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小説 「僕と先生の話」 31

31.「虎穴の主」を前に

 僕は出勤日にも関わらず、先生に車を借りて古本屋に行き、自宅にあった漫画本とゲームソフトの大半を売り払ってしまった。
 目的を果たし、軽くなった車を走らせて先生の家に戻りながら、前日の夜に駅のホームで岩下さんと電車を待つ間に話したことを思い返していた。

 彼は昨日、僕に、自分の欠神けっしん発作ほっさのために電車を一本逃したことについて、何度も謝った。僕には急ぐ理由など無いから「気にしないでください」と答えたけれど、彼は「申し訳ない」「不甲斐ない」と、自責的な言葉を口にし続けた。
 僕は、そこで「そんなこと言わないでください」と切り出し、彼に対する敬意を率直に伝えた。自分はうつ病で製薬会社を辞めて以来、何年もずっと停職に就けず、バイト先で散々笑いものになってきた『ポンコツ野郎』で、善治によって先生と引合わせてもらえなければ、どこで野垂れ死んでいたかも分からないと話した上で、今は寛解しつつあるけれど、正直「二度とサラリーマンには戻りたくない」と思っていること、だからこそ結婚など諦めていることを打ち明けた。
 そんな身の上だからこそ、家族のため、自らの信念のため、痛みや痺れと日々闘いながら編集者を続け、先生と共に素晴らしい絵本を次々と世に送り出し、更には健康なライバル達との熾烈な競争の中を生き抜いている貴方を、とても尊敬していると伝えた。
 僕は、涙こそ流していないけれど、半ば情動失禁気味に、一方的に思いの丈をぶつけてしまった。彼は、いつものように黙って聴いていた。
 しばしの沈黙があり、彼は指を組んだまま、小さくとも力の込もった声で、僕を誉めてくれた。
「やはり……貴方は【逸材】だ。
 吉岡先生の下で働く人材として、貴方ほどの適任者は居ません」
「僕は、ただのポンコツです!」
「いいえ……。
 貴方でなければ、先生を守りきれません」
「僕は、守ってなんか……!」
「貴方の作る食事が、先生の健康を守っています。貴方が着任してから、先生は本当にお元気です。それに、貴方は先生が意識を失われても、冷静に適切な対応が出来る方です。
 何より、貴方は先生に負けないくらい【病】というものについて、真摯に学んでこられた方です」
「先生には、遠く及びません」
「……本当に、謙虚な方ですね」
 顔の下半分はマスクとマフラーで隠れているけれど、眼を見れば、その知性と慈悲深さが伝わってくる。彼が自分と同じ歳だなんて、未だに信じられない。
 聞き慣れたアナウンスが鳴り、彼も「電車が来ますよ」と嬉しそうに言ってから、「固まってしまわないように」と立ち上がった。
 電車内に空席は無く、僕らは目的の駅で降りるまで、開かないことが判っている方のドアの前に立っていた。
「私の息子が……貴方のような人になってくれたら、とても嬉しいです」
「と、とんでもない……!!」
彼は、僕の反応を見て静かに笑っただけで、それ以上は言葉を継がなかった。
 その後は、翌日の予定に関する話くらいしか、しなかった。

 岩下さんの息子2人が、僕みたいな人生を歩んで、心を病んでしまったら……悲しい。僕がこれまでに得た知識や教訓なんて、決して誇れるようなものではない。知れば知るほど、他人や、自国の医療が、信用できなくなっていく……そんな、この国の 暗い【陰】の部分を、僕は長い間 見てきたのだ。彼の子ども達には、見せたくない。


