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小説 「僕と先生の話」 22

22.戦場へ

 僕が1階に降りるまでの間に、着信音は止まった。それでも、僕は応接室に居る先生にスマートフォンを届け、善治の勤務先から電話があったことを知らせた。
 先生は「わかった。ありがとう」とだけ言い、すぐに折り返しの電話をかけた。
 寝室に立ち入ったことについては、何も言われなかった。

 先生が電話で話している間、僕は自分が散らかした資料室を元通りにしてから、退勤の準備をした。

 帰り際、先生に呼び止められた。
「部長さんの行方が、分からないらしい」
「えっ……!?」
善治が敬愛している部長が、退職代行を使って突然退職し、自宅にスマートフォンを残したまま、忽然と姿を消したのだという。そのことで家族から会社に問合せがあったが、現職の従業員は誰も元部長の居場所や動向を知らないそうだ。
(あの部長が、そんな辞め方を……!?)
「……行方不明になって、どのくらい経ちますか?」
「まだ、一週間くらいと言っていたけれども……残念ながら、私は何も知らない」
僕も、知らない。
「君は、部長さんと親しかったのかい?」
「いいえ……親しいと言えるほどでは……」
確かに僕は部長の「弟子」と呼ばれ、何かと面倒を見ていただいたけれど、部長のプライベートのことまでは知らない。連絡先も知らない。(スマートフォンが自宅に置き去りなら、知っていたとしても無意味だ。)
「うーむ……」
唸って、黙り込む先生。
「あの部長さんには、確か、お子さんが4人いて……いちばん下の子は、まだ中学生だったと思うよ」
そんな状況で、転職先も決めずに、家族を置いて姿を消すだなんて….…部長らしくない。何らかの理由で急遽退職した直後、ただなんとなくスマートフォンを持たずに外出して、事故か何か、意図しない理由で、帰宅できなくなったのではないか……?
 それに、製造部の部長が突然辞めてしまったのだから、現場は大混乱に違いない。
「私は……今から、弟に会ってくるよ」
「こんな時間にですか!?」
「どうせ、あいつは現場で残業をしているよ」
「車で行くんですか?」
「そのつもりだよ」
「……僕が、運転してもいいですか?」
「私は構わないけれども。……君は、辞めた会社に顔を出して、平気なのかい?」
「僕も、善治さんが心配なんです」
僕が最も警戒しているのは先生の発作なのだけれど、口には出さなかった。
「わかった。……着替えてくるから、少し待っていてくれ」
「わかりました」
 先生は部屋を出る前に、車のキーを渡してくれた。先生は、自宅の鍵と車のキーを、家の中でも肌身離さず持ち歩いている。

 僕は、車の運転席で先生を待った。暖房をかけて、車内を暖める。車内に常備されている使い捨てのマスクを着ける。
 後から来た先生は、まず後部座席に黒っぽい上着らしき物を放り込んでから、助手席に座った。
「お待たせ。……道は分かるかい?」
「ナビを使う気満々です」
先生は「了解」とだけ言ってカーナビを操作し、登録済みの目的地から、善治の勤務先を選んでくれた。
「あ、入れてあるんですね……」
「弟はトラブルメーカーだからね」
そんなに高頻度で、先生が呼び出されるのだろうか?
「よし、行こう」
「はい……!」
 先生を乗せて運転するのは初めてだ。すごく緊張する。


 退職以来、最寄駅にさえ近寄らなかったあの工場が近づいてくると、だんだん息が詰まったような感じがしてきて、胃がむかむかしてきた。身体が、あの激務を覚えているのだろう。
 会社側には既に連絡してあるからと言う先生を信頼し、僕は来客用の駐車場に車を停めた。
「おやおや、珍しい……。こんな時間まで、社長の車があるよ」
先生は、とある高級車を指さして不敵に笑っているけれど、僕は、緊張のあまり吐き気がしてきた。
 先に車を降りた先生は、後部座席から何かを取り出した。その間に、僕も車を降りた。
「これを貸すよ」
社屋に向かう前に、先生が僕に差し出したのは……今、先生が着ているのと同じ、あの工場長も着ていた町工場の制服の上着だった。胸と背中に、しっかりと社名が入っている。
「それを着て、私と一緒に居れば……誰も君を嗤ったりなんかしない」
僕が辞めた時の状況を、この先生は知っているのか……。
 僕は、それを私服の上着の上から、重ねて着た。長身の先生が他の衣類を着込んだ上からでも羽織れるサイズだから、僕も難なく着られた。工場長や先生に守られているみたいで、なんだか心強くなった。
「似合うね!」
「……ありがとうございます」
先生と一緒に笑っていたら、肩の力が抜けて、吐き気が治まった。

 まず訪れた事務所には、見覚えのある事務職の女性が一人だけ居たけれど、僕らには見向きもしなかった。残業中の同僚だと思って、気にも留めないのだろう。無言でパソコンに向かっている。
 先生が彼女に声をかけ、ご本名を名乗ると、彼女は心底驚いたように「お疲れ様です!」と挨拶をしてくれた。
「社長なら、現場です!」
「ありがとうございます」
先生に電話をかけてきたのは、社長なのだろうか。

 すぐに「現場」と呼ばれている別棟に向かう。「ろくでもない臭いがするね……」と、先生がマスクで鼻を覆い直しながら呟く。
 確かに、金属加工の工場のはずなのに、ゴミ処理場みたいな臭いがする。僕が在籍していた頃は、こんな異臭はしなかったはずだ。

