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小説 「僕と彼らの裏話」 13

13.喜捨

 取調べの結果、先生は【不起訴】になった。詳しい経緯は、聴かされていない。
 こちらから訊くつもりは無い。


 元気を取り戻した先生が、哲朗さんに会ってくると言って、学会発表に出るかのようなブレザー姿で出かけた日があった。
 帰宅後は、何も言わずに すぐ3階に上がってしまった。
 小一時間経ってから、いつもの作業着姿でリビングに下りてきて、やはり何も言わずに僕の隣に座った。背中を丸め、大きく息をついた先生の体からは、煙草の匂いがした。
「お疲れ様でした」
僕が声をかけると、先生は手を揉み合わせながら「うん……」とだけ言った。
 ご自分の手で、掌にある 緊張や心労に効くツボを、刺激しているのだ。忙しい時期には、よく見る光景だ。
 今、先生の眼は、真っ赤だ。
「お茶でも淹れましょうか?」
「いや……水が飲みたいな。冷たい水……」
「わかりました」
 僕は、すぐに それを用意する。

 先生は、小さな声で「ありがとう」と言ってから、僕が注いできた水を半分くらい飲んだ。
「坂元くん……。以前『車を買いたい』と言っていただろう?……あの話は、どうなった?」
哲朗さんの話ではなかった。
「結局……『新居が決まるまで、買わない』という結論になりました。今のアパートには、駐車場が無いので……」
「そうかい……」

 しばしの沈黙の後、先生が ぽつりと言った。
「今、うちのガレージに停まっている、あいつを……売ってしまおうと思うんだ」
僕らも日頃 買い出しに使っている、あの黒い軽自動車のことだろう。すごく燃費が良くて、企業の営業車としては根強い人気がある車種だ。
 先生は非常に物持ちが良い方なので、今ではもう ほとんど見かけなくなった、2世代前の古い型に乗っている。(街を走っている営業車は、近年発売された新型だ。)
「買い換えですか?」
「いや……私はもう、車は持たない」
「えっ……?」
正論を言えば、癲癇てんかん持ちの先生は ご自分で車を運転すべきではない。その決断は正しい。(法的には『2年以上、発作が起きていない』という条件を満たせば、癲癇てんかんのある人でも運転免許を取得することは出来る。ただ、吉岡先生は……免許の取得後に再び起きてしまった発作について、頑なに秘匿を続けてきた。そして、それは非常に まずい事である。)
 今回の勾留で、疾患と運転免許のことが、警察に知られてしまったのかもしれない。(だとしたら、今すでに先生の免許証は無効のはずだ。)

 しかし……車が無くなってしまうと、僕らの買い出しは不便になるし、悠介さんが目眩の発作で動けなくなった時、移動するにはタクシーを呼ぶしかなくなる。(僕か藤森さんが車通勤になれば、対応は可能だけれど……。)
 僕は、何も言えない。
「何か一つ、大きなものを差し出さないと……千尋さんに、示しがつかない」
返す言葉が、見つからない。
 警察に知られたからではなく、ご自分の意志で手放されるようだ。


 後日、本当にガレージから車が無くなり、更に数日後……僕は先生から『運転経歴証明書』というものを見せられた。
 運転免許証を自主返納した証である。
「お疲れ様でした……」
リビングで、一旦は受け取ったそれを、向きを変えて先生にお返しした。可能な限り丁重に扱った。
 僕は先生の【英断】を讃えたい。
「ガレージが空いてしまったから……君が、もし今後、車で通勤することになったら、うちに停めてくれればいい」
「わかりました」
 僕が車を買えば、先生か悠介さんを乗せて走る日は、必ず来るはずだ。


