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小説 「吉岡奇譚」 25

25.何を食べるか

 順調に作画が進んでいる次回作について、進捗状況の確認のために岩くんが訪ねてきていた。今日は、彼一人である。
 応接室で向かい合って座り、完成している原稿を数枚 彼に見せながら、私は進捗状況と近況について端的に話した。
「お元気そうで、何よりです。先生」
彼も、今日は調子が良さそうだ。
「これを無事に描き上げたら……何か、ご馳走するよ」
「えっ?」
「長年、本当に お世話になったから。ひとつの節目だし、お礼がしたいよ。
 中華でも、フレンチでも、何でも……食べたい物を言ってくれ。ご馳走する。君と千尋さんの2人に」
私のデビュー作を世に送り出した 当時の営業担当者は、彼の妻である。
「恐れ入ります。……妻と相談しておきます」
岩くんは、とても幸せそうに、にこにこしている。
 和室を藤森ちゃんに貸していることは、既に話してある。(彼には『宿代を浮かせるため』と説明した。)
「今日は、仮眠を取らずに すぐ帰ろうと思います」
「すまないねぇ……」
「寝るために、お伺いしているわけではありませんから」
「確かに そうだ」
 彼と、にこやかに雑談が出来たら、私は とても幸せだ。

「そういえば、坂元さんから、何か連絡はありましたか?」
「いや、特に何も……どこに居るのかさえ知らないよ」
「そうですか……」
「君のところには、連絡があるのかい?」
「いいえ。『休職する』という ご連絡以来、何も……」
「今は、好きなだけ、のんびりさせてやりたいよ。これまで、私側の都合でしか休んでこなかったからね。彼は……」
「本当に真面目な方ですからね」

 作業用ズボンのサイドポケットに入れていたスマートフォンが鳴る。
 取り出して見ると、玄ちゃんからの着信だった。今は、昼休みなのだろう。
 岩くんに断って退室し、応答する。
「先生、今、大丈夫?」
「手短に頼むよ。家に出版社の人が来てるんだ」
「社長に、倉本くんのことを話したんだけどさ」
腹立たしげな声だ。
「お……どうなった?」
「『辞めた人の面倒まで見ていられない』って。『キリが無いから』って……何もしないつもりみたい」
「そりゃあ、酷いな……」
(何のための『社会福祉施設』だ。馬鹿馬鹿しい……)
「『彼には支援員が付いてるだろ』ってさ」
「まぁ、確かに支援員が付いてるだけラッキーか……」
軽症者である私や玄ちゃんには、担当の支援員は居ない。(重症者であっても、本人か家族が希望して申請しなければ支援員は付かない。)
「僕、倉本くんの住所わかるから行ってみるよ!」
「……今、彼は入院してるだろ?」
「彼のお父さんを、ぶん殴ってやりたい」
「やめなさい」
「あの おっさんが冷たすぎるから、倉本くんは、あんなになるまで仕事を辞められなかったんだ!」
彼と父親の関係性について、個人記録で読んだのだろうか。
「……いいか?私は止めたからな!?……行くなよ!!」
その後も、彼はまだ不満そうに何かを力説していたが、私は「仕事中だから切るよ!」と告げて、電話を切った。

 応接室に戻り、岩くんに詫びた。
「いえいえ。お気になさらず……」
彼は いつも通り、動じない。ただ目礼するのみである。
 私は、訊かれたわけではないが、昨日の動物園での出来事を端的に話した。
「亡くなってしまう前で、良かったですね」
「本当に、そうだよ……」
 彼は、しばらく黙って腕を組んで、何かを考え込んでから「そろそろ失礼します」と言って、立ち上がった。
「次は、また悟と一緒に……お伺いしたいのですが……」
「了解。悠介の休みを確認しておくよ」
「よろしくお願い致します」
 彼は恭しく一礼し、いつものリュックを背負って帰っていった。


 2階に上がり、岩くんが帰ったことを藤森ちゃんに告げ、私は再びアトリエに戻った。
 大切な原稿を所定の保管場所にしまい、ベランダで乾かしていた筆洗や雑巾を回収する。
 もうすぐ昼食だ。作画の続きは、午睡の後にしよう。

