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小説 「吉岡奇譚」 32

32.新生活

 倉本くんのことを夫に任せ、藤森ちゃんと2人で家電量販店に赴く。
(電器屋なんて、何年ぶりに入るだろう……?)
 店内は照明が煌々と光り、高価な商品が所狭しと並び、聞き慣れない音楽や言葉で溢れている。夥しい数のテレビが、ほとんど同じ映像を流している。
(パニックになる前に帰らないとなぁ……)
「何が必要か、リストアップはしてある?」
彼女は、さっと1枚の紙を取り出した。相変わらずの美しい字で、欲しい家電の名が箇条書きで書かれている。
 手近な店員を1人呼び寄せ、「新生活を始める彼女のために家電一式を買いに来た」と告げ、助言と価格の計算を頼んだ。彼女が用意したチェックリストを基に、私達は炊飯器や冷蔵庫、掃除機、電子レンジ、ドライヤー等を選んで廻る。
 冷蔵庫や洗濯機は配達を依頼し、全て現金で支払いを済ませる。持ち帰りが可能な商品は、台車を借りて駐車場まで運び、車に積み込む。
 彼女の新居に向かう途中で、コンビニに立ち寄る。まだ冷蔵庫が無いため、すぐに食べきれる分だけを購入する。

 ほとんど何もない新居に、買ったばかりの家電を運び込む。若く、腰痛も無い彼女は、きびきびと よく働く。細身だが、パワーもスタミナもある。マスクをしたまま、平然と力仕事をする。(私は、外さないと酸欠になる。)
 荷物を全て運び込んだら、まずはコンビニで買った弁当やサラダを食べる。
 まだテーブルすら無いのだが、フローリングは とても綺麗だ。数日前に、彼女がプロ級の掃除を終えている。
 買ったばかりの炊飯器の箱を、即席の食卓にする。
「カーテンがあるなら、とりあえず良いね」
既に掛かっているカーテンは、彼女が自分で買ったもののようだ。
「あと、今日中に欲しい物は……?」
もう、すっかり指文字を覚えている彼女は「ふとん」と答えた。その後、きちんと「です」の手話も続ける。
「あぁ。いちばん大事な物だね」
 家電以外の「大至急 欲しい物」も、ちゃんとリストがある。寝具や食卓、洗濯関連用品が書かれている。(掃除用具や、浴室内に置く物品は、既に彼女が購入している。)
「ホームセンターに行かないとねぇ」

 私が薦めたホームセンターに行くことになり、リストにある物に加え、リビングやトイレ、台所用の敷き物を買った。
 彼女が選ぶ商品は、どれも灰色か青色あるいは緑色が基調の、シンプルなデザインのもので、私も「自宅に置きたい!」と思うようなものが幾つかあった。
(気が合うね!)
私が一人で にやにや笑っていることに、気付いた彼女は何か訊きたそうにしていたが、結局 何も訊いてこなかった。
 黙々と会計を済ませると、商品を満載したカートを押して駐車場を歩き、手慣れた様子で私の車に荷物を積んだ。

 新居に戻り、買ってきた寝具を寝室に広げたり、敷き物の類を、それぞれの場所に敷いたりする。
 ゴミを袋に まとめ終わった後、すっかり「住居」らしくなった部屋を眺めながら、私は昼間に買った茶を飲み干した。(ペットボトルは持ち帰ろうと思う。)
「今夜からは、こっちで寝るんだろ?……なんだか、寂しくなるね」
【先生、本当に ありがとうございました】
「とんでもない。……“No worries, mate!”」
私の生まれた国の、決まり文句である。「Don't worry.」とか「No problem.」と、概ね同義である。
 大まかな意味は伝わったのか、彼女は、特に何も訊いてこなかった。

