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小説 「僕と先生の話」 24

24.鉄槌

 夜の工場を訪ねてから、約2週間後。
 僕が出勤するなり、先生は苦々しい顔をして「面倒な事になった……」と言った。
「何か、トラブルですか?」
「弟が、社長を殴って、会社を辞めた」
「……へ!!?」
「社長としては『医者にかかるほどの怪我ではないから』と、警察を巻き込むつもりは無いようだけれども……あいつはもう、二度と出勤しない」
「どうして、そんなことに!?」
先生は、眉間に深い皺を寄せ、ため息をついた。
「松尾くんが、検査入院をすることになってしまったらしくて……それについて、社長が、何か酷いことを言ったらしい。朝礼か何かの時に。それで、弟は激怒して……」
先生は、何かを殴るジェスチャーをした。
 積年の、不満や憤りが爆発してしまったのだろうか……。無理もない。
「……松尾くん、入院したんですか?」
「目眩と吐き気が、四六時中 続くようになってしまって、座っているのも辛いから、ほとんど寝たきりに近いらしい……」
(働きすぎだろう……)

「だから……申し訳ないのだけれども、弟がアパートを引き払って、この家に住むかもしれない」
「和室、綺麗にしておきます」
「よろしく頼むよ……」
僕に言伝をしたら、先生は再びため息をつきながら、階段を上がっていった。
 先生は、最近また3階で仕事をするようになった。

 僕は個人事業主である先生に雇われているけれど、僕の給料は、先生の実弟である善治が出している。彼が無職となったことは、僕の収入に直結する。
 彼なら、すぐに転職先が決まりそうだけれど……。


 数日後、善治が久方ぶりに先生の家を訪ねてきた。彼が、僕の料理を食べたのは初めてだった。彼は、ずっと「うまい」という単語を繰り返しながら、僕の3倍くらいの量を平らげた。
 彼が仕事を辞めてしまったことについて、先生は何も言わなかった。
 彼も、あの会社の話はしなかった。
 食後、先生が用意した大きな紙に、彼は今後の予定を書き連ねた。失業手当のこと、亡くなった奥さんの実家がある町を訪ねること等が書かれていた。彼の無骨な見た目に反して、とても綺麗な字だった。
 先生が、違う色のペンで「ゆっくり休むといいよ」と書き足した。彼は「おう」と、口頭で応えた。

 もはや『岩下先生の寝室』となりつつある和室に、久方ぶりに本来の主が戻った。彼は押入れの中の衣類や書籍を確認し、一部を持って帰ることにしたらしい。
 引越してくる気は、無さそうだ。


 善治が帰った後に先生から聴いた話によると、元部長が退職の理由として社長に申告したのは「急激な視力の低下」であり、退職願には眼科医による診断書と意見書が添えられていたという。
「あの部長さんは……緑内障だ」
 最後の出勤日、社長に「ものが見えるうちに行っておきたい場所が、山ほどあるのです」と言い残し、退勤したのだという。
「それ……部長の ご家族は、知ってるんですか?」
「社長から伝えたはずだよ」
部長自身は家族に何も告げず、全ての知人と連絡を絶って、一人で旅に出てしまったのか……。
 とはいえ、自らの意志で旅をしているなら、生きてはいるだろう。きっと。


次のエピソード
【25. 保護】
https://note.com/mokkei4486/n/ne77c8f0af596

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