小説 「長い旅路」 29
29.初日
リュック一つで先生の家に転がり込んだ俺の、荷物は少ない。ほんの少しだけノートや本が増えたが、それらは全て一つのトートバッグに収まった。
いずれ、改めて実家から鞄や礼服を運ばなければならない。
退居の日。昼食を終えて小休止をしてから、荷物を携え、大変お世話になった吉岡先生に玄関先で挨拶をした。先生は「散髪したくなったら、いつでも おいでよ」と言って、笑って送り出してくれた。
俺としても、許される限りこの家に顔を出したいと考えていた。ここに出入りするのをやめたら、再び体調が悪化するような気がしている。主治医などより遥かに信頼できる人々に逢うことが、今後も俺の糧となるだろう。吉岡先生とは動物園で簡単に逢えるだろうが……悠さんは、そうもいかない。彼が岩手から戻ったら、すぐにでも挨拶をしに来よう。
一人で地下鉄に乗り、恒毅さんが待つ新居に向かう。いつも改札口まで迎えに来てくれる彼に、今日はあえて「家に居てくれ」と頼んだ。独りでも迷わず帰れるよう、道を覚えなければならないからだ。
すっかり通い慣れた地下鉄の駅から地上に出て、歩行者や自転車で ごった返す道を、衝突や ひったくりを警戒しながら慎重に歩く。念のため、リュックには「ヘルプマーク」を付けてある。
普段よりも時間が かかった気はするが、無事に目指していたアパートに たどり着き、階段を上がる。彼の部屋は3階だ。
ドアの前でインターホンを押すと、ほんの数秒でドアが開いた。
「おかえり、和真」
「お世話になります。よろしくお願いします」
「堅いなぁ……『ただいま!』で良いのに」
初日からそれは、駄目だろう。
荷物を廊下に降ろし、洗面所で手を洗ったら、彼に促されるまま寝室へ向かった。降ろしていた荷物は、手に提げていく。
すっきりと片付いた寝室の隅、畳んで積み重ねてある彼の布団の横に、四角いファスナー付きの袋に入った新品の布団が、未開封のまま置いてある。
「僕からのプレゼント!つまらない物だけど……」
「とんでもないです」
これが無ければ、今からでも買いに走らなければならなかった。
「ありがとうございます」
彼が使っているのと同じプラスチック製の箪笥も、大きなクローゼットの中に1つ買い足してあった。俺は、早速持参したリュックを開けて、詰め込んできた衣類を適当に仕分けながら箪笥にしまった。
全く同じデザインの箪笥が3つ並び、そのうち2つが彼のものである。服をしまう時や着る時に、間違えないようにしなければ……。
「名前を、書いて貼ろうか?」
それが一番良いだろう。
俺が何かを言う前に、彼は素早く白いビニールテープと太い油性ペン、そして鋏を持ってきた。俺が自分の箪笥に物をしまっている横で、彼は彼の箪笥上部に短く切ったテープを貼り、油性ペンで「こうき」と書いた。もう一つの箪笥にも同じものを貼り付け、俺の箪笥に貼る「かずま」の札も、あっという間に作った。
印字したのかと思うほど、綺麗な字だ。
「和真のが一つしかなくて、ごめんよ……」
「俺、服少ないんで。大丈夫っす」
受け取った名札を箪笥に貼り付けながら、俺は答える。
そういえば、大学時代に拓巳と同棲を始めた頃、互いの「服の量」の違いに驚き、二人して笑った記憶がある。あいつは昔から衣裳持ちで、農学部生とは思えないほど洒落た服を何着も持っていた。俺のほうは、私服などというものはほぼ全て「未来の作業着」で、入学式で着たスーツの他は、どれも作業着屋かスーパーの衣料品コーナーで買い漁った安物だった。農業科高校出身の俺は、拓巳のように小洒落た服を着て街で遊ぶ習慣など無く、年がら年じゅうツナギを着て、休日返上で牛馬の世話をする生活が板についていた。
拓巳と付き合うようになって初めて、俺は「トップス」とか「ボトムス」「インナー」「アウター」という単語を覚えた。そして、俺が子どもの頃から ずっと「パーカー」と呼んできたものを あいつが「フーディー」と呼ぶことも、初めは なかなか衝撃的だった。
恒毅さんがテープや鋏をしまいに行く姿を見送りながら、自分にも「楽しい思い出」などというものが在ったことに、少し驚いていた。叫んだり、吐いたりせずにはいられないほどの凄惨な記憶ばかりが蘇り、時には人を殴ってしまう、この自分にも……あんな目に遭う前の、穏やかな日常に関する記憶が残っていた。
しまうべき物を全てしまうと、俺は恒毅さんを探した。とはいえ、この間取りならすぐに見つかる。彼は台所で冷蔵庫の中身を確認していた。俺が後ろから眺めていることには気付かず、庫内をあちこち指さしながら、晩の献立や買うべき物に関する独り言を言っているようだ。ほとんど聞こえないが、状況的に そうとしか思えない。
やがて、ふっと気が遠くなるかのように、全ての音が遠ざかる。この感覚には、もう慣れた。いつもの、幻聴の前ぶれだ。例の【集団】が、俺と恒毅さんの関係を嗤い始めるのだろうか。
(“あの人が、倉ちゃんの新しい彼氏?”)
