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小説 「長い旅路」 33

33.再会


 かつて俺が借りていた部屋に、すっかり弱りきった様子の彼が居た。壁際に敷かれた布団の上で、夏らしくない毛布を腹より下に被せて横たわり、折り畳んだバスタオルを枕に うたた寝をしているようだった。あの、若々しく活力に溢れ、筋肉の塊のようであった立派な身体は、別人のように痩せ衰え、小さく見えた。以前より白髪が増えたことも、一目で判った。
 そんな状態の人を起こしてしまうことを躊躇ためらっていた俺をよそに、先生は彼に そっと声をかけ、静かに頭の近くに座って、何度も肩を叩く。
 呼びかけによって目を開けるまでは早かったが、その後の反応は……明らかに、脳に何らかのさわりがある人のそれだった。横になったまま、背中や首を反らして、必死に先生の顔を見上げようとするも、眼の焦点が定まらない。そして、まるで乳幼児か動物が出すような、文字に起こしようのない唸り声を発しながら、苦しそうに息をして、凄まじい量の唾液を垂れ流す。……どうやら、彼は かなり重篤な疾患によって倒れ、相当な後遺症が残ってしまっているようだ。
 先生は、起こしてしまったことや驚かせてしまったことを詫びながら、宥めすかすように彼の背中を撫で、俺の来訪について、改めて何度も伝える。それは、苦しそうに反らしている背中を、丸めるよう促す意味もあるのだろう。反らしたままの体勢では、壁で頭を打ってしまうかもしれない。
 彼は、もはや「重病人」というより「老齢の犬」のような格好で、先生に体を撫でてもらいながら、タオルに顔を半分ほど埋め、ずっと唸っている。
「今は、あまり調子が良くないみたいだ……」
俺にも、そう見える。
 先生が、何度「倉本くんが来てるよ」と伝えても、彼の様子は変わらなかった。彼の目に、俺の姿は映っていないような気がした。
「すっかり、目が悪くなってしまってね……真正面以外は、ほとんど見えていないようなんだ。……ここまで来てやってくれるかい?」
「は、はい……」
言われるがまま、俺は先生と場所を代わった。ここは和室であり、相手は目上の人だ。正座以外の選択肢は無い。

 そこで初めて、悠さんは俺を認識してくれた気がした。目が合って、彼が何度か大きく息をつき、唸るのをやめた。
「悠さん、お久しぶりです……」
おそらく、今の彼は頭を起こすことが出来ず、明瞭に言葉を話すことも出来ないのだろう。しかし、そんなことは関係ない。彼は、俺の恩人だ。俺は彼を尊敬している。
 彼の呼吸が落ち着いてきたのを確認したら、先生は「しばらく、男同士で話しなよ」と言い残し、さっと立ち上がって和室から出て行ってしまった。……応接室の、湯呑みを片付けるのだろうか。

 先生が退室すると、悠さんが、茫然としていた俺の手を探り当てて捕まえ、掌に「げんきか?」と指で書いてくれた。
「いいえ。正直、あまり……」
彼よりは軽症かとは思うが、一日に一食しか食えないし、先生との約束の時間も守れない、酷い有り様だ。
 俺の返事を聴いた彼は「そうか……」とでも言うように ため息をついてから、また指で「おれも」と書いた。…………それだけで、俺は何とも心強くなってきた。「ここに仲間が居る」と思えた。
 彼は口話こそ難しいようだが、指先は思いのほか滑らかに動き、その後も「あたらしい家 どうだ?」とか「ルームシェア たのしいか?」と、いくつか訊いてきてくれた。俺がそれらに口頭で答えるたびに、彼は にやりと口角を上げ、時には目を瞑ったり首を動かしたりしながら、満足げな低い声を漏らした。
 彼本来の陽気な性格や、逞しさ、歳下を思いやる気質は、俺がこの家で寝泊まりしていた頃と、何も変わっていない気がした。

 病身の彼に、師を亡くしたことを あえて伝えようとは思わなかった。最も肝要なところは、全て吉岡先生に聴いてもらったのだから、それで充分だ。
 今は、彼との再会を純粋に楽しみ、祝福したい。


