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小説 「僕と先生の話」 30

30.曇天

 あれ以来、岩下さんは週に2〜3回訪ねてくるようになった。和室で仮眠を取ったり、2階の こたつでノートパソコンやタブレット端末を使い分けて長時間 仕事をしたり、僕らと一緒に食事をしたり、まるで同居人が一人増えたかのようだった。
 先生は、やはり絵本を描くのは「休み」にしたようで、応接室に篭って小説の原案を書くか、一人で出歩くことが多くなった。
 時々、岩下さんにプロ級のマッサージをしてもらいながら、ご自身の体調に関することを報告したり、逆に彼の家族に関する悩みを聴いたりしていた。先生は「私は結婚すらしたことがない」と言いながらも、職業柄、児童の発達段階や心理に関する知識は豊富なだけあって、専門家さながらの考察と助言をしていた。

 先生の口からも、和室にある荷物の持ち主(松尾くん)について、最低限の情報だけは彼に伝えられていた。「戻ってくるのを待つしかないんだ」と言う先生に、彼は にこやかに「お会いできるのが楽しみです」と応えた。
 先生は、彼に背中を叩いてもらいながら「いろいろ、教えてやってくれ」と頼んでいた。彼は「私で よろしければ」と快諾した。


 ある時、彼が、来訪するなり、靴を履いたまま玄関に座り込んでしまった日があった。朝から どんよりと曇って、今にも雨が降りそうでなかなか降らない、重苦しい空となっていた日だ。
「どうされましたか?」
「いえ……。昨日、息子と公園で遊んだのですが……少し、張りきりすぎました……」
そんなに疲れるほど遊んだのか……と思っていたけれど、彼の発汗量や表情、呼吸から、尋常ではない「痛み」が見て取れた。
「あの、もしかして……傷、痛みますか?」
「そうですね。今日は、かなり……。まぁ、こんな天気ですし……仕方ないですね」
「横になりますか?僕、布団を敷きますよ」
「いえ……今は、座っているほうが楽なので……お気持ちだけ頂戴します」
「わかりました」
 彼は、少し休んでから、どうにかリュックを降ろして立ち上がると、洗面所の水道水で痛み止めと胃薬であろう2種類の錠剤を飲んでいた。
 彼はリュックを玄関に放置したまま和室に行ってしまったので、僕が後から それを運んだ。
 
 その日は、先生も朝から「頭が痛い」とか「腰が痛い」と言って、こたつから動かず、パソコンに触ろうともしなかった。
 僕自身には【天気痛】というものは無いけれど、気象条件によって身体に痛みが出る人が居ることは知っている。先生は「曇り」がいちばん苦手らしく、雨が降りだすと痛みが消えて楽になるという。
 今日のような曇天が、いちばん辛いのかもしれない。

 僕は、2階のこたつから動かない先生に、岩下さんが来たけれど「古傷が痛む」と言って和室から動こうとしないことを、念のため報告した。先生は「今日は仕方ない」とだけ言って、そのままアニメを観ていた。
 やがて「彼のほうが重症なんだ」と、付け加えた。

 夕食の準備ができる頃には、彼は自分から2階に上がってきて、先生と一緒にアニメを観始めた。
「痛みは引いたかい?」
「今日は……駄目です」
「痺れがあるかい?」
「少し……」
「安静にするしかないね。今日はひどい天気だから」
「はい……」
彼が、珍しく背中を丸めている。

