小説 「僕と先生の話」 25
25.保護
複数の締切が重なる忙しい月を無事に乗り越え、先生は「一週間くらい、湯治に行きたい」と言い始めた。(その間、僕も休職となる。)
僕は、マッサンが働いている山奥の温泉街の存在を教えた。(もちろん彼のことは話さなかった。)
先生は、とても興味を持ってくれた。
後日、先生と岩下さんのスケジュール調整が完了し、僕の6連休が確定した。
善治も、一人で自由を謳歌しているようだし、僕も、どこかに行こうかなんて思ったけれど、好きなゲームの最新作が出たことを知ってしまい、休暇中は自宅でゲーム三昧にしようと決めた。
僕が先生の家で働き始めてから、約8ヵ月。先生が日常的に語ってくれる 健康に関する豆知識や、岩下さんが先生に「何度でも言う」事柄を、生活の中で実践していくうちに、少しずつ体調が良くなってきた。相変わらず心療内科に通っているけれど、必要な薬の量は減っている。休日は基本的に「ひきこもり」同然ではあるけれど、食欲があるし、調理や風呂・洗濯に費やすエネルギーが、ちゃんとある。過去の忌まわしい記憶が頭から離れない日はあるけれど、だからといって「死にたい」とか「消えたい」という気持ちに囚われることは、ほとんど無くなった。
今の僕には、生きて先生の家に通う理由がある。
新しく買ったゲームの攻略に明け暮れること5日目。先生から「出勤開始日を遅らせてほしい」と連絡があった。詳細は教えてもらえなかったけれど、無事に湯治場から帰ってきた先生のもとに、ご友人に関する「よくない報せ」が舞い込んだのだという。「状況が落ち着くまで待ってほしい」とのことだった。
ご友人が、大きな怪我か病気でもしたのだろうか……。
僕は、待つしかない。
数日後、やっと先生から連絡があり、例のご友人を「自宅で匿うことになった」と聴かされた。ただならぬ緊急事態であるように感じたけれど、詳細については「本人と引合わせてから話す」と告げられた。
9日ぶりに出勤すると、真っ先に和室へ案内された。
先生のご友人というのは、黒いマスクをした男性だった。風邪でもひいているような厚着をして、明らかに元気が無い様子で、壁に背中を着けて、畳の上に脚を投げ出して、和室の隅に座っていた。目を閉じて、眠っているようにも見える。しかし、眉間や鼻に皺を寄せ、苦しそうだ。
右眼の上に、見覚えのある傷がある。
「え……松尾くん!?」
「そうだよ」
答えてくれたのは先生だ。彼は、目を閉じたまま、動かない。
「松尾くん。……坂元くんが来たよ。
話せるかい?」
先生が、彼の隣に座ってから、そっと声をかける。
何度か名前を呼ばれて、やっと目を開けたけれど、もはや、僕が知っている「松尾くん」ではなかった。目の焦点が合わず、一言も話さない。
何故か右側だけ瞼の痙攣が止まらず、また、左右の眼球は、ずっと小刻みにふらふら動いている。「眼振」というやつだろう。
「……お久しぶりです」
そう言ってみたけれど、彼は応えない。
「今は、難しいかな」と、先生。
「ごめんよ。後でまた来るから……」
先生は彼の脚に毛布をかけ、和室を出た。僕も先生に続いた。
松尾くんは、ずっと動かない。
入院したとは聴いていたけれど、ここまで重症だとは思いもしなかった。
どうして、あんな状態で、病院や自宅ではなく、この家に居るのだろう……。
2階で、僕がタイムカードを押してから、先生が経緯を教えてくれた。
彼は、激しい目眩や吐き気を訴えて入院した。検査の結果、内耳に異変が認められ、投薬治療が始まった。数週間の入院で症状は改善し、自宅で安静にすることを前提に退院が許された。一人暮らしであった彼は、やむを得ず実家に身を寄せたが「昇進の機会を逃した」とか「家事もせずに、寝てばかりいる」ことについて、また、食べたものを吐いてばかりいることについて、家族からひどく非難され、塞ぎ込むようになったという。傷病手当金を受給しながら休職しているそうだが、月々の収入が減ったことについても、責められているのだという。
「意味が解らない……」
何故、闘病中の家族を、非難など するのだろう?