久方ぶりに聴いた、課長の声だった。
「いや、別に……そんなんじゃ……」
俺は、思わず声を出して応える。電話がかかってきた時のように、出来るだけ恒毅さんから遠ざかる。足早に寝室へ戻る。
(“優しそうな人だね。良かったじゃん”)
彼が優しいのは、間違いない。
(“幸せになりなよ”)
「ち、違うんです!課長!……彼は、友人で……い、いや、もちろん大切な人なんですが……!」
姿が視えるわけでもないし、どこを向いて話せばいいのか分からない。俺は、衝動のままに頭や耳を触り、同じ場所で ぐるぐる回る。
(“都会なら、大丈夫だよ”)
誰にも気付かれず、ひっそりと……仲睦まじく、身を寄せ合って暮らせるだろう。この大都会なら。そして、俺が彼と手を繋いで歩いていても……ただの「障害者と介助者」にしか見えないだろう。
「あ、あの……あの!貴方は、今も『課長』ですか……!?」
俺の問いへの、応えは無かった。
その代わり、すぐ近くで恒毅さんの声がした。
「和真、大丈夫?」
台所に居たはずの彼が この部屋に居るということは、背後で突然 話し始め、スマホすら持たないで「ずっと独りで喋っている」俺を、心配したか、不審に思ったのだろう。
「何かの、イメージトレーニング?」
恒毅さんのことは、決して嫌いではない。しかし……今は、課長との「対話」を邪魔されたくない。正直、少し苛立ってしまう。
それが顔に出ていたのか、俺と目が合った瞬間、恒毅さんの顔が少し険しくなった。俺の意識や精神状態が、いよいよ「危ない」と思ったのか、さっと近寄って俺の左手を握ってから、何度も自分の口を指す。「口元を見ろ」「話を聴け」と、熱心にアピールしてくる。
「和真、具合が悪い?……疲れた?」
何も答えられない自分の、上唇が震え、鼻に皺が寄っていくのが分かる。
「苦しい?」
彼が手話を添えて訊いてくるが、答えられない。息が苦しいとかではなく、この世の誰よりも大切な人との貴重な時間を、中断させられたことが無念で堪らない。この場で「邪魔者」を殴ってしまいたいくらいだが、それを「馬鹿馬鹿しい」「病理的な嫉妬だ」と感じるだけの理性が、まだ俺にも残っている。
理性と、激しい破壊衝動との ぶつかり合いだ。黙って、じっと立っているだけで、精一杯だ。
「僕は、どうすれば良い?」
ひとまず黙っていてほしい。……俺に構うのをやめてほしい。独りにしてくれ。
ぐるぐると残酷な思考が巡って、やっと口に出せた日本語は「風呂に入りたいです」の一言だった。それを聴いた彼は、すぐに「沸かしてくる」と言って居なくなった。
風呂が沸くまでの間、着替えやタオルを準備する俺に、彼は近寄ってこなかった。
あえて時間をかけて湯に浸かり、よく温まった身体で彼と再会した時……旅行先での、ぬくもりや安心感を思い出した。
何事も無かったように野菜を刻んで夕食の準備をしていた彼に、俺は真っ先に謝罪をした。
「すみません……。俺、また、幻聴を……聴いて……」
「もう、止んだ?」
取り乱しました、とまで言いきる前に、彼は雨の話でもするかのような平然とした顔で訊いた。
「……止みました」
「良かった」
同居初日の夕食は、とても良い香りのする味噌煮込みうどんで、俺達はそれを一つの鍋から分け合った。風呂に入ってから、それを食すまでには それなりに時間があり、身体は冷めていたが……熱いものを食えば、やはり再び熱くなる。汗が止まらない。
「和真は、山形の『ひっぱりうどん』を知ってるかい?」
いいえ。と言う代わりに、首を横に振る。
「こんな風に、皆で一つの鍋から うどんを引っ張って食べるんだ」
目の前の うどんを食べながら説明を続ける彼によれば、その郷土料理に使うのは必ず乾麺で、各自の取り皿に入れておく「つけダレ」には、納豆・生卵・ネギ・サバ缶を入れるのが通例だという。
俺は納豆が苦手だ……。
「恒毅さんは、山形出身なんですか?」
「違うよ。僕は新潟の生まれだ」
訊いてしまってから、俺は彼の出身地を思い出した。……俺が何かを「忘れる」のは、いつものことだ。彼も、今更それについて笑ったり、残念そうにしたりしない。同じ事を、何度でも淡々と教えてくれる。
「僕は、今日からは早めに寝ようと思うんだ。……和真は、早寝・早起きでしょう?」
確かに、そうだ。吉岡先生の家で染みついた習慣は、当分 変わらないだろう。あの家から動物園までは遠いから、すっかり「早起き」の癖がついた。
「和真の『推し』は……ヒガシクロサイの、何くん?」
俺が頻繁に見に行くサイ達は、つがいだ。それぞれに名前があって、性格も違う。雌のほうは「リノ」という名で、これまでに2頭の仔を育て上げた立派な母親であり、いつもパートナーの「ライ」に対しては強気だ。角を振るって喧嘩を吹っかけてみたり、時には相方の背に乗駕をしてみたりと、そちらが雄ではないかと思うような行動を よく見かける。逆にライのほうは気性が大人しく、滅多なことでは『鬼嫁』に逆らわないし、あまりに客が多い時には隠れてしまう。それでも、飼育員か常連客にだけは自ら近寄ってきて、挨拶をしてくれる。俺のことも、覚えてくれているようだ。
どちらも可愛い。「一番」は決められない。
俺が質問には答えずに黙々と食べているからといって、恒毅さんは別段「催促」のようなことはしない。
「ゆっくり食べな」
俺には、その何気ない一言が嬉しい。これまでの人生の大半は、上司や先輩、あるいは父に「早く食え!!」と、急かされてばかりだったからだ。
彼となら、どうにか うまくやっていけそうな気がしている。