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小説 「僕と彼らの裏話」 35

35.篤志の継承者

 僕は町工場での勤務を、概ね順調に続けていた。暑さの中、電車で通うしかなかったけれど、現場で与えられる仕事は、むしろ僕に安心感や自己肯定感を もたらしてくれる。
 新しい習い事でも始めたような気分になって、仕事を終えて帰宅するたびに、次の出勤日が楽しみになる……不思議な場所だった。
 僕は、1ヵ月ほどかけて様子を見ながら、夜間の3時間のみだった勤務を、日によっては昼から終業までの7〜8時間にまで延ばすことが出来た。
 そこまで勤務時間が延びれば、他の従業員達に混じって夕食を摂る機会も たびたびあった。(事務所の2階は、更衣室と食堂になっている。大きめの流し台がある食堂とは別に、簡素な給湯室もある。)
 コンロは無いので「まかない」は出てこないけれど、食堂には流し台の他に、従業員ならば自由に使える冷蔵庫と電子レンジ、ポットが複数台ずつあって、持参した弁当やカップ麺を そこで保管・加熱または調理して、食べることが出来る。

 僕は、努めて常務と共に夕食を摂ることにしていた。主として僕に指示を出すのは彼であり、僕が彼に訊かなければならないことは山ほどあったからだ。
 勤務時間が『前半』の社員なら9時〜17時半、『後半』ならば13〜20時半が【定時】という規定になっている。とはいえ、残業や早出は当たり前だし、常務と社長だけは朝一から終業まで会社に居る。
 朝から居る『前半組』としての定時を過ぎた後、夜間の仕事に備えて、彼らには30分の食事休憩がある。
 僕は、その時間帯には手が空くよう計算して、日々の業務に臨んでいた。

 その日も、僕は常務と共に食堂の隅にあるテーブルに向かい合わせに陣取り、それぞれがタッパーに入った自作の弁当を食べていた。お互いの おかずを褒め合う時間が、ささやかな楽しみでもある。
 他にも食事をしている人は居るけれど、誰も僕らには近寄ってこない。皆、短い時間のうちに完食し、自分の仕事に備えるだけだ。
 
 工場長は【武闘派】とでも言うべき熱血漢だけれど、常務は温厚な方だ。彼が怒っている姿など見たことがない。また、いつ何を訊いても冷静かつ丁寧に教えてくれるし、常に僕の体調を気遣ってくれる。
 彼によって課せられる仕事の量も、極めて良心的だ。僕は此処に通い始めてから一度も吐いていないし、勤務時間の延長を命じられたことも無い。延長したのは、僕自身の意思だ。
 弁当を食べながら、僕は過去に勤務した工場での「ポンコツぶり」を端的に話した。そして、いかに今の状況に対して感謝しているかを率直に述べた。
 常務の応えは、社長と同じだった。
「うちで、そんなことはさせないよ」
 彼は、箸を手にしたまま語りだす。
「人はモノではないから……怪我や病気させて【使い捨て】にしたら、バチが当たるよ。会社の評判が落ちて、人が来なくなったら……納期や品質を守ることも出来なくなって、いずれ仕事が来なくなる」
至ってシンプルな理念だけれど、すごく大事なことだ。
「吉岡ちゃんから何を聴いてきたか知らないけど……僕は、西島さんみたいにスパルタじゃないから。あんなスポ根漫画みたいな やり方はしないよ」
「工場長は、スパルタだったんですか?」
「なんだ、知らないのか。そりゃあ、もう……凄いよ?
 女の子が泣きながら震えてるのに、容赦なく淡々と、教える、教える、教える…………見てる こっちが泣きそうになるよ」
その「女の子」というのは、社長に違いない。彼女が【経営者】だからこその厳しい指導が、必ず在るはずだ。
「よくもまぁ、あんな『鬼教官』に、喰らいついていくよねぇ。直ちゃんにしろ、吉岡ちゃんにしろ……」
若き日の先生も、工場長に泣かされていたのか。


 食事を終え、持ち場に戻る。入り口近くの事務机の上に、図面が添えられたゴム板や円柱形の樹脂が増えている。要するに、僕がすべき新しい仕事がやってきたのだ。
 しかし、それらの加工に必要な刃が、この部屋には無い。下まで借りに行かなければならない。

