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小説 「僕と彼らの裏話」 44

44.彼の決断

 社長が先生宅を訪問した日から、一週間以上は経過した。
 その日は、インターホンを押しても応答が無く、僕は合鍵を使って先生宅に入った。とはいえ、そんなことは別段珍しくはない。先生が散歩から戻っていない上に彼がまだ寝ているとか、あるいはゲームに夢中であるというのは、前々から よくあることだ。
 今日は、玄関にある靴を見る限り、お二人とも ご在宅のようだ。

 僕が【異変】に気付いたのは、2階のリビングに立ち入った瞬間だった。先生一人だけがそこに立っていて……無惨にも床に倒されたテレビの前で、荒々しい息をしている。
(えっ……!!?)
 何が起こったのか分析をするいとまも無く、先生は短い髪を両手で掴み、誰も居ない空間に向かって叫び始めた。
「よくも……よくも、私を虚仮こけにしたな!!」
腹の底から怒りが こみ上げているような、震えを伴った涙声で、どうやら【彼】のものではなさそうだ。
「……先生、おはようございます」
僕は、努めて冷静に声をかける。お決まりの「出勤の挨拶」をする。
 しかし、先生は いつものように「おはよう」と返してはくれない。
「私は……毎日、大学病院に通っていたのに……誰一人として、病人わたしを気にかけなかったじゃないか!!」
ひとまず、僕の存在には気付いてくれたようで、先生は真っ赤な眼で、まっすぐに僕を見ている。髪から手を離し、つばきを飛ばしながら、思いの丈を僕に ぶつける。
 僕は、黙って傾聴する。
 悠介さんのために病院へ赴く頻度が高くなり、研究員だった頃の忌まわしい記憶が蘇る頻度も、高くなっているのだろう……。(そして、今回の『暴走』の引き金は、テレビに映った「何か」なのだろう。)
 今の先生は、赦しがたい過去に対する激しい【憤り】で、頭が一杯だ。
 僕は話に耳を傾けながら、あえて何も言わず、テレビに繋がるテーブルタップをコンセントから抜いた。
「先生。朝ごはんは……食べられましたか?」
何故そんな事を訊くんだ!?と言わんばかりの表情で、先生は僕を睨む。
「紅茶か、何か……お淹れしましょうか?」
先生は、殺気走った目つきで眼球を激しく動かし、僕の姿と、ご自分で ひっくり返したテレビを、交互に何度も見る。
 やがて、立ち尽くしたまま、テレビだけを茫然と眺め始めた。今やっと我に帰り、自身の暴挙に気付いたのだろう。
「ひとまず、お座りください」
テレビから離れた場所にある、いつもなら僕が座る位置にある座布団を薦めた。放心しつつある先生の、背中に手を添えて、そこまで ご案内する。
 先生は素直に応じ、座布団に座ってくれた。僕も、すぐ側に膝を着く。
「また……『頭の中が、うるさい』のではないですか?」
「あぁ……そうだな……」
「何か、飲みたい物はありますか?」
「……水が飲みたい。冷たい水……」
「わかりました。すぐ お持ちします」

 水を飲んで人心地がついたらしい先生は、がっくりと肩を落とし、力無く「すまない……」と言った。僕は「とんでもないです」と応じる。
「熱、測りますか?」
「いや……もう大丈夫だと思うよ」

 僕は自分の荷物を所定の棚にしまってから、テレビを ひとまず起こし、元の場所に戻した。液晶画面がバキバキに割れていて、電源を入れて確認するまでもなく「もう映らない」と判る。先生も「買い換えるしかないね……」と、ため息まじりに言った。
「ところで、先生……悠介さんは、どこに居ますか?」
「まだ、上で寝ている。今日は ずっと、起きるのを渋っているんだ。……少し、熱がある」
「僕が、上まで様子を見に行ってもいいですか?」
「私も一緒に行く」

 先生の後について寝室に立ち入ると、彼はまだ布団の中に居た。(先生の布団は、既に畳まれている。)
 カーテンは全開で、日光は充分に入っている。眩しいくらいだ。
「悠介。坂元くんが来たよ」
 枕元まで行った先生の声に、彼は目を開けたけれど、起きあがろうとはしない。
「そろそろ11時になるよ。起きるか?」
「んー……う、う…………ぐあっ……あぁ……」
彼の応えは、乳幼児の喃語のような、あるいは酔っ払いの唸り声のような……言葉になりきらない声だけだった。
 それでも、先生は彼の その声を「挨拶」と認めたのか、笑顔で「おはよう」と応じ、彼の枕元にあった体温計を拾い上げて電源を入れ、それを腋に挟むよう彼に促した。
 僕は、彼に挨拶をした後、寝室内に転がっている空のペットボトルを回収する。

