小説 「僕と彼らの裏話」 48
48.邂逅
乱闘の翌日。僕は先生宅の応接室で、久しぶりに先生と面談をしていた。それは僕から願い出たことだった。
僕は現場で社長の兄を殴ってしまったことを報告し、乱闘時の幻聴のことも伝えた。
それを聴いた先生は、悠然として「そんなことが起きれば、私だって怒るよ」と応え、僕を責めなかった。そして「あちらの仕事は、もう辞めるべきだ」という、僕の考えに理解を示してくれた。
僕は自分の手で退職願を提出する気でいたけれど、先生は「後始末は私に任せてくれ」と言い、僕には「体調が落ち着くまでは、たとえ忘れ物があったとしても、あの現場に近寄ってはならない」との沙汰が下された。
僕は「はい」としか言わなかった。
次の休日。新しい『手帳』の受取りのため千秋と区役所へ行った帰りに、彼女の希望で、ショッピングモール内にある大型書店に立ち寄った。
彼女が高価な専門書の数々を熱心に試し読みしている間、僕は一人で絵本のコーナーに居た。先生のライバル達に関する情報収集だ。
平積みされた、知らない作家達の絵本を眺めていると、どこからか聴き覚えのある声がした。
「おばちゃん!稔くんが居るよー!」
声の主は、もう判っている。哲朗さんの娘・遙ちゃんだ。(平日とはいえ、今は もう放課後の時間帯ということだろう。僕らには子どもが居ないから、今どきの小学生の事情はよく知らない。)
彼女は、この日も伯母の瑞希さんと外出中だったようで、会計前と思われる文庫本を持って僕に駆け寄ってきた後、大きな声で瑞希さんに呼びかけ続けた。
呼び立てられたからといって特に急ぎもせず、書店内で騒ぐ姪を窘めることもなく、悠々と歩いてきた瑞希さんは、僕に挨拶をしてから「今日はお休みですか?」と尋ねた。僕は「はい」と応じる。
僕が2人に「妻と来ている」と告げると、遙ちゃんが「奥さんに会ってみたい!」と熱望したので、僕は瑞希さんの了承を得てから2人を古典のコーナーまで導き、千秋と引合わせた。
初対面の挨拶を交わした後、女性陣は3人とも、図書館であれば絶対に許されないような大声で談笑し、僕は一人黙っていた。周囲の視線や耳が、気になって仕方なかった。
千秋が車椅子に乗っているからといって遙ちゃんは特に動揺もせず、彼女に「何を読んでるの?」と訊いた。
「大昔の人が書いた お話だよ」
小学校3年生に「古典」とか「平家物語」と言っても通じないだろうと考えて、そんな言い方をしたのだろう。
千秋が買おうとしている本を覗き見て「うわぁ、漢字ばっかり……」と感想を述べた後、遙ちゃんは話題を変えた。
「遙ねぇ。今日、伯母さんとゲーセン行ってきたのー」
「わぁ!良いねぇ。どういうゲームが好きなの?」
「えっとねぇ……ぬいぐるみ獲るやつと、音楽のやつー!」
彼女の家にはゲーム機が無いと聴いているけれど、ゲーム自体にまったく興味が無いわけではなさそうだ。
そして、その後の千秋との会話から、遙ちゃんは「弟に壊されること」を警戒して、あえて自分用のゲーム機を持たないということが判った。悟くんが、もっと大きくなって癇癪を起こさなくなるまで、友達や瑞希さんの家か、ゲームセンターにあるもので遊ぶことにしたという。
それを聴いた千秋は「うちにもゲーム機が たくさんあるから、いつでも遊びにおいで」と、彼女を誘った。遙ちゃんは、すっかり乗り気で、両親の許可が得られれば明日にでも行きたいと言ってくれた。
長い立ち話の末に、瑞希さんの発案で、書店での会計後に4人でカフェに行くことになり、僕はそこでも3人の会話が終わるのを、ただただ待つことになった。
僕は、建築技術に興味があるふりをして、店内の壁や天井、梁、吊り下げられた照明器具にばかり目を向けていた。
(女の人って、どうしてこうも長い時間、喋っていられるんだろう……?)
僕が頼んだ抹茶ラテのカップは、とっくに空だ。
初めこそ、瑞希さんの話は車椅子で出歩く人にとって極めて重要な情報で、僕ら3人はその場で連絡先を交換したくらいだったのだけれど、だんだん、僕には分かりきっているスーパーやドラッグストアに関する「お得情報」とか、お薦めのレストランや居酒屋へと話題が移り、今となっては、瑞希さんの夫・陽さんや、弟・哲朗さんのプライベートに関する、返答に困る雑談が続いている。
電動車椅子や酸素吸入器が欠かせないという陽さんの暮らしぶりは、聴いていて勉強になる事も多いのだけれど、面識の無い人の病状について、僕が言えることは少ない。
そして、僕らにとっては紛れもなく「尊敬する人物」である哲朗さんが、ベテラン精神科看護師でもある実姉にとっては「非常に手のかかる、頭の悪い弟」でしかないようで、僕は少なからず衝撃を受けたし、親友ぶって口答えをしてしまいたいくらいだった。(とはいえ、結局は何も言えなかった。)
長い話は最終的に、子どもの居ない瑞希さんにとって、甥や姪が いかに愛おしく、大切な存在なのか……というところに帰結した。それを聴いた遙ちゃんは喜んでいたし、千秋も肯定的に笑っていたから、僕は何も言わなかった。
2人と別れた後、これから買い物をして夕食を作るのが億劫になっていた僕は、千秋に「何か食べて帰ろう」と提案した。彼女も同意してくれた。
彼女が「久しぶりに豚丼が食べたい」と言うので、見慣れた看板の牛丼チェーン店に入った。小さなテーブル席で向かい合って座り、彼女は豚丼の特盛を、僕は海鮮丼の並盛を食べ進める。もちろん、2人とも味噌汁やサラダも頼んでいる。
「瑞希さん、副看護師長って言ってたね。凄いなぁ……」
「うん」
職場での地位も凄いけれど、空手の段位も凄い人だ。女性で「四段」保持者は珍しいのではなかろうか。(甥の樹くんも、彼女の影響で空手を始めたのだという。)
段位そのものが充分「抑止力」になるし、万が一、院内で男性患者が暴れ出しても、彼女なら的確な自己防衛が出来るだろう。
「稔、瑞希さんのとこに転院させてもらえば?」
「な、何だよ急に!」
「だって……今の担当医『信用してない』んでしょ?薬だって、あんまり合ってないみたいだし……」
僕が主治医を信用していないのは事実だ。しかし……顔見知りが働いている病院に、あえて通うのも気が引ける。(瑞希さんには、僕が精神障害者であることを話していない。)
「…………哲朗さんに相談してみる」
「あぁ、そっか。哲朗さんが行ってるとこってのも、悪くないかも……」
別に、同じ所に通いたいわけではない。とにかく「情報」が欲しいのだ。「ありきたりな病態」として軽んじられる心配の無いところで、然るべき治療が受けられるように……。
帰り道、車の中で「今日は楽しかった!」「付き合ってくれて、ありがとう」と言ってもらえて、妙な気疲れが吹き飛んだ。
明日からも、きっと頑張れる。