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小説 「長い旅路」 30

30.彼は今


 特筆すべき事は何も無い、穏やかな日常。この俺が、そんなものを取り戻したのは、何年ぶりだろうか?
 恒毅さんと暮らし始めて1ヵ月も経つ頃には、先生や悠さんに何かを報告・相談しようとも思わなくなってきた。要するに「悩みごと」と云うべきものが無くなったのだ。

 俺は相変わらず、週に2〜3回は動物園に通っている。開園直後の時間帯を狙うため、行く日は早く起きる。それが恒毅さんの出勤日と重なれば、一緒に朝食を摂って彼を仕事に送り出し、自分は動物園に向かう。
 もちろん、どちらか一方が昼まで寝ているような日もある。

 家事は概ね分担制で、食事は基本的に彼が用意して、俺は掃除と洗濯を担当する。俺には「同じ物を何度も大量に買ってしまう」という、障害特性ゆえの悪癖があるので、食材や日用品を買うのは彼に任せている。
 動物園に行こうと、行くまいと、家では毎日どこかしらの掃除をして、必ず洗濯機を回す。家の洗濯機に入りきらない大物があれば、コインランドリーまで洗いに行く。洗濯から乾燥までが終わるのを、そこで漫画や文庫本を読みながら待つのも、なかなか楽しい時間だ。あの空間の、独特の匂いも好きだ。
 無職だからこその自由を、満喫している。

 彼の勤務時間はフルタイムの正社員と大差ないが、休みは不定休だ。今はもうピッキングのアルバイトを辞めて、カット野菜の工場で働いている。仕事終わりは、いつも全身から玉葱の匂いをさせて帰ってきて、真っ先に風呂に入る。職場では、毎日「玉葱に泣かされている」という。
 しかし、食品を扱う会社に入ったことで、賞味期限が迫った加工品や、単なる「印字ミス」によって出荷できなくなった調味料を、貰って帰ることができるようになった。



 その日、何故か彼は目を見張るほどの高級鶏卵を持って帰ってきた。6個入で2000円弱、1個あたり400円近いものだという。
「どうしたんすか?こんなの……」
「僕はもう、安い卵を買うのはやめたんだ」
そう言って、得意げに胸を張ってみせた。
「卵の値段を下げるには……限界までコストを削減して、親鶏を『虐待』するしかないんでしょ?……狭い所に押し込めて、粗末な餌をやってさ。掃除なんか誰もしないような汚い所で、皆バタバタ死んでいくんでしょ?」
 俺は、そんなことまで話しただろうか?それとも、彼自身が自主的に調べたのだろうか。
「働く人のことも、限界まで虐げるんでしょ?……そんな会社の商品は、絶対に買いたくないね。潰れてしまえば良いのさ」
 俺も、全く同じ意見だ。

 風呂から上がった彼は、髪も乾ききらないうちに、買ったばかりの高級卵でオムレツを作り始めた。炒飯を作る姿も様になっていたが、オムレツ作りも巧かった。
 彼が台所で腕をふるう姿を、見物するのは楽しい。

 料理が全て揃ったら、いつものように横並びに座って食事をする。
 本来の習性を尊重され、大切に飼われた鶏達が産んだ卵は、最高に美味かった。(味覚など ほぼ失われている俺は、匂いと食感の良し悪しを判断する他は無いのだが。)
 温かいうちに食べたのが、尚良かったのだろう。
「和真、そんなに がっついて大丈夫?」
こんなに軟らかいものを、執拗に噛み砕く必要は無いだろう。
「……気に入ってもらえて良かったよ」
彼も、満足げに自分のオムレツを食べている。一口食べるごとにスプーンを皿に置き、口の中のものを、じっくりと味わっているようだ。
「こういう卵は、良いねぇ。人を幸せにするよ」
彼が幸せに浸っている間に、俺はもう自分の皿を空にした。
「ところでさぁ、和真。例の『課長さん』のことなんだけどね」
初日の一件が脳裏をよぎる。何を言われるのだろうかと、思わず身構えた。
「手紙を送ってみたら、どうかな?」
感謝を伝える手紙か!……考えもしなかった。
「で、でも……まだ、在籍しているかどうか……」
「僕が会社に電話して、訊いてあげようか?」
どうして、そうも積極的なのだ!!
 しかし、思い返せば彼との出逢いは、彼による「ナンパ」だ。彼は、元から そういう人だ……。

