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小説 「長い旅路」 13

13.脱出

 この日も、俺は朝からサイを見ていた。
 あの作業所を辞めてからは、一切「仕事探し」をしていない。連日の幻聴の影響か、今はもう「自分は、どこに在籍しても【人間扱い】されない」「自分には【人権】など無い」としか思えず、無理を押してまで「働こう」という気が起きない。
 同じ「幻聴」でも、課長の声が聴けたら、内容は どうであれ、幸せだ。再会できたような気になる。だが、俺の幻聴の大半はかつての心無い同僚達の声か、得体の知れない不快な声で、自分を罵倒し、非難する内容だ。退院後しばらくは落ち着いていたが、退職のことを父に責められ続けている影響か、最近また「仕事を辞めたこと」や「消化器の症状」について、頭の中の連中に、ずっと嗤われている。
(“あいつ、トイレ行き過ぎじゃない……?”)
(“死ぬまで精神病院に入ってればいいのに!!”)
(“もはや『ゴミ』だよね”)
(“あれが豚なら【淘汰】するよね”)
(“鉄パイプで、頭を叩き割るんでしょ?”)
 通院先の医師やカウンセラーに、幻聴の内容までは話したことがない。「頭の中で、人の笑い声がする」とか「パワハラを受けていた当時の記憶が、ずっと消えない」とか、そんな言い方しか出来ない。
 俺は……自身が同性愛者であり、それを理由に「死ぬほどの差別を受けた」ということを、医療者を含め、誰にも話していない。
 本来であれば、それは【犯罪】で、加害者達は逮捕されなければ おかしいのだが……母にそれを知られ、万が一【拒絶】されたら、俺は いよいよ居場所を失う。(少なくとも、父は間違いなく俺を見限るだろう。)
 いずれにせよ、今の我が家には訴訟など起こす金は無いし、相手は、あの非道な殺戮業者だ。遺書という【物証】は破棄されているし、俺個人には、おそらく勝ち目は無い。あそこは自社の利益と存続のためなら、いくらでも事実を揉み消し、何千人でも平気で殺すだろう。実際に生命までは奪わずとも……再就職が不可能になるほど使い倒すか、吊し上げて社会的に殺し、何度でも、その個人の【尊厳】を踏み躙るだろう。
 一度でも関われば、誰もが人生を破壊され不幸になる……『悪の組織』だ。そして、あの惨状が【合法】である限り、この国は信用に値しない。


 勤務先の経営状況が良くないとかで、父の手取りは減っている。だからこそ、母はパートの出勤日数を増やして頑張っている。俺だって、年金を家計に入れている。
 今ここで、無理をして働いたら、むしろ治療費が嵩んで赤字が大きくなるだろう。
 今は「働かない」のが賢明だ……。

 今日は、父が休みの日だ。
 自分が帰宅してから、母が仕事から帰ってくるまでの間に、酒に酔った父から【説教】を受けた。食卓のところに呼びつけられ、似たような話を くどくどと聴かされながら、お決まりの罵声を浴びせられた。
 父は、無職の分際で仕事探しもせずに外食ばかりしている俺が気に食わないらしく、俺は、顔を合わせるたびに怒鳴られている。
「あんな、すぐに辞めやがって!!」
自分が見つけてきた作業所を、一ヵ月かそこらで辞めたことも、気に食わないらしい。
「何のために、大学まで行かせたと思ってるんだ!!!」
(【高給取り】にさせるためだろう?……だから、何だ)
今の この身体では『最賃』が頂ければ御の字なのだ。残念ながら、俺は未来永劫【高給取り】には成れないだろう。
 父は、食卓をぶっ叩きながら、ひたすら怒鳴る。何を言っているのか、もはや判らない。

 俺は黙って立ち上がり、そのまま自室に引っ込んで財布を探し出したら、上着を着て外に出た。
 父を避けて時間を潰すために、最寄りのコンビニまで歩く。(結局、スニーカーは買い換えていない。)


 コンビニで漫画雑誌の棚を見たが、どれもテープが貼られていて立読みは出来ない。残念だ。
「あれ?……倉本くんだよね?」
見ず知らずの客に、突然 声をかけられた。
 背は高く、180cmくらい ありそうだ。新品同様の綺麗な作業着を着て、眼鏡をかけた、ごく若い男性か……化粧っ気の無い、壮年の女性か……よく判らない。どちらにも見える。少なくとも、ひげは無い。
「動物園で会ったの、憶えてる?」
すごく、はっきりとして聴き取りやすい声に、更には『手話』と思しき動きを添えてくれる。この人は、俺が難聴だと知っている……ということだろうか。
「体調は、良くなった?」
目尻に いくつも皺が見えて、母より少し若いくらいの、女性のような気がしてきた。
「私は、『吉岡よしおか りょう』といいます」
「……あ!」
財布に入っていた名刺の人だ。あれは、動物園で受け取ったのか……。全く、覚えが無い。
 俺は、財布を取り出し、中の名刺を見せた。
「そう!それ……私が入れた!私が、救急車を頼んだ」
(あ、貴方が……救急車を……?)
数回 頭を下げてから、名刺を財布に戻した。
「あ、あ、ありがとうございます……」
絵本作家の吉岡先生は、少年漫画でよく見るような屈託のない笑顔で「元気になって、良かった!」と言ってくれた。
 父に怒鳴られた直後であるためか、その優しさが、心に染みた。
 図らずも、涙が出てきてしまって……止まらなかった。