 数日後。車が無くなったガレージを、先生と2人で掃除することになった。
 単なる清掃なら僕一人で事足りるけれど、不要となった洗車用品等を「捨てる・捨てない」の選別は、先生ご本人でなければ駄目だ。
 先生ご愛用の 背抜きの作業用手袋を、僕も借りて作業する。サイズは、僕にも ぴったりだ。
 コンクリート敷きのガレージの片隅に、不用品を集めた。プラスチック製のバケツやツールボックスの中に、不要となった品々が山盛り入っている。中身は、洗車用品の他に、車内に常備してあった緊急用の工具、牽引ロープ、止血用の紐、使いかけのウォッシャー液……等である。
 先生が、しゃがみ込んで中を検めながら言った。
「何か、欲しい物があるなら、君に譲ってもいいけれども…………恥ずかしいほどに、ガラクタばかりだな……」
「そんなことはありませんよ。すごく状態が良いじゃないですか」
「この『三角形』なんて、一度も使っていないからね」
高速道路で やむを得ず緊急停車させた時に、路上に置く「三角表示板」のことである。先生が持ち上げた それは、今は折り畳まれて黒色の四角いケースに入っている。
 僕は、それを譲り受けることにした。
「その頃までに、規格が変わらないと良いねぇ」
「はい……」

 廃棄すると決まった物品は、可能な限り分解・破壊して「一般ごみ」にする。
 その作業に必要な工具は、ガレージのどこかを探せば出てくる。
「やっぱり、自転車が必要だろうか?」
「いや……。僕、正直、この坂を自転車で登りきる自信がありません……」
「……私もだよ」
 買い出しは、リュックと通販を活用しよう。


 ガレージ内に、スニーカーの踵を擦って歩く足音が響いた。
 倉本くんが帰ってきたのだ。
「あぁ。おかえり」
「た、た、只今……帰りました……」
そのまま奥まで歩いてきて、僕らの作業を見に来る。手には、コンビニのものらしい小さなレジ袋を提げている。彼は相変わらず、外出するたびに牧場のような匂いを纏って帰ってくる。
「……棄てるんですか?」
「そうだよ。……もう、車には乗らないからね」
それを聴いた彼は、何も言わない。ただ、黙ってゴミの入った袋を見ている。
「……物を手放すというのは【執着しゅうじゃくを捨てる】ということだから……すごく気持ちが良いんだ」
彼は、先生のお話を、至って真面目な顔で聴いている。「いつも通り」と言ってしまえば、それまでだけれど……。
 やがて、彼は すごく悲しそうな、それでも落ち着いた様子で、先生に「お大事にしてください」と告げた。
 彼も、先生が「健康上の理由」で運転免許を手放したことを知っている。
「……ありがとう」

 長い沈黙の後、彼は「風呂いただきます」と宣言し、家の中に入っていった。「はい、どうぞ」と応える先生の声と表情は、とても優しくて……つい先日まで留置場に居た人物とは思えなかった。
 僕は、2人きりで居られるうちに訊いておきたい事があった。
「あの……哲朗さんは、お元気でしたか?」
「すっかり良くなってたよ。……眼球が何ともなくて、本当に良かった」
「良かったです……」
 スーパー銭湯やモデルルームのことで、僕からご本人に連絡を取っても、ずっと返信が無かったのだ。


 先生は、立ったまま腰に両手を当てて、ガレージの外にある道路を眺めているようだった。
 この山には店舗というものは床屋くらいしかなく、建っているのは住宅ばかりである。帰宅ラッシュともなれば次々と車が登ってくるけれど、今の時間帯は、ほとんど誰も通らない。
「……がっかりしたかい?」
「何に、ですか?」
「私が、彼を殴ったことさ」
「驚きはしましたが……『がっかり』なんて、とんでもないです」
「パクられたのに?」
「……僕も、ずっと先生が心配でした」
その言葉に、偽りは無い。
「君は、本当に忠義者だな」
「恐れ入ります」
努めて恭しく、それでいて力強く、主君のために戦う『騎士』を意識して、礼をした。