 夕食の時も、ずっと同じアニメが流れていた。先生お気に入りの作品で、今日は全話を一気に観ているのだ。
 食事中、僕と先生がアニメの話ばかりしている間、ずっと黙り込んでいた彼が、珍しくガタンと音を立てて茶碗を置き、箸を手に持ったまま、動かなくなった。
 少し驚いたけれど、以前にも見たことがある、あの「ロボットの充電が切れたみたいに動かなくなる現象」で、僕は彼が睡魔に負けそうになっているだけだと思っていた。
 しかし、先生は彼の異変に気付くなり、こたつから出て、彼のすぐ隣に座り直した。
「岩くん、どうした?」
先生が名前を呼んで、肩に触れても、彼は動かなかった。虚ろな目を食卓に向けたまま、まったく反応しない。
「坂元くん。こぼすといけないから……」
先生は、僕に食器を少しだけ彼から遠ざけるように言い、食卓に乗ったままの彼の左手を掴んで降ろし、既に こたつ布団の上に置かれていた彼の右手から、箸を回収した。
「岩くん……岩くん……」
先生が何度呼んでも、肩や背中を軽く叩いても、彼はやはり動かない。目はうっすらと開いたまま、表情は ぼんやりとしていて、座ったまま意識が飛んでいるように見受けられた。
「え……?」
「君は、初めて見るかい?」
「は、はい……」
ここまで「動かない」彼は、初めて見る。
「岩くんは、時々こうなるんだよ。【欠神けっしん発作ほっさ】というやつだね」
「えっ……!?」
癲癇てんかん発作の一種だ。言われるまで気付かなかった。
「彼は、頸に怪我をした時、頭を強く打っているから……それ以来、時々こういう発作が起きるんだ。
 疲れていたり、睡眠不足の日が続いたりすると、発作が増えてしまうのだけれども、気持ちが張っている時は、ほとんど起こらなくて……むしろ、リラックスしている時に起きるみたいだね」
先生が、解説をしながらもずっと背中をさすっているけれど、彼は微動だにしない。瞬きすらしない。
「どうすればいいんですか?こういう時……」
「呼吸さえ止まらなければ、特に何もしなくていいよ。ただ、突然 手が動き出す時もあるから、何かにぶつけたり、熱いものをこぼして火傷をしたりしないようにだけ……気をつけてやればいい。
 大抵は、数分で意識が戻るよ。長い時は、30分以上、このままだけれどね」
「30分!?」
「10代の頃には、半日以上続いたこともあるそうだよ」
「そんなに……」
「ただ……彼の発作は、私のとは違って、静かだから……いいよねぇ。おかしな事を口走ったり、意識が無いまま歩き回ったりしないから……」
先生は、彼に意識がある時と同じように「ねぇ?」と言ったけれど、やはり彼は応えなかった。
 先生が、再び背中を優しく叩きながら、名前を呼んだり「どうした」「おい」と、何度も声をかけたりしているうちに、やがて彼の瞼が動き出し、何度か瞬きをしてから「あれ……?」と呟いた。
「え……先生?」
「おはよう」
先生が、彼の肩に手を触れたまま、にやにや笑いながら挨拶した。2人にとっては「いつものこと」なのだろう。
「……私、また固まっていましたか?」
「そうだよ。
 気分は、悪くないかい?……このまま、残りを食べられそうかい?」
「大丈夫です。いただきます。
 失礼しました……」
「とんでもない」
 先生が指定席に戻り、全員が食事を再開した。彼は、何度も ため息をつきながら、発作の前よりも ずっとゆっくりとした動きで、食べ進めた。
「今日は、本当に駄目です……ずっと、頭がもやもやしています……」
「ゆっくり食べていってください」
 彼にとって、満足に眠れない日々が続くのは、本当に死活問題なのだ。ごく短い時間とはいえ意識が飛んでしまうことで、本人だけではなく、保護すべき乳幼児を危険に晒してしまうことになるのだから……。
(風呂で溺れたりとか、しかねないよな……)
 先生は、それを知っているから、彼に布団まで貸し与えて、自宅内での仮眠を許しているのだ。


 その後、彼も、僕と同じ駅から電車に乗るというので、途中まで一緒に帰ることにした。(2人とも、同じ駅で別々の路線に乗り換えることが判った。)
 彼は駅のホームでも一度だけ発作を起こし、それによって僕らは 電車を一本見送った。意識が戻ってから、そのことについて平謝りだった彼に、僕は「気にしないでください」としか言えなかった。
 僕は、彼に会うたびに「敵わない」と感じる。おそらく完治はしない 痛みや痺れ、意識障害と付き合いながら、それでも正社員としての業務をこなし、父親としての責務を立派に果たしている。書籍の出版だけではなく、先生の健康管理に必要な知識についても、かなり深く学んでいる。
 僕は、自他ともに認める「軽症」であるにも関わらず、恵まれた状況に甘んじているばかりで、勉強らしい勉強もしていない。……なんだか、すごく恥ずかしくなってきた。
 家にある漫画を、次の休日にでも売り払ってしまおうか……。


次のエピソード
【31. 「虎穴の主」を前に】
https://note.com/mokkei4486/n/n98e430351802

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