 「現場」の一角にある、検品や梱包が行われるはずの部屋に入ると、むせ返るほどの異臭がして、すぐ近くにある男子トイレから、人が嘔吐しているような音や咳が聞こえた。
「相変わらずだな、此処は……」
先生が眉をひそめる。
 便器の水を流す音がしてから、洗面所を使う音がした。
 やがて、ふらふらとトイレから出てきたのは、もう名前は忘れたけれど、かつて、僕を「ポンコツ」呼ばわりしていたグループのリーダー格だった奴だ。右眼の上に、眉毛を二分するように喧嘩の跡らしい小さな傷痕があって、僕は それで顔を覚えていた。
 あんなに威勢が良かったのに、今は、目の下にクマを作って、随分と やつれた感じがする。僕に気付いているかどうかは判らないけれど、突然の来客に驚いているのは分かる。
「え、先生……来たんすか!?」
「あぁ、来たよ。君の様子がおかしかったから」
(先生に電話したのは、こいつか……!!)
「……忙しそうだね」
「ったく……!
 あいつの……せいで……!!!」
眼が疲れているだろうし、嘔吐してきた直後だからだとは思うけれど、彼の眼は真っ赤で、涙が光っている。怒っている犬がするみたいに、鼻に皺を寄せ、口唇をびくびく震わせながら、とても苦しそうに話す。
「まずは水分を摂りなさい」
先生は、こんな奴にも、お優しい。
 彼は、素直に冷蔵庫からスポーツドリンクを取り出し、パイプ椅子に座り込むと、ぐびぐびと音を立てて飲み干した。空になったペットボトルを、怒りを込めて捻り潰し、ゴミ箱に投げつけた。もちろん中には入らず、あらぬ方向へ飛んでいく。
 先生は、それを黙って拾い上げ、きちんとゴミ箱に入れた。彼は苦しそうな表情のまま「すいません」とだけ言った。
「社長にお会いしたいのだけれども……良いかい?」
「今、明日の朝一 造ってますよ!!」
社長が現場に出るなど……僕の在籍中はありえなかった。
「君は、しばらく休んだほうがいい」
「休んでる暇は無いんすよ!!」
彼は、事務机をぶっ叩きながら、怒鳴り散らした。
「あーあー、前頭葉が限界だねぇ……」
彼が癇癪かんしゃくを起こしても、先生は動じない。
「お邪魔するよ」
先生は、迷うことなく奥の部屋に進んだ。僕も黙って同行した。
 手近な物品に当たり散らしながら、吼えるように罵詈雑言を叫んでいる彼は、僕のことには一切触れなかった。

 先生が、奥にある機械場の片隅で、他の従業員達には聞こえないように小声で言った。
「彼、口は悪いけれども、腕は確かだし……忠義者なんだ」
それは、僕もよく知っている。18歳で就職した後、数ヵ月〜1年ごとに転職し、様々な工場を転々としてきたという彼が、ここでは10年近く働き続けている。
 社長への忠義に篤い彼にとって、退職者は「裏切り者」であり、元部長であっても「あいつ」呼ばわりが相応しいのだろう。
 しかし、僕の在籍中には、いつも元気に友人達と笑い転げていた彼が、今は吐くほど残業をしているというのが、ちょっと信じられない。

 奥の機械場では、若い従業員達に混じって、社長が大型の旋盤に向かっていた。先生は、側まで行ったけれど、黙って立ち止まり、社長が気付くまで待っている。
「おぉ!これはこれは……大先生!」
社長が先生に気付き、何故か豪傑笑いをしながら旋盤の回転を止めた。
 この現場で働く人々の多くは耳が悪いから、社長も声が大きい。
「お忙しいところ、恐れ入ります」
「弟さんなら、2階だよ!」
「ありがとうございます」
先生は、はっきりとした声で それだけ言うと、速やかに階段へ向かって歩きだした。
 社長は、僕には見向きもせず、金属加工を再開した。

 2階に上がると、善治が一人で機械類の整備をしていた。他の従業員は誰も居ない。
 ほとんどの機械が止まり、ラジオが消され、フロアは静まり返っている。
 物音や罵声が聴こえない彼は、1階の状況を何も知らないまま、今日の分の仕事を終えて、翌日以降に向けた準備をしているように見受けられた。
 先生が、社長に対して したのと同じように、機械に向かう彼の視界に入る位置に立ち止まり、本人が気付くまで待った。
 彼は、すぐに気付いたけれど、機械や工具から手を離さない。作業を続けながら、何やら外国語のようなものを口にした。
 先生は、お構いなしに、口元が見えるようマスクを顎まで下げてから、手話で要件を伝え始めた。
 彼は、黙って先生の手や口元を見ていた。
 やがて、彼は僕の存在に気付き、僕を指さしてから、何かを手話で表現した。先生は「彼の運転で来た」と応えた。
 先生と彼が手話で込み入った話をしている間、それを理解できない僕は邪魔にしかならないと判断し、床に散乱しているゴミや残材を片付ける作業に着手した。
 2階の片付けと翌朝の準備が終わったら、彼は1階の仕事を手伝ってから帰るような気がする。

 僕の予想は当たり、彼は自分の仕事を終えたら、1階の機械場で補助的な雑務を始めた。
 先生は「煙草を吸ってから帰る」と言い出し、奥の喫煙所に消えた。(部長は所構わず吸う人だったけれど、一応「喫煙所」は在る。)
 初めに入った部屋に取り残された僕は、そこに居たら、残業中の誰かに「アルバイトの奴がサボっている」と勘違いされて厄介な事になるような気がして、先生が居るはずの喫煙所に向かった。

 先生の前で癇癪かんしゃくを起こしていた彼は、持ち場に戻って、金属板をプレス機にかける準備をしていた。
(こんな時間から、開始する分があるのか……!?)
 相変わらず、戦慄を覚えるほどの仕事量である。翌朝に向けた準備であることを祈る。


次のエピソード
【23. 倒れた忠犬】
https://note.com/mokkei4486/n/n4b2316a9702b

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