 食事と後片付けが終わった後、困惑する俺をよそに、彼はスマホを取り出して「とにかく調べてみよう」と言いだした。確かに、真田課長がまだ在籍しているかどうかより、まずは「農場そのものが、まだ存続しているか」を確認する必要がある。
 あの忌まわしい農場名を彼に伝え、検索してもらったら、いとも簡単に電話番号が判った。所在地からして、あそこに間違いない。
「明日の昼休みにでも、かけてみるよ」
彼は、非常に乗り気だ。

 翌日、俺は朝から気が気ではなかった。どうにか心を落ち着けるためサイを見に行き、そこで、ノートに言葉を書き出していた。もし、本当にあの「真田隆一さん」が まだあそこに在籍していて、手紙を出すことが許されたら…………俺は、多大なる感謝の他には、何を書けばいいのだろう?
 俺を愚弄した連中も、一部はまだ在籍しているだろう。そいつらが目にするかもしれない手紙に【本心】を書くなど……危険すぎる。
(封筒に『親展』と書けば、彼は独りで読んでくれるだろうか……?)

 静かな場所で集中して文面を考えるために、俺はサイを見た後、いつもの牛タン屋で定食を食ってから、図書館へ足を運んだ。
 空調の効いた涼しい場所で、空いている机を探して陣取り、受験生らしき若者達に混じって、汚れたノートに拙い字を書き続けた。まだ手紙の「下書き」と呼べる状態ではなく、単なる「マインドマッピング」だ。
 現在の身体状況と、どうにか再就職を果たしたこと、そして何より「今の自分が、どれだけ人に恵まれているか」を、彼には伝えたかった。やっと見つけた仕事をすぐに辞めてしまったことは、書かないでおこうと思った。

 帰宅後。額に汗を滲ませながら、一人で居間や寝室を掃除していると、恒毅さんが少し早めに帰ってきた。……疲れているのか、元気が無いように見えた。
 彼は、いつも通りシャワーを浴びた後、きちんと服を着てから、やけに改まった様子で俺のところへ来た。俺は、掃除を終えて居間の扇風機の前で涼んでいた。
 彼は俺の隣に正座し、いかにも「大事な話がある」と言いたげだった。俺は、そのまま胡座をかいて風に当たっていた。
 彼の口が、動きだす。
「真田さんは……亡くなったそうだよ」
「……亡くなった?」
彼は、頷いている。……聴き間違いではないらしい。
「いつですか?」
「先月……」
「事故ですか……?」
「それは分からない。詳しいことは『ご遺族の了承無しに、教えることは出来ない』って……」
彼は、どうやら真に受けている。
 しかし、俺は その情報を欠片も信じることが出来ない。怒りがこみ上げるばかりである。
「俺が二度と接触しないように、嘘を言ったんだ!!」
「えっ……そんな悪質なこと、する?」
「相手は!鶏をゴミのように扱って、人だって平気で殺すような連中ですよ!!嘘なんか朝飯前だ!!」
連中からすれば、この俺が「まだ生きていて、当時のことを鮮明に憶えている」というだけで、気に食わないだろう。今度こそ本当に消してやりたいくらいだろう。
「落ち着いて、和真。ショックなのは解るけど……」
「俺は、行きます!あそこに!今からでも!!」
「な、何言ってるんだよ!?」
「本当に彼が亡くなったのか、だとしたら理由は何なのか、確かめに行きます!!」
「行って、どうするのさ!!?部外者は中まで入れないだろ?」
「寮に、顔見知りが住んでるはずです。……そいつを ぶん殴ってでも、聴き出します」
「やめなよ、そんなこと!」

 その後、恒毅さんとは日付が変わる頃まで言い争った。俺は「夜が明けたら現地へ向かう!」と宣言して眠剤を飲んだが、高ぶった神経は休まらず、そういう時のための頓服薬を追加で飲んでみても、やはり駄目だった。
 ため息や寝返りばかりを繰り返す俺の横では、彼もなかなか寝つけないようだった。しかし、彼は何も言わず、普段のように身体に触れてくることも無かった。


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【31.凶報の真偽】
https://note.com/mokkei4486/n/nc5a2642bf37c

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