 今日は、彼が訪ねてくる予定は無い。
 車をガレージに停めたら、僕はインターホンを押して、先生の応答を待った。


 出迎えてくれた先生は、出かける前に見た濃紺の作業着の上から、防寒着を何枚も着込んで、いつもより体が大きく見えた。眼鏡をかけておらず、何故か普段の使い捨てマスクではなく、黒いネックウォーマーで口元を隠していた。ドアを開けた隙間から、睨みつけるように僕を見ている。珍しく、何も言わない。
「只今、帰りました。車ありがとうございました」
先生は、ずっと黙っている。僕の外出中に、何か良くない報せでも受けたのだろうか……。とても、機嫌が悪そうだ。
「お出かけですか?」
「私は、あの社屋に火を点けなければならない」
あまりにも突拍子の無い発言に、僕は言葉を失った。
「殺人カンパニーであるならば、滅ぼさなければならない」
久方ぶりに、どきっとした。
 アトリエで『事件』について叫んでいる時や、僕に「誰だ」と言って、椅子を投げた時の、あの声だ。女性の声帯から出ていることが信じられないほどの、低くて、太い声……。もう、何ヵ月も聞いていなかった。
退け」
迷いのない命令。従わなければ銃で撃たれるのではないかと思うほどの、鋭い眼光。
 僕は、脊髄反射的に、手に持っていた車のキーを、ズボンの尻ポケットに入れた。
退け!!」
 僕は、先生が開けようとしているドアを、思わず外から押さえた。しかし、僕の力では、閉めることまでは出来ない。中から開こうとする先生の力が、とても強い。
「ま、待ってください!!本気なんですか!?『火を点ける』だなんて!!……何か、小説か何かの、台詞ですか!!?」
「何が小説だ!!私は本気だ!!」
虎が吼えるように、先生が怒鳴る。
「あれが【現実】であるからこそ、私は赦せないのだ!!!」
本当に「火を点ける」ために出ていくつもりなら、退くわけにはいかない。先生を外に出すわけにはいかない。
 例のフラッシュバックにより、一時的に気分が高揚して「加害者達が居る場所に、火を点けてやりたい」という、恐ろしい考えに囚われてしまっているだけであるはずだ。先生は、そんな事を実行に移してしまうような人ではないと、僕は信じている。しかし、その衝動が鎮まるまでは、外出させるわけにはいかない。
 わずかな隙間から急所を蹴られてしまわないよう、僕は体をドアに隠すようにして、力一杯、肩で押した。しかし、工場勤務だった頃に比べると、筋力は明らかに落ちている。閉めることが出来ない。
「殺人カンパニーって……先生はまだ、生きてますよ!!生きて、自由に、素晴らしい本を、たくさん書いて……!」
「彼女は死んだ」
先生は、僕が言おうとした文章を、途中で遮った。
(善治の奥さんか?……ご自身が被害を受けた勤務先ではなく、弟夫婦が働いていた会社のことを言っているのか?)
 いずれにせよ、僕がする事は変わらない。
「だからって……火を点けたりなんかしたら、もっと多くの人が死んでしまいますよ!!」
「あの設備を、焼き払わなければならない。犠牲者を出し過ぎだ。何人、壊した?」
「先生が燃やす必要は、ありません!!
 あんな、ろくでもない会社のために、先生が刑務所に入るなんて……おかしいです!!」
先生との「力比べ」は続いている。
「冷静になってください!!
 先生の絵本を読んだ子ども達が、今の先生を見たら……どう感じると思いますか!!?」
先生は答えなかった。
 唐突に、ドアを開こうとする力が弱まり、僕が押す力で、勢いよく閉まった。
「うわ!」
転びそうになった。
 体勢を立て直した僕は、ドアに背中を着けたまま、再び開きはしないかと警戒していた。
「ハァ……ハァ……」
完全に息が上がっている。脚が震えている。

 おそらく数分が経過したけれど、先生がドアを開ける気配がない。鍵を閉める音や足音は聞こえなかったから、まだ玄関に居るような気はするけれど……。
 僕は、恐る恐る、ドアを開けた。
 先生は、靴を履いたまま玄関に座り込み、背中を丸め、両手で耳を塞いでいた。ネックウォーマーを下げて口を出し、荒い息をしながら「駄目だ」「それは駄目だ」という、同じ文言を繰り返していた。
 僕は、少しの間、立ったまま先生の様子を伺っていたけれど、先生はそのまま下を向いて言葉を繰り返すのをやめなかった。「駄目だ」「やめろ」と繰り返しながら、どんどん背中を丸めていく。
 今この状態の先生に、近寄ったり、触れたりするのが、正直とても怖かった。そんなことをすれば、再び激昂して、殴りかかってくるのではないかと思った。
 僕は、まずは先生と視線の高さを合わせるため、玄関先に膝を着いた。
「先生」
僕が呼びかけても、先生は気付かない。
「先生、坂元です。只今、帰りました」
少し大きめの声で、そう言ってみた。
 先生は、今度こそ気付いてくれたようだ。耳から手を離し、僕の姿を見た。
「入ってもいいですか?」
「……もちろん」
「良かった……ありがとうございます」
返ってきたのは、あの恐ろしい声ではなく、松尾くんを殴ったことを悔やんでいた時のような、落ち込んだ様子の小さな声だった。顔つきや姿勢からも、殺意や攻撃性は感じない。
 僕は家の中に入り、鍵を閉めた。
「すまない……馬鹿げた事を、訊いてもいいかい?」
「はい。どうぞ」
「私は、君に危害を加えてしまっただろうか……?」
「いいえ。僕は、何もされていません」
「本当にそうかい?」
(ああいう状態の時は、記憶に残らないのか……?)
「先生は、ドアを開けるなり、座り込んでしまわれましたよ。同じ言葉を何度も繰り返して……意識が飛んでいるようでした」
僕との攻防のことなんて、忘れてもらったほうがいい。ご本人が思い出せないのなら、知らせる必要は無い。
「そうかなぁ……。
 なんだか、私は、君に罵声を浴びせて、外に蹴り飛ばしてしまったような気がしているんだ……」
少なくとも、蹴られてはいない。
「きっと、意識がはっきりしない状態で、そういう幻覚を見たんですよ。僕は、蹴られてなどいません」
「それなら、良いのだけれども……」
僕が靴を脱いで玄関に上がる間、先生はずっと同じ所に座ったまま、ため息をついたり、頭を触りながら「駄目だなぁ……」と呟いたりして、一人の世界に入り込んでいるようだった。
「先生。今日も、ゆっくり休んでいてください」
「そうだなぁ……」
僕は洗面所へ手を洗いに行き、先生は2階に上がっていった。

 その日、先生が再び【報復】について口にすることは無かった。

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 僕の、ろくでもない人生に【意義】を与えてくれたのは、この先生である。
 僕は、この体に生命がある限り、何度でも、先生を禍々しい深淵から引き戻してみせる。


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【32. 「過去形」にする】
https://note.com/mokkei4486/n/n94e2e51f726f

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