 先生は、満足げな笑みを浮かべてから、いつものように腕を組んだ。そうやって、南の空を見上げる。僕は、その横顔を見つめる。
 一転して、先生は【真顔】になる。
「私は、あの日……かつての上司の、頸動脈を切ろうと思った」
僕は黙る。「思った」だけなら、罪には ならない。
 僕も、同じ空を見るつもりで、半歩後ろに下がった。体の後ろで、利き腕の手首を掴んで「貴方には手を出しません」という、誓いを示す。
「私は……どうしてもファンタジー作品が書きたくて、毎日あれこれ考えて……ふと思い立って、釣具屋に、ナイフを見に行ったんだ。……そこに、思いのほか良いのがあって、構想を練る用が済んだら、君に譲って、魚を捌いてもらおうかと思って……買ったんだ。もう、没収されたけれども」
包丁等を、購入した店から持ち帰るだけなら、銃刀法違反とは ならない。しかし……どこかで、箱から出してしまわれたのだろう。
「帰りに……近くの書店に寄ったら、岩くんが居てさ。彼は、もうすぐ そこで開催するイベントの、下見だと言っていた……。そして、彼は、私がすごく気にしていた新人作家の初版本を、偶然 持っていたんだ」
先生は腕を組んだまま、時折 振り返ったり、片方ずつ足首を回したりする。
 僕は倉本くんと同じように、至って真面目に傾聴する。主君を前に、姿勢は崩さない。
「彼は疲れているようだったし、時間に追われているようでもなかったから……『私が奢る!』と言って、どこか適当な店に入って、その本を ゆっくり見せてもらおうとしたんだ」
そこで選んだのが、例のオープンカフェだったのか。
「たまたま選んだ店に……かつての上司が居た。学生だか、院生だか……知らないけれども、若い女性と2人だったな。そこで……そいつは『過去に在籍していた、とんでもない人間』として、人生で最も状態が悪かった頃の私の話を、面白おかしく……彼女に語って聴かせていて…………私は“キレて“しまった」
“怪奇“とでも言うべき、最悪の偶然だ。
「私一人に【無理難題】を押しつけ、更には【休む権利】を奪って、あんな状態になるまで、まさに奴隷のごとく使い倒した張本人が……一切の、罪悪感の欠片もなく……むしろ『障害のある研究員を無闇に解雇せず、一般枠としての人件費を保証し続けた、理解ある雇用主』を気取っていて……私は、耐えられなかった。私を『障害者』にさせた張本人が……いわば『傷害事件の主犯格』が、むしろ逆に『ヒーロー気取り』で……」
「先生、ご近所さんに聴かれてしまいますよ!」
僕は、咄嗟に小声で口を挟む。
「私が日常的に【妄言】を叫んでいることは、みんな知ってるよ。今更、騒ぎになど ならない……」
何も言えない。
「赦せなかった。……どうしても、赦せなかった。私は、気が付くと、その日の朝に買った物を手に、立ち上がっていて……」
大型のフィッシングナイフを逆手に握って席を立つ先生の姿が、頭に浮かんだ。
 僕は、下を向いた。
「しかし、その瞬間に岩くんも動いて……私は標的に近寄ることすら無いまま、ただ『友人との、殴り合いの喧嘩』が始まって、私は【殺人犯】にならずに済んだ……」
先生の凶行を止めるべく、本気で椅子の足をぶつける哲朗さんと、それによってナイフが弾き飛ばされた後、逆上して椅子を奪い、彼をボコボコに打ちのめす先生の姿は、ありありと想像できる。
 きっと、それで辺りが騒然となって、教授と同伴者は逃げたのだろう。狙われていたことにさえ、気付かないまま……。
「……先生も、怪我をされたんでしょう?」
「そんなものは、24日間もあれば、治ってしまうよ」

 先生は、ずっと組んでいた腕を解き、体を僕のほうに向けた。
「……がっかりしたかい?」
「いいえ……」
僕は、首を横に振る。
「今の話を聴いて『辞めたい』と思ったなら、辞めてくれていい。君の雇用主は【狂人】だ。君だって、いつボコボコにするか……」
「いいえ」
先生は、黙った。
「先生は……自動車と一緒に【過去】を手放されました。だからもう……そんなことは、起こりません」
願望だか暗示だか、解らない。ただ、今は「断言」すべきだと感じた。
「そうか……。君は、そう思うのか……」

「それを【現実】にしないと、いけないねぇ……」
それだけ言うと、先生は僕に背を向けて、ご自宅の中へ入ろうとした。僕も、迷わず後ろをついて行く。

 僕は、先生に殴られたことは一度も無い。


次のエピソード
【14.隠れ家】
https://note.com/mokkei4486/n/ndf8079493914

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