 手先を用いた筆談を続けていると、ふいに、彼が首を反らせて枕元を気にし始めた。そこには水筒や体温計の他に、何冊かの絵本やMP3プレイヤー、マッサージに使うと思われるテニスボール、切符のような小さい紙がたくさん入った小物入れ等、彼がこの場所で快適に過ごせるようにするための、様々な物が置かれている。藤森さんが愛用しているのとは色違いの筆談具もある。
「何か、要りますか……?」
彼が右腕を伸ばして筆談具に触れたので、俺はそれを両手でそっと持ち上げて、敷布団の上の、彼の視野に入りそうな位置に置いてみた。
 彼は、相変わらず横になったまま、扱いやすい位置にまでそれを引き寄せると、側面からタッチペンを引き出して、画面に文章を書き始めた。おそらく、彼自身には画面はほぼ見えておらず、記憶と手先の感覚を頼りに文字を紡いでいる。漢字の形は崩れているし、一部の文字が重なっているのだ。
 それでも、内容を読み取ることはできる。
【おれが もっと 動けるようになったら また いっしょに サイを見に行こう】
「良い、ですね……!」
俺の返事を聴いた彼は筆談具のスイッチを押し、全ての文字を一旦消してから、再び何かを書きつけた。
【おれの リハビリ】
お互いのです、という返事は飲み込んだ。
「俺、その時に……ルームメイト、紹介します」
タッチペンを置いた彼は親指を立てながら「おぅ」と言い、その後も何か口話をしようと試みたようだったが、結局は意味を成す言葉は出てこなかった。顔面の筋肉が、本人の意思とは関係なく勝手に動いている感じがした。彼が怒りや息苦しさによって鼻に皺を寄せるのは、以前からの癖ではあるが……今は、そこが不自然な痙攣を繰り返し、明瞭な発話を阻んでいるようだ。
 彼は、自由が利かない身体への苛立ちを表現するかのように、布団の上で仰向けになり、更には首を反らせて、小さな「咆哮」をしてみせた。
 俺は、咄嗟に彼の「左手」を、初めて握った。彼は、嫌がるような素ぶりは全く見せず、再び俺の顔を見た。依然として顔面の痙攣は続いているが、少しずつ治まってきたようにも見える。俺は、言いそびれていた最も大切なことを、そこでやっと口に出した。
「俺……悠さんにまた逢えて、すごく嬉しいです」
それを聴いた彼は、少しだけ痛みを孕んだような顔で にやりと笑い、空いていた右手を伸ばして俺の頭を撫でてくれた。俺はそれに呼応するように、少し頭を下げる。まるで主人に褒めてもらう犬のようだが、悪い気はしない。彼はきっと、先ほど俺が発した言葉について喜んでくれているのだ。彼も「嬉しい」のなら、最高に喜ばしい。俺は、どちらかといえば疎まれることに慣れてしまった人間だ。
 彼は、俺が同性愛者であることを知らない。だからこそ、いつも こんな風に気軽に触れてくれるのだろう。……もしも事実を打ち明けたら、関係性は変わってしまうだろうか。

 彼の手が俺の身から離れてすぐ、応接室の片付けを終えたのであろう先生が和室に戻ってきて、俺達に夕食はどうするか尋ねた。彼は「この部屋で食べたい」という旨を筆談具に書き、俺は丁重にお断りした。



 自宅に帰り着き、着の身着のまま敷きっぱなしの布団に倒れ込んで少し横になった後、脱水を警戒して冷蔵庫に経口補水液を取りに行った時……リビングの散らかりようが気になった。俺が片付けなくなってしまったのだから、当然だ。多忙な恒毅さんは、仕事の後は炊事と洗濯で手一杯だろう。
 俺は水分を補給した後、衝動的に片付けを始めた。
(俺だって、リハビリをしないと……)
悠さんとの約束を、果たせるだけの体力を取り戻さなければならない。
 落ちていた衣類を洗濯機にぶち込み、あるいはクローゼットにしまい、埃を被った食卓を拭きあげる。
 食卓を拭いた布巾を絞りに行った台所で、夥しい数の空いたペットボトルを見つけ、それらも勢いのままラベルとキャップを外して洗う。そして、本来なら食器を入れるための水切りカゴに、入るだけ押し込む。