 何故か、急激に顔が赤くなり、やがて、涙を零しはじめた。
「どうした?」
首を横に降り、袖で涙を拭う。手に持った筆談具は、使わない。
 私は、とりあえず真新しい箱ティッシュを手渡した。
「ほら」
彼女は、筆談具を新しい食卓に置き、ティッシュを両手で受け取ったら、鼻をかむ。ゴミ箱はまだ無いので、適当な袋にゴミを入れる。
「いろいろあったものね……」
この新居に、母親が押しかけてくることなど無いように、私は祈っている。
 彼女は、涙目になったまま、左の袖を捲った。例の火傷の痕が、以前よりも、少しだけ薄くなっているような気がした。
「お。薄くなったんじゃない?」
彼女は何度も頷きながら、捲っていないほうの袖で、涙を拭う。
「良かった良かった。効いてるみたいだ」
黒いマスクの下で、真っ赤な顔をして、それでも、心からの笑顔でいるのは判る。
 もはや手話も筆談も忘れ、ただ涙と表情で語る彼女が、私は愛おしくてならず「抱きしめたい」とさえ思ったが、それは きっと「セクハラ」だ。ぐっと堪えた。
 それでも、肩だけは叩き、親愛の情は伝えたつもりだ。
「良かった……日々、進歩だ。君は毅い」
捲っていた袖を戻し、ずっと泣いている。何度も頭を下げ、涙が滴る。
 やがて、筆談具を手に取って文章を書いた。
【先生には「ありがとうございます」としか、言えません。これから、もっと仕事を頑張ります】
「あまり、深く考えなくていいよ。君の働きぶりに、何も問題は無いから。……いつも、ありがとう」
 彼女には、久方ぶりの「プライベートタイム」を満喫してもらいたいので、「ゆっくり休んで」と告げて、私は早めに帰路についた。


 帰宅して、インターホンを押したが応答は無い。とはいえ、自分の家である。私は、自分で鍵を開け、中に入る。
 入ったら、まずは和室を覗いたが、誰も居なかった。
 洗面所で手洗い・うがいをして、2階に上がる。
 一人でベランダに出て煙草を吸っていた夫は、私が2階に上がっていくまで、私が帰ってきたことに気付かなかったようだ。
 彼の目つきを見て、私は「まずい」と感じた。視界の隅で動くものを反射的に睨みつけるのは、彼の情動が不安定な時の兆候なのだ。(今、ちょうど『そういう時間帯』だ。)
 ガラス越しに「ただいま」と言ってみて、様子を伺ってから、戸を開けた。
「ただいま。……無事に買い物が終わったよ。藤森ちゃんは、今日から新居で寝る。……明日の11時頃、また来るよ」
「おぅ」
煙草を咥えたまま、ぶっきらぼうな返事をする。
「……倉本くんは、どうだった?」
「ずっと、本ばっか読んでる。ほとんど……会話にならねえ」
煙草を手に持って煙を吐き、眉間や鼻面に皺を寄せる。
 普段、私達の前では抑え込んでいるものが、独りになったことをきっかけに、表出しているのだろう。
「彼は今……3階?」
「あぁ」
「わかった。……ありがとう」
そっとガラス戸を閉めて、私は3階の資料室に向かった。
 夫のほうは、もう少し時間が経てば、落ち着いてくるはずだ。

 倉本くんは、資料室で獣医学の本を読んでいた。「ただいま」と声をかけても気付かないようなので、私は彼の真正面にある椅子に座った。
 そこで改めて挨拶をすると、不明瞭な発音だが「おかえりなさい」と言ってくれた。数時間ぶりに声を出したかのようだった。
「今日は、お腹の調子は、どう?」
私は、自分の腹に触れながら訊いた。
「とりあえず、吐いてない、です……」
「良かった」
 彼は、私が相手なら、概ね「会話が出来る」のだが……夫や藤森ちゃんとは、何故か上手くいかない。
「晩ごはんが出来たら、また呼びに来る」
「……はい」

 
 冷凍食品や缶詰をフル活用し、可能な限り火を使わない、いつもの私の調理法で、至極つまらない夕食を作る。
 倉本くんの分は、今日も粥料理だ。レトルト粥に、油を切ったツナ缶と、ふやかすだけで食べられる、フリーズドライのマッシュポテトを混ぜ込んで、少量のお湯と調味料を追加する。自分でも味見をしたが、悪くない出来である。