 僕の探し物は、社長が使っていた。
 その旨を常務に伝えると、彼は いともあっさりと社長に機械を止めさせ、優先すべき品目や、刃物の在庫・整備状況について彼女に問い質した。
 どうやら、社長と、僕の持ち場に素材を運んだ従業員の間で、伝達ミスがあったらしい。
 3人で相談した結果、社長が造っていた品目を僕が引き受けることになった。僕は、その場で社長とバトンタッチをする気でいたけれど、彼女は何の迷いも無く刃物と造りかけの製品を箱にまとめ、2階の、僕が居た部屋に運んでしまった。
 動きが、とにかく速い。何か特別な訓練を受けた兵士のような洗練された動きと、男性に匹敵する筋力である。僕が彼女と競走をすれば負けるだろうし、握力だって敵わないかもしれない。


 退勤の時間が迫ってきたので、僕は後片付けをして1階に向かう。階段を下りながら機械場全体を見渡すのが、独りで居る時間の長い僕にとっては重要な「情報源」だったから、いつしか習慣になっていた。
 今、現場には重役2人の他には誰も居ない。各自が黙々と旋盤に向かい、機械の作動音のみが響いている。
 僕は、その光景を「美しい」と思った。何か厳かな儀式が行われている、神聖な場所であるかのような気さえした。
 彼らは誰よりも早く出社し、誰よりも遅くまで頑張っている。手や顔を真っ黒にして、汗と粉塵と機械油に まみれながら、自社の売上を伸ばし、何よりも大切な人件費を確保するため、骨身を削っているのだ。

 僕は思わず踊り場で足を止め、しばらく 社長の姿から目が離せなかった。勤務先で他者の体をまじまじと見るのは「不適切」だと解っているけれど、この時ばかりは、僕は そのたいさばきと肉体美に見惚れてしまっていた。
 同時に、悠介さんが この社長を心から尊敬し、彼女の【忠臣】として、倒れるほど頑張ってしまった心理が……少し解る気がした。
 このリーダーは、本当に かっこいい。一人の職業人としての魅力に「惚れて」しまう人は、少なくないだろう。

 僕は、本来の目的を遂行すべく、階段を下りていって社長に声をかけた。
 彼女は「もう、そんな時間ですか!?」と驚いた後、僕に「一緒に帰りますか?」と問うた。それは車で送ってもらうことを意味するので、丁重に お断りしようとしたら、彼女は「本来なら勤務時間内にでも面談をしたいくらいだから」と言い、僕はそれを「呼び出しを受けた」と捉えた。


 僕は現場の隅にある水道で入念に両腕と顔を洗ってから、着替えに行った。
 社長も、同じように腕や顔を洗ってきたようだ。2人で車に乗った時、同じ石鹸の匂いがした。

 彼女には専務というパートナーが居るし、僕にだって婚約者が居る。そんな関係性で、2人して同じ車に乗ったら、僕の かつての勤務先なら「浮気だ」「不倫だ」と、妙な噂が立ったかもしれない。
 しかし、此処は そんな幼稚な会社ではない。

 普段は長い髪を後ろで一つに束ねている社長は、運転する時には必ず下ろす。座席のヘッドレストに当たって邪魔だからである。
 取り払ったヘアゴムを手首に はめて、鞄を後部座席に放り込んで、エンジンをかける。やはり洋楽が流れ出すのだけれど、彼女は即座に音量を下げる。

 この社長は、左手の中指・薬指の先が欠けている。大学生だった頃、現場で回転中のエンドミルに向けて、うっかり手を突っ込んでしまったという。「その時は、疲れていて眠かった」「止まっているように見えた」のだといい、彼女は事あるごとに「私みたいなことに ならないように」という言い回しを使って、健康や安全に関する忠告をしてくれる。
 しかし、彼女の手の形など、普段は誰もが忘れている。