 吉岡先生は、玄さんの友人らしい。そして、彼も同じコンビニの中に居た。この2人が何故ここに居るのか、俺には解らない。
 玄さんは「一緒に食べようよ!」と言って、3人分の食料や飲み物と、ティッシュを一箱、気前よく買ってくれた。
 彼がスマホで探し出した公園まで歩き、そこで食べることになった。

 すっかり日が暮れて、人気ひとけの無い公園で、時計を照らす照明だけが光っている。簡素な屋根の下にベンチがあって、そこに並んで座る。俺は、真ん中だ。
 玄さんが買ってくれた惣菜パンは、美味かった。味は判らなくとも、彼の親切心が嬉しかったし、すごく良い匂いがした。野良犬が拾ったパンを貪り喰うかのように、ガツガツと3個も食ってから、ペットボトル入りのコーヒーを飲み干した。
 腹が膨れて人心地が ついたら、涙は止まった。
「また、毎日サイを見てるの?」
玄さんに問われ、俺は頷いた。
「よっぽど好きなんだね……どこが好き?」
「え……」
何と答えよう?
「食欲、ですかね……?」
俺の答えを聴いた玄さんは、声をあげて笑った。
「食欲!?……サイの、食欲に惹かれているの!?」
「見ると……自分も、食欲が湧いてきます」
玄さんは、さも可笑しそうに、ふんぞり返って笑っているが、吉岡先生は至って真面目な声で「わかるよ」と言ってくれた。
「野菜が食べたくなるよね」
「は、はい……」
動物が主役の絵本を描いている人だというから、気が合うかもしれない。
「ところで……君は、ご両親と暮らしているの?」
「……はい」
先生は、いつの間にか手話を使わなくなった。
「兄弟は?」
「居ません」
「玄ちゃんから聴いたのだけれども……お父さんと、仲が悪いのかい?」
「……良くない、ですね」
「殴られたり、する?」
「たまに……」
「そういう時は、やり返す?」
「いいえ。……面倒で……無視、します」
「……『家に帰りたくない』と思ったら、いつでも連絡しておいで。家に泊めてあげるよ」
「え……!?」
初対面に等しいのに、どうして、そこまで気にかけてくれるのだろう?玄さんから、何かを聴いているのだろうか……?
「家に居て、ちゃんと ごはん食べられる?」
「…………いいえ」
「作るのは誰?」
「母、が……つ、つ、作って……で、でも、僕は、3人で食べるのが、嫌で……嫌で……」
妙に、言葉がつっかえてしまう。やがて、身体が震えだす。
「食べた気が、しない。……何を食べても、苦くて……よく、は、は、吐いて……」
「そうか……困ったね」
もはや「丁寧語」を最後まで言い切ることが出来ない。それでも、先生は動じない。
 俺の異変に気付いたためか、玄さんが背中を さすってくれた。

 この2人になら、本音が言える気がした。
「僕、僕……本当は、家を、出たい。けど……働くのが、怖くて……」
「作業所も、怖くて辞めたの?」
吉岡先生が訊いた。
「僕、たぶん……どこに行っても、虐められて……殺、されます……」
「殺しはしないだろう……」
そんなことはない。この世には、平気で在籍中の人材を死なせる会社が、在るのだ。
 震えが止まらない。
 玄さんは、ずっと背中を さすってくれている。大きな身体に反して、その手は とても優しい。
 
 やがて震えが治まり、俺が「そろそろ、帰ります……」と言うと、彼の手も止まった。
 立ち上がると、先生に呼び止められた。
「明日にでも、一緒にサイを見に行こうよ。現地集合で……どうだい?」
俺には、それが『脱獄の誘い』に思えた。【自由】と【人間らしさ】のために……今いる場所から、逃げるのだ。
「…………行きます。僕、行きます。明日」
「わかった。待ってる」
 俺は、彼らに深々と頭を下げてから、家に向かって歩き出した。


 俺は、決めた。明日、サイを見た後……自分の家には帰らない。

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【14.先生の家】
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