 水仕事をしていると恒毅さんが帰ってきた。弁当箱を出すために台所へやってきた彼は、俺が珍しく布団から出て立ち歩いていることに驚いていたようだった。
「和真、今日は調子が良いんだね」
俺は何も言わず、濡れた手を台所に吊ってあったタオルで拭いた。
「ありがとう。……和真が居てくれれば、家の中ピカピカになるね」
他に、出来る事はない。それくらいはする。
 恒毅さんは、黙りこくっている俺をごく自然な動作で抱き寄せ、背中を何度かそっと叩いてみせてから、耳元で改めて「ありがとう」「今日は元気そうで良かった」と言ってくれた。
 俺は、やはり何も言えなかった。

 恒毅さんはいつも通りシャワーを浴びてから夕食を作り始め、それが出来上がるまで、俺はずっとリビングを片付けていた。これまでも毎日使ってきたはずの部屋に、これほどまでにレジ袋が散乱していたとは気付かなかった。そして、ほとんど全ての袋に未使用の割り箸が入っている。それらをかき集めて整理するだけでも、れっきとした「雑務」だ。(集めたレジ袋は適当に畳んで、緩い結び目を作っておく。その状態で、保管しておく紙袋がある。何故紙袋なのかは、俺は知らない。)
 遅めの夕食が出来上がり、いつものように横並びで食卓につく。俺は玉子粥だけを食べるが、彼は大量の野菜炒めと白米を食べている。
 俺のほうが、圧倒的に早く食器が空く。とはいえ俺は食器を下げることもなく、まだ食べている彼に語りかけた。
「俺……恒毅さんに紹介したい人がいます」
「誰?」
「吉岡先生と、旦那さんです」
「おぉ!」
「でも……旦那さん、今はまだ、具合が悪くて……」
「もしかして、今日会ってきたの?」
「そ、そうです……」
何故わかったのだろう?
「随分、遠出したね。お疲れ様」
確かに、久しぶりの電車は疲れた。今になって、心地よい眠気を感じている。

 彼も食べ終わり、その時に俺も食器を片付ける。だがそれも、ひとまず流しで水を張るだけだ。すぐにリビングへ戻り、互いにスマホを弄りながらの「食休み」が始まる。俺は、画面ばかりを注視していた彼に、再び例の約束について話し始めた。
「い、いつになるかは分からないのですが……4人で動物園に行けたらな、と……」
彼は、画面から視線を上げた。
「旦那さんも動物好きなの?」
「分かりません……。ただ、先生と俺にとっては、重要な場所です」
「なるほど」
その後の、彼からの「先生は、トラが好きなんだっけ?」という問いには、俺は答えなかった。予め頭の中に用意しておいた文章を、そのまま告げた。
「先生と、初めて逢ったのも……恒毅さんと初めて逢ったのも、そこなので……」
それを聴いた彼は満足げな笑顔を見せ、何かを呟いた。俺には、その内容は判らなかった。自分のしたい話を続けた。
「だから俺は、身体を鍛えるんです」
「ほぅ」
「まずは一人で通って……またライ達に会うんです」
「良いねぇ!」
すぐ隣に居る彼が、口話で言った事とほとんど同じ言葉(あるいは、それを含むスタンプ)をLINEでも送ってくるのは、決して珍しいことではない。難聴者の俺に「誤解」をさせないよう、最大限の配慮をしてくれているのだろう。
 今も、動物のイラストやアニメキャラクターのスタンプが立て続けに送られてきて、画面上には「いいね!」とか「素晴らしい!」「素敵!」といった賛辞が並んでいる。
「やっぱり『推し活』は大事だよ。明日を生きるモチベーションの源さ!」
俺としては……『推し』というのは、芸能人やアニメキャラクターのことを指す言葉であるように思うのだが、彼の見解としては「生きた動物」もそこに含まれるようである。
 やがて、彼は自分のスマホで何らかのアプリを起動させた。
「僕は今、ビーバーの動画にハマってるんだ」
そう言って彼が差し出してきたスマホの画面を覗くと、既に動画の再生が始まっていた。
 動物園の敷地内と思われる場所で、ずんぐりむっくりとした茶色い毛玉が、のそのそ歩いている。それはやがて餌場にたどり着き、テーブルのような台の上に無造作に置かれたキャベツやニンジンに何度も手を伸ばしては、むしゃむしゃと美味そうに平らげていく。

 なるほど。これは確かに可愛い。

 その後、何本かのビーバーの動画を見せられた後「いつか2人で水族館に行こう!」と誘いを受けた。
 まずは、そちらが先となるだろう。


次のエピソード
【34.家族】
https://note.com/mokkei4486/n/n9965d270ad35


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