り添い、キリスト教を認め、リノに、歴史を描けと命じた。「キリスト教」が、社会に認めらえた。そこで、リノはようやく救われ、四郎と流雨に呼びかけます。ここで、リノが、イエスや神に呼びかけないことから、彼の中で、おそらく神への信仰は失われていることが伺えます。
『内なる神の力を解き放ち、我らの手で、我らの自由を。』と、みんなとともに歌えなかったその言葉を口ずさみ、「立ち上がれ、苦しみのない明日へ。誰もが笑いあえる未来へ。我らのはらいそを。」と絞り出すようにリノは叫ぶ。彼は、四郎の思想に共鳴するのです。
けれど、私は、リノにもロドリゴと同じように、イエスに、神に、現実の理不尽さを問いかけ続けて、その存在を信じぬいてほしかったとも思うのです。たとえ、表向きは棄教したとしても、信仰は、彼の矜持であってほしかったと思います。
芸術家としてのリノの一番の救いは、彼がそのアイデンティティである絵を描き続ける(もしくは描けるようになる)ことにあったのではないでしょうか。
四郎の「どうか後世に、俺たちのことを伝えてほしい。」という言葉を受け、彼は絵を描き続ける。もしくは、一度失意の内に筆をおいたとしても、何かしらのきっかけで絵を描く強さを自ら取り戻す。
それには、やはり、彼の確固たる信仰心が必要だと思うのです。幕府のキリシタンの弾圧が続く中で、それでも、彼の矜持を示し、みんなの遺志を伝え続ける。信仰の自由を作品のテーマとするのであれば、リノにはその信仰を持ち続けてほしかったと思います。
実際の歴史では、家綱が、キリスト教の信仰を認めたといったことはないと思いますが(勘違いだったら、申し訳ないです…。)、社会が安定していくにつれ、一揆につながらなければ、「隠れキリシタン」の信仰は黙認されていくようになっていきます。大橋幸泰さんの『潜伏キリシタン 江戸時代の禁教政策と民衆島原・天草の乱』(講談社,2014年)によれば、「島原・天草の一揆」は、あまりにも農民を搾取するような、圧政に制裁をくだし、徳川幕府の安定した、全国的な一律支配を促した側面があったようです。「島原・天草の乱」は、既存社会に対する反乱ー「一揆」の象徴として、「危険分子」の象徴して、語りつがれていき、「天草四郎」を描いた絵巻物さえ、世間には出回っていたようです。
けれど、「隠れキリシタン」の信仰は公に認められたわけではありません。そんな状況の中で、人々に好奇の目で読まれていた、四郎の絵巻物を、リノが描いていたとしたら。信仰を失わず、みんなの意思を背負って、独り社会に挑み続けていたとしたら。そんな彼の生き方も、ありなのではないかと思います。
ちょっと、妄想が広がってしまいましたが、リノのように、絶望的で孤独な状況におかれた人に寄り添い、生きる力を与えてくれるものが、「信仰」だと思っています。
ただ、その一方で、既存の社会に変化をもたらすには、「信仰」とは異なる作用ー「革命」の精神も必要です。四郎が説いた主張は、キリスト教の信仰とは異なるものだったかもしれませんが、自分たちの手で自由を得ようとする、まさに革命的な思想だったと思います。
「隠れキリシタン」たちの信仰が、日本に根付いたキリスト教が、ヨーロッパの信仰の在り方と形をかえていったように、その地域・時代・社会によって、信仰は変容していくものだと思います。
だから、四郎が説いた思想が、キリスト教の本流から外れたものだとしても、それが流雨をはじめとする、島原・天草の人たちの心に響き、救いとなり、立ち上がる勇気を与えてくれたものだとしたら、その信仰もまた、否定されるものではありません。
「流雨」というキャラクターの、彼女の一番核にあるのは、「理不尽な社会への怒り」だと思います。次回の記事では、流雨の感情を紐解き、リノが牢獄に捕らえられ、四郎が逃がしたあのシーンの、彼女の関わり方について、考えていけたらと思います。
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