「お父様とは、昔から対立しているそうだよ」
「だからって……」
「あんな環境では【静養】にならない。悪化する一方だ。……だから、本人も、耐えかねて、家を出た」
薬は毎日飲んでいるけれど、今でも、発作的に激しい目眩が起きる時があり、横になっていないと、治まらないのだという。
彼は、実家から脱出した後、屋外で目眩の発作が起きて動けなくなり、電話で先生に助けを求めたそうだ。
「聴力に変化はないはずなのだけれども……反応が鈍くなっているし、どんどん口数が減っているんだ。
精神的な落ち込みとか、よく眠れないことが、影響しているのではないか……とは、思うけれども」
これまでの経緯と、和室で会った時の状態を考慮すると……内耳の病変だけではなく、何らかの精神疾患が疑われる。
「もう少し、状態が良くなるまで、この家から通院させたいんだ。あんな状態で自分のアパートに戻したって、ゴミ屋敷にしてしまうだけだろうから」
下手をすると、死んでしまう……。
「彼、普通の食事はできますか?」
「私がコンビニで買ってくるような弁当の類は、普通に食べるよ。食べる量は、すごく減ったようだけれども……」
「わかりました」
昼食の用意ができたら、先生と2人で和室に居る彼の様子を見に行った。
彼は、先生がかけてくれた毛布を被って、枕も無しに畳の上で寝転がっている。部屋の戸が開いたからといって、特に反応はない。
「松尾くん。そろそろ昼ごはんにするよ。
……2階まで来られるかい?」
「はい……」
今回は先生の呼びかけに反応し、辛そうに起き上がった。どうにか独りで立ち上がり、ふらつきながら、壁を伝って階段に向かう。
僕は、まだ彼と挨拶を交わしていなかったから、側を歩きながら「おはようございます」と言ってみた。彼は、僕のほうは見なかったけれど「おはようございます」と、言葉は返してくれた。
彼は、手すりを持ってゆっくりと階段を上がり、リビングに着くなり、座布団を枕に寝転がってしまった。相変わらず眼振がある。激しい目眩がしているのだろう。
それでも、先生は「普通に配膳をしてくれればいい」と言い、僕は3人分の昼食を用意した。彼の分だけは、定食屋の一人前よりも少なめにした。
食事中、先生は普段と全く変わらない調子で作画や執筆の話をする。僕はそれに付き合う。彼は、黙々と完食し、無言で手を合わせて「ごちそうさま」をしてくれた。
「食欲があって、良かったです」
「坂元くんのごはん、美味しいだろ?」
彼は、マスクを着けてから「美味かったっす」と言ってくれた。
「ありがとうございます」
僕は、食器を洗い終わったら事務仕事を始めた。彼は、夕食まで2階で過ごしたいと言い、寝転がってテレビを観始めた。先生も、すぐ横に座って、一緒に観ている。
「岩くんに、タブレットの使い方を教えてもらうといいよ」
「誰すか?それ」
「私と一緒に絵本を描いている仲間だよ」
「へぇ……」
僕は、先生が見ている前で寝転がったことはない。先生に対し、あんなにフランクな話し方をしたこともない。僕はただの『奉公人』で、先生は『屋敷の主』だ。身分が違う。
しかし、彼は先生にとって、業務や収入とは無関係な 純然たる『友人』なのだろう。知り合ったきっかけは、悲惨な出来事だけれど……。
一日の仕事が終わり、僕は先生に挨拶をしてから、タイムカードを切って1階に降りた。玄関近くの廊下に、松尾くんが座り込んでいた。和室に戻る途中で気分が悪くなって、休んでいるのだろう。
「僕、帰ります。明日また来ます」
彼は、何も言わない。僕が靴を履くところを、ぼんやり眺めている。やはり、口数が激減している。元気が無い。
僕が玄関の鍵を開けようとした瞬間、背後から「あの……」と、小さな声がした。
「ありがとう、ございました……。
現場で……助けてくれて……」
彼は、同じ場所に座ったまま、目を泳がせて言った。今の彼にとって「座って話す」のは、難しいことなのかもしれない。
「なんもなんも。気にしないでください」
僕は、もう一度「明日も来ます」と告げてから、家を出た。
僕は、今の彼を非難などしない。
次のエピソード
【26. 片鱗】
https://note.com/mokkei4486/n/ndd70ecbe96fe
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