 彼は確かに熱発していて、体温は37.6℃ある。
「今日は、お散歩やめましょう」
「それが良いね」
先生は、電源を切った体温計を元の場所に戻し、彼に「少しは、何か食べたほうが良い」と言って、改めて起床を促した。
 しかし、彼は頑として頭を起こさない。いかにも苦しそうな表情と息づかいで、先生に牙をむいているようにさえ見える。
「……わかった。ごめんな」
先生は、そう言って彼の肩を優しく叩き、それ以上は「起きる」ということに言及しなかった。


 僕らは、彼を残して2階に下りた。先生は、その後すぐ「昼食は要らない」と言い残して散歩に出かけ、僕は彼のために冷たい茶を水筒に詰めて、寝室へ届けた。
 彼がスポーツドリンクを好むのは知っているけれど、糖分の摂りすぎは心臓に良くない。

 僕は、自分一人の昼食だからと、台所にあったカップ麺で済ませることにした。
 15分かそこらでエコバッグを提げて帰ってきた先生は、リビングの定位置に腰を下ろし、買ってきたばかりのコーラを開栓した。そして、それは僕の分もあった。(この先生が炭酸飲料を買うというのは、珍しい。更には、空きっ腹に そんな物をあおるのは、らしくない。)
 僕はカップ麺を平らげた後も、そのまま先生の側に居るために、さっそくコーラを頂くことにした。せっかくなので、もともと買ってあったポテトチップスを棚から出してきて、それを2人で食べることを提案した。僕はカップ麺だけでは物足りなかったし、先生には、何か少しでも固形物を食べてほしかった。
 ペットボトルを片手に、もう映らないテレビを眺めながら、先生が言った。
「私は……ろくでもない妻だ」
「そんなことはありません」
「君の奥様は、衝動的にテレビを破壊したり、椅子で旧友をボコボコにしたり……しないだろう?」
「僕は、これほど長く献身的に、悠介さんの看病をされている先生を……『ろくでもない』とは思いません」
「…………君も、随分と岩くんに似てきたね」
「恐れ入ります」

 その後、僕らは粗大ゴミの出し方や、電器屋で新しいテレビを買う時のことについて話し合った。
 先生は、体調が良くないためか、執筆をする部屋に下りようとはしない。
 パソコンを使う執筆は疲れるし、書き手の体調は、文章の内容に大きく影響する。誰にでも、休むべき日はある。
 先生は、僕や社長と同じように、いつも素手でポテトチップスを食べる。一袋を完食した後は、指先を ごく自然な所作で平然と舐める。そして、速やかに台所まで手を洗いに行く。(僕は大抵ティッシュで手先を拭くのみである。)
 手を洗って戻ってきた先生が、まったく違う話をし始めた。
「悠介は……社長が訪ねてきた日に『辞めさせてください』と申し出たんだ」
「口頭で、ですか……?」
「まぁ、そうだね。書類は、これからだ」
彼が、辞める……。非常に大きな決断だ。そのくらいは、僕でも解る。
「それからは、毎晩……前みたく『夜泣き』をするようになった……」
眠剤を飲んで就寝しているはずの彼が、真夜中に突然 布団の中で泣き出し、夜が明けるまで震えていることもあるのだと……5年ほど前にも、聴いたことがある。
 そんな時、先生は必ず落ち着くまで寄り添って宥めてやるのだということを、僕は知っている。
「先生は……睡眠不足ではありませんか?」
「そうかもしれない。……だが、仕方ない」
先生は彫りの深い顔立ちだから、クマがあろうと無かろうと、目の下は暗い色に見えがちだ。今だって、そうだ。
「今、いちばん苦しんでいるのは彼だ。だから私は……彼を責めない。そう決めている」
 自身の睡眠時間を削ってでも、病身の家族に寄り添う。こんな先生が「ろくでもない」はずがない。
「私は、もう……彼の心臓が動いてさえいれば、満足なんだ。働けるかどうかなんて、関係ない。……金なんてものは、私と弟が、どうにでもしてやる」
 この先生の「他者の、存在そのものを肯定する」という姿勢は、本当に素晴らしい。そして、僕も、そんな先生に救われたからこそ、今も こうして此処に居る。


 結局、彼は その日、飲料以外のものは何も口にしなかった。僕らとしても、無理強いしてまで何かを食べさせたくはなかったから、温めた牛乳とか、常温の野菜ジュースとか、少しでも栄養価の高いものを、何度でも3階に運んだ。
 先生は、名刺の半分くらいの大きさに切った画用紙の、一枚一枚に「おかゆ」とか「アイス」とか「プリン」「そうめん」「うどん」といった思いつく限りの食品の名前を書いて、お手製の『食券』を作り、それをプラスチック製の小物入れに わんさか入れて、「食べたくなったら渡してくれ」と言って、彼に渡していた。そこには、白紙とボールペンも一緒に入れてあって、彼が自分で食べたい物を書くことも出来るようにしてあった。

 彼が、それに「しょうゆラーメン」と書いて渡してくるのは、もう少し先の話である。


次のエピソード
【45.暗雲】
https://note.com/mokkei4486/n/n879f7c77858d

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