 3人で夕食を摂る。
 夫は、もう すっかり落ち着いている。
「俺も、藤森ちゃんの新居に行ってみたいなぁ……」
「本人が望むなら……家具の組み立てでも、手伝ってやれば どうだい?」
夫は運転免許を取っていないため「車出し」の要員にはなれない。だが、手先は器用である。
「へへっ……お呼びが かかれば、嬉しいな」
彼女の話をするだけで、夫は上機嫌になる。
 倉本くんは、テレビ画面を眺めながら、黙々と、粥と汁物を飲むように食べている。ほとんど噛まないので、すぐに食事が終わる。
 小さな声、はっきりしない発音で「ごちそうさま」と言い、手を合わせる。
 「足りるかい?」と、大きめの声で私が訊くと、彼は「吐くのが怖いので」とだけ言い、食器を台所に運んだ。
 流しに それを置いたら、また食卓の側に戻ってきた。食卓の、空いた空間を拭いている。
「お、偉い偉い」
私が褒めても、目もくれず、なんだか落ち着かない様子である。胸や頸を、しきりに掻いている。
「しばらく『食休み』をしなよ」
返事も無く、ただ私の近くに座る。
 夫は、特に何も言わない。
「先生。明日……僕、サイを見てきます」
「サイ?あぁ、どうぞ。……朝から?」
「たぶん、もうすぐ……仔どもが……」
「生まれるの?」
そのようなニュースは知らないが、長らく雌雄を同居させているのは事実だ。
 彼は、急に黙り込んで、夫の姿を見ている。気付いた夫に「どうした?」と訊かれると、口ごもる。
「……風呂、沸かしてきます」
「はい、どうぞ」
「おう」

 彼が居なくなるや否や、夫が口を開く。
「……今日から、あいつ一人で、1階で寝かせんのか?」
「それが良いかな?とは、思うよ。『来客』だし、プライバシーというものがあるだろう……」
夫は、何か言いたげだ。
「何か、気がかりな事がある?」
「……あいつ、夜中に寝言 言いながら、泣いてる時があるんだ。心配になって、起こそうとしても、起きなくて……ずっと、一人で『ごめんなさい』とか『さようなら』とか言いながら……丸くなって、震えてるんだ。
 俺、何もしてやれなくて……治まるまで、見てるしかなくて……」
「それ、おまえが睡眠不足にならないか?」
「まだ、そんなに……気にならないな。怪我するほど、眠くねえし」
「そうか……」
 お互いに食事は終わっている。私は、夫の食器をもらい受けて自分のものに重ね、運ぶ。彼も、片手で持てる分は運んでくれる。
「彼は……おそらく、自分の声とか、こちらの声が、ほとんど聴こえない状態で、頭に浮かんでいることを、一方的に話す……というのが、多いんだよ」
「……だろうな」
「日中は?安定してる?」
私は、食器に水を張る。
「……大人しいぞ。すごく。一人で、黙って本読んでるか、テレビ観てるか、だな……。藤森ちゃんみたいに『何かに書いて渡してくる』とかも、ねえし……とにかく、元気が無い。飯食わしても、美味いとも何とも言わねえ……」
「彼は、味覚障害があるからね」
「そうなのか!?」
私は洗い物を先延ばしにして、食卓に戻る。彼も、ついて来る。
「彼は……勤務先の同僚に『首を締められた』とか『毒を盛られた』と、言っていたな」
「マジかよ……」
「『パワハラ』では済まない、酷い目に遭ってきた被害者のようだよ。……人間不信とか、視線恐怖とか……『笑い声が怖い』とか、厄介な症状に悩んでいるね」
「……俺は、どうしてやればいい?」
「特に、何も……今の接し方で、問題ないと思うよ。彼が、おまえを恐れている様子も無いし……」
「そうか?」
「恐れていれば、無理を押してでも宿に泊まろうとするだろうし……『悠さん』とは、呼ばない気がする」
「……なるほど」


 彼は、風呂の掃除を終えたら、そのまま沸かし、入ったようだ。
 風呂上がりの状態で、2階にやってきた。
「風呂……いただきました」
「あいよ。俺も入るかな」
私が終い湯に入るというのが、我が家の慣習になっている。
「和真。おまえ、今日から一人で寝るんだぞ。俺が3階で寝るから」
身振りで「一人で」とか「俺が」「上」と、いつになく丁寧に教えてやる。
「……はい」
「明日、サイ見に行くなら……気をつけろよ」
指で、空中に「サイ」と、文字を書く。
「はい……」
 夫が1階に降りていく。私は、後回しにしていた洗い物の後、翌朝に向けて炊飯の予約をする。
 冷蔵庫に用があるらしい倉本くんが、台所に やってきた。
「悠さん、明日……仕事、ですか?」
「仕事だよ」
彼は頷きで応えた後、開栓済みだったスポーツドリンクを ちびちび飲んで、残りを冷蔵庫に戻した。
「……おやすみなさい」
「はい、おやすみ」
きちんと挨拶をしてから、1階に降りていく。

 そういえば、私は、知り合ってから一度も、彼の「笑顔」を見ていない。


次のエピソード
【33.発露】
https://note.com/mokkei4486/n/n29e177d796c9

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