 アトリエの整理を終え、リビングに降りると、藤森ちゃんが黙々と配膳をしていた。
「おや。これ、岩くんの皿じゃないか……」
我が家には『岩くん用』の食器が一揃えある。皿にしろ、椀にしろ、真っ黒で大きめの物を一式買い揃え、彼がこの家で食事をする時は、それを使ってもらうことにしている。
 彼以外の人員が使う食器は、茶碗とマグカップ以外は全て共用である。(白や青が基調の安物だ。)
 彼は、同じような食器がたくさん並んでいると「どれが自分の料理なのか」が、すぐに判らなくなってしまうので、「黒色は岩くん用」と、決めているのだ。
 彼女は、洗い物を減らすために、黒い大きな皿に2人分のおかずを盛ったらしい。
「まぁ、本人が居ないなら混同しようがないもんね」
 私は「合理的だ」としか思わないが、坂元くんなら絶対にしない配膳である。(彼にとって『哲朗さん用』の食器は、ある種の神聖な物であるようで、決して他の人間には使わせない。)

 いつものように、私が一方的に解説しながらアニメーション映画を鑑賞し、彼女は傾聴する。
 食べ終わったら、彼女は速やかに食器を洗い、食卓に戻ってきて映画の続きを観る。
 坂元くんと2人の時でも、こんな日は何度もあった。

 映画が終わり、私が午睡をする間に、彼女は買い物に出かけた。
 私は、寝室で布団を敷きながら、倉本くんの境遇について想いを馳せていた。
 養鶏場の従業員だった彼は、終わりの無い虐待と殺戮に明け暮れる中で、心身を病んでしまったのだろうか……。
 私は「鶏肉に含まれるアミノ酸は、うつ症状の緩和に効果がある」という学説を信じ、積極的に鶏肉を食べるようにしてきたのだが……鶏の飼育環境というのが、どれだけ劣悪で凄惨なものかを知るたびに「このような産業の利益に貢献したくはない」と感じ、複雑な心境になる。可能な限り、鶏に与える苦痛の少ない飼育環境で生産された肉(ブランド鶏)を選ぶようには心がけているが……。
 日本の畜産業界の惨状など、私が学生として畜産学を専攻していた頃から、ほとんど何も変わっていない。
 大学卒業後、長年の夢だった動物園の飼育員に なり損ね、それでも「動物の世話」を仕事にしたかった私は、国内トップクラスのシェアを誇る企業の養豚場に就職したのだが……そこで待ち受けていたものは、決して「動物を活かす仕事」とは呼べない阿鼻叫喚の地獄絵図と、根強い女性蔑視と人種差別、そして「従業員の生命よりも、家畜の配偶子や細胞が尊重される」という、到底受け入れがたい価値観に支配された世界であった。
 「人権意識が低い」と言わざるを得ない実態が そこには在り、私は精神疾患による離職後に「もう二度と豚肉は食べない」と誓うに至った。
 己が長年 心血を注いだ専攻分野・職業を否定するのは、自己を全否定するようで、非常に心苦しくもあったが、それでも、私にとって「大量殺戮と人権蹂躙によって利益を得る組織」の売上に貢献することは、この上ない【恥】なのだ。
 私は、豚肉に限らず、いわゆる『工業的畜産』によって得られる畜産物は、極力 購入しないことにしている。
 必要最低限の牛乳や鶏肉によって、自身の健康維持に必要な蛋白質を摂ることはあるが、それでも「可能な限り、蛋白質はジビエや魚介類、植物から摂りたい」という私の意志を、坂元くんは よく理解してくれている。


 体こそ横にしたが全く眠れないまま、時が過ぎていく。
 敵視すべきもの・忌避すべきものについて考えていると、気が張って眠れない。

 ふいにスマートフォンが鳴る。岩くんからのLINEである。
【妻の希望は『回らない お寿司』だそうです。】
「了解」
私は承諾の意思を伝えると共に「日時については後日 改めて決めよう」と返信した。


次のエピソード
【26.古巣】
https://note.com/mokkei4486/n/n8071730d6fa5

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