 彼女は、疲れてはいるけれど達成感に溢れた様子で、アームレストに片肘を置いて、悠々と運転し始めた。
 僕の仕事ぶりについて「出来上がる物を見る限り体調は良さそうだけれど、無理をしてはいないか?」と、気遣ってくれた。
 僕は、馬鹿正直に「楽しいから張り切っている」「いつも、休み明けが楽しみで仕方ない」と告げた。
 彼女は、朗らかに笑った。
「私としては、何よりも嬉しい評価です!……ただ、無理だけはしないでください。大事な時期に、大きな怪我をしないように……」
彼女は、僕が結婚を控えていることを知っている。
 僕は「恐れ入ります」「気をつけます」と頭を下げた後「社長も、ご無理なさらないでください」と応じた。彼女と常務の労働時間の長さは、尋常ではないからだ。
「社長だって『大事な時期』でしょう?」
「私達は……このまま『事実婚』で終わるかもしれません」
「そうなんですか?」
「お互いに『苗字を変えたくない』と、譲らないので……」
「そうでしたか……」

 僕を降ろす場所までの道順は、すっかり頭に入っているらしい。外は真っ暗だけれど、社長の運転操作に迷いは無い。
「私は……どこで何がどうなろうと、仕事を投げ出すわけにはいきません。【社長】ですから」
確かに、そうだろう。
「そのためにも……彼は、非常に重要な『ビジネスパートナー』でした。家のことも、彼の協力があるからこそ、成り立っているのです」
専務のことか。
「しかし……彼は、私の【計画】に異を唱え、更には複数の社員を『然るべき専門家に託すべきだ』などと言って、排除しようとしています」
「……計画というのは、どのようなものですか?」
「私は……弊社の子会社として【福祉作業所】を立ち上げるつもりでした。あの『小型機の部屋』は、そのために造りました」
僕は あまり詳しくない分野だけれど、若き日の吉岡先生が、そのような名称の所に在籍していたことは知っている。
「何らかの障碍や疾患があって一般就労が難しい方々に『職業訓練』の場を提供する会社を創って……まずは、あの部屋で機械操作の基礎を学んでいただいた後、親会社の障害者枠で採用するも良し、本人が希望する他社へ送り出すも良し……と、そんなことを、考えていました」
僕には、それは非常に合理的かつ有意義な計画に思えた。
「しかし……実際に小型機まで買い揃えた段階になって、専務は『反対』を主張し始めました」
「何故ですか?」
「……『資金繰り』の問題です」
僕は、何も言えない。
 国の経済状況が良くない以上、致し方のないことだろう。
「非常に悔しいのですが……新しい会社を創るよりは、3Dプリンターを1台買うほうが『経済的』なのです……!」
その、少年のような声には確かに「怒り」が込もっているけれど、運転に乱れは無い。
「今は難しくても……いつか、実現できる日が来るかもしれません」
僕は、あえて前向きな言葉を口にした。
「それなら良いのですが……」
ため息をついた社長に、僕は衝動的に本心を告げた。
「僕は……従業員を、利益を上げるための『駒』ではなくて、きちんと……【生きた人間】として尊重する御社は、とても素晴らしいと思います」
「……私達は、人間として至極 当たり前のことをしているつもりです」
そんなことはない。現代の会社経営者としては、稀有な思想の持ち主ではなかろうか。
「生きた人間を……『無闇に死なせるべきではない』だなんて、至極 当たり前の考え方ではありませんか」
僕も、それが「当たり前」であることを切に願うけれど……それを恒久的に実践し続けるのは、おそらく至難の業である。
「他社で【地獄】を見た人や、家にも学校にも【居場所】の無い学生さんが……それでも生きるために逃げ込む場所として、弊社を選んでくれた時……私は、とても『誇らしい』と感じます。だからこそ、この場所を『無くすわけにはいかない』と、強く想います」
 彼女も 立派な「篤志家」だと、僕は思う。


 いつものコンビニで降ろしてもらった後、約8時間ぶりに自分のスマートフォンに触れた。見慣れない番号からの着信が、無数に入っている。初めは「気味が悪い」とさえ思ったけれど、留守電を聴くと「新居のリフォーム完了」の報せで、僕は屋外だというのに「よし!!」と声を あげた。


次のエピソード
【36.来たるべき日のために】
https://note.com/mokkei4486/n/n2a26c83160dc

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