見出し画像

小説 「Company Crusher」 1

1.先生からの贈り物

 彼は、不思議なヘッドホンを持っています。それは、ヘッドホンそのものがラジオになっていて、頭に着けてスイッチを入れれば、番組を聴くことが出来ます。更には、お店で買える普通のラジオとは全く別のチャンネルを幾つも受信することが出来るのです。そして、それはコードレスで充電が出来ます。パソコンの上に置いておくだけでいいのです。
 彼に そのヘッドホンをくれた「先生」は、もう亡くなりました。先生は、彼が通っていた職業訓練施設の職員でした。そこに通うまで一度も働いたことが無かった彼に、手取り足取り【働き方】を教えた人です。
 先生は、82歳で引退しました。
 一緒に訓練が出来る最後の日、先生は彼にヘッドホンを贈りました。
「これは……私が昔、ある人から譲り受けた【秘密のヘッドホン】なんだ。世界に……500台あるか、ないか、といったところかな?……特別な品なんだ。お金で買えるものではないから、壊さないよう大切に使いなさいね」
彼は「はい!」と元気良く答えました。
 当時の彼は、先生以外の人とは ほとんど会話が出来ませんでした。というより、ほとんどの人は彼の言葉を理解できませんでした。
 彼は、両親による厳しい監視の下、受験勉強以外のことは何もさせてもらえない生活が何年も続いた影響で、世間のことをよく知らなかったというだけではなく、したくもない猛勉強を強いられ続けたことによる 凄まじいストレスで、重篤な『こころの病気』に罹っていました。いつも、他の誰にも見えない空気中の【文字】を読んだり、誰にも聴こえない【声】を聴くのに夢中でした。彼は空気中に浮かんでいる【文字】を読むことによって、他の人の感情や考えが概ね解りましたし、彼が心の中で神様に語りかけると、その【声】が返ってくるのです。そのため、彼は自分と先生以外の人間が話す言葉・書いて寄越す言葉には、まったく興味がありませんでした。
 そして、それは当時の医学では「死ぬまで治らない」と考えられていました。
 しかし、先生は何ら特別なことはしませんでした。他の訓練生達と同じように、彼にも挨拶や返事、言葉遣い、制服の着方や洗い方、作業の手順と目的……一つずつ、丁寧に教えました。小中学校で習ったような漢字や計算も、一緒に復習しました。
 彼は、やかんで お湯を沸かす方法や、食器の洗い方、野菜を長持ちさせる方法等を、そこで初めて知りました。実家だと、台所に近寄ることさえ許されなかったからです。


 先生が引退してしまい、安心して話せる相手が居なくなった彼は、贈られたヘッドホンから聴こえてくる不思議な番組の数々に、夢中になりました。それは他のどんなラジオ番組やテレビ番組、あるいは映画より、ずっと面白いのです。そして、正確なのです。嘘や誇張が無いのです。それさえ聴いていれば、その日に地球上で起きていることが、全て解るかのようでした。どこかで何かの仔が産まれた、誰かが何かを食べた、誰かが歌っている、誰かが、誰かを捜している……何だって、流れてくるのです。新しいお店が出来たとか、悪い会社が潰れたとか、それは何故なのか……そんなことまで分かります。
 だから、たとえテレビが嘘を流しても、彼は騙されません。本当に正しいことは、先生にもらったラジオから、ちゃんと流れてくるのです。誰とも話せなくても、彼は【正確な情報】を手に入れることが出来ました。
 何より、そのヘッドホンをくれた先生との思い出が、彼を勇気づけました。

 真面目な性格の彼は、作業時間内はそれを外していましたが、お昼休みや 終了後には必ず聴きました。

 ラジオで聴いた言葉や歌を真似ているうちに、彼は、だんだん他の人と挨拶や会話が出来るようになりました。ラジオで学んだことを話すうちに、周囲の人々は彼を毛嫌いせず、話を信じるようになりました。
 そして、空気の中に浮かんで見えていた【文字】は次第に減っていき、視界は晴れていきました。
 ヘッドホンを外している時にまで、神様や幽霊の【声】が聴こえてくることも無くなりました。それまで神様に訊いていたような事は、ラジオが教えてくれるようになったので、彼は神様に語りかけるのを やめました。


 やがて、彼は訓練施設を卒業し、正式に作業所で働き始めました。人生で初めて【お給料】をもらった日、彼は先生に手紙を書きました。先生の住所は知りませんでしたが、息子さんが経営している お店を知っていたので、そこに手紙を持って行きました。
 後日、彼の家に、先生から絵葉書が届きました。先生の直筆で、お祝いの言葉も書いてあります。
【就職おめでとう!これからも、元気に頑張ってください。飯村くんの活躍を、楽しみにしています。】

 その素敵な絵葉書を、彼はフォトフレームに入れて飾りました。
 その絵を見つめながら、あのヘッドホンでラジオを聴くのが、彼にとっては何よりも大切な時間になりました。

 その習慣は、先生が亡くなってしまった後も、ずっと続けています。
 彼の家に仏壇や神棚はありませんが、彼にとっては、その絵葉書こそが【神聖なもの】になりました。それを飾る場所だけは、どんなことがあっても綺麗にしておくのです。そこに、先生が好きだったお酒やお菓子をお供えする日もあります。
 もちろん、先生のお墓にお参りすることもあります。
 彼は、今でも先生が大好きなのです。


 彼は、病気に罹ったことが判ってから、ずっと一人で暮らしています。彼の父親が「他の兄妹に悪影響だから」と言って、追い出してしまったのです。
 しかし、父親は彼のためにマンションの一室を買い、生活に必要な お金も与え続けました。そして、彼が快復して働けるようになってからも「作業所の給料だけでは暮らせない」と知っていたので、一定の仕送りだけは続けてくれていました。



次のエピソード↓


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?