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小説 「僕と先生の話」 16

16.出張

 先生が現場まで部長に会いに行ってから、数日が経った。とはいえ、僕には特に何も知らされず、先生も自宅での執筆を再開し、かつての日常が戻ってきた。

 僕がこの家に滞在する時間は長くなってきたけれど、朝一と、食事の時と、帰る時くらいにしか、先生と顔を合わせることはない。


 それでも、たまには資料室で出くわすことがあった。そんな時、僕は、意識的に先生に声をかけるようにしていた。
 仕事を再開したことで先生の身に異変が起きないか、気がかりだった。

 ある時、僕は、絵本の奥付の「著者」の下に小さく載っている「発行者」とは誰なのか、先生に訊いてみた。
 先生は「その書籍を発行する上での責任者のことだから、大抵は、出版社の社長の名前が載るよ」と言っていた。編集長の名前が載っている場合もあるという。

 先生は、他にも、いくつか書籍に関する豆知識を授けてくれた。


 しかし、その日、先生が冷静だったのは午前中だけで、午後になると「どうも集中できない」と言って、自宅の中を歩き回ったり、先日もらってきた古新聞を編んでカゴか何かを作ろうとしてやめたり、一人でふらっと散歩に行ったりして、ずっと落ち着かない様子だった。

 長い散歩から戻ってきた先生は、いつの間にか有料となったホームセンターのレジ袋を提げていた。透明な袋の中身は、食器用洗剤やゴム手袋、スポンジ等の掃除用具である。
「坂元くん、頼みがあるんだ……」
「何ですか?」
「追加報酬を出すから、近いうちに、弟の家の掃除を、手伝ってもらいたい」
「わかりました」


 後日、先生と共に善治の家に向かった。掃除用具を持参する必要があったけれど「停める場所が無いから」として、車は使わず電車に乗って行った。
 善治が好き好んで住んでいる場所は、とても家賃が安いことで知られている地域であり、あまり治安が良くないという噂を聞いたことがある。僕だって決して金持ちではないけれど、この近辺に住もうとは思わない。
 先生も「明るいうちに帰ろう」と言っていた。(この先生なら、痴漢やチンピラなんて簡単に返り討ちに出来そうだけれど。)

 彼が住んでいる建物は、アパートというよりは雑居ビルみたいな外観で、1階が中華料理屋だった。店舗の入り口の横にひっそりとある、上階へと続く階段の下には、住人宅の郵便受けが並んでいるけれど、外国人らしい苗字が目立つ。ほとんどが中国語のような気がした。僕には読めない言語と英語が併記されている表札もある。
 僕なら絶対に選ばない物件だけれど、彼は台湾に住み着こうとしていたくらいの人だから、不自然なことではない気がする。

 彼が住んでいる階まで上がる。本人は、出勤日だから不在だという。
「男やもめに何とやら、だよ……」
合鍵で玄関を開けながら、先生が苦々しい顔をするから、蛆でもわいているのかとヒヤヒヤしたけれど、中はそれほど汚くはなかった。
 強いて言えば、床にはぐしゃぐしゃの衣類が散乱しているし、所構わず やけに たくさんのペットボトルが散らばっているけれど、ちゃんとした「人の住居」だ。寝床にカビは生えていないし、流しに洗い物が溜まっているわけでもない。ゴミが腐っているような臭いもしない。
 うつの症状が酷かった頃の僕の住処に比べれば、綺麗なものだ。

 先生は「ろくでもない臭い」と表現していたけれど、確かに、個人の住宅なのに「現場の匂い」がする。機械油と、煙草と、鉄錆と……ダンボールやガムテープの匂いとか、犬を飼っている同僚が持ち込んだ獣臭とか、埃やカビの臭い、コーヒーの匂いも混じっている。家主が日々持ち帰る作業着や鞄に染みついているのだろう。
 僕は、同じ現場に居た人間だから、むしろ懐かしい気持ちになる。しかし、画材の匂いに慣れ親しんでいる先生からすれば、異臭なのだろう。残念だ。
 掃除をしに来たわけだから、とりあえず部屋の奥にある窓を開けると、1階の店舗の排気口から出ているのであろう、強烈な豚の脂の匂いがした。
 「ろくでもない臭い」というのは、おそらく これだ。
 僕は、窓を閉めて、全ての換気扇を回すだけにした。意外に大きな音がした。
 
 手始めに、散乱しているペットボトルをかき集めて、ラベルを剥がして洗う。
 その間に、先生が衣類を拾い集めて洗濯を始める。室内に干しっぱなしになっている物は、もちろん回収して、畳んで、きちんと片付ける。食卓は、綺麗に拭いてから、持参した消毒液とキッチンペーパーで、磨き上げるように消毒する。
 洗ったペットボトルを乾かせるような場所は無いので、とりあえず、それらを放置して風呂場を徹底的に掃除する。
 綺麗になった浴槽内に、きちんと洗って水を切ったペットボトルを、とりあえず放り込む。潰していないから、すぐ いっぱいになる。
 僕が浴室と流し台を行き来している間に、先生は「プロ級の掃除を魅せてやるよ」と ささやかに宣言してから、持参した洗剤を使って手早くトイレ掃除を済ませ、この家にあった室内用のほうきと塵取りで、浴室以外の全ての床を掃除して、食卓と同じ方法で床を磨き上げていく。多量の紙ごみが出るけれど、拭いた場所は一瞬で驚くほど綺麗になる。
 動きとクオリティーが、まさにプロ級である。ほとんど全ての家具と床を、掃除しては消毒していく先生は「大抵の汚れは、7エタで落ちるんだよ」と言う。(7エタというのは、濃度を70%に調整したエタノールのことである。)
 僕がペットボトルを撤去した後の風呂場でも、浴槽や床が あらかた乾いているのを確認してから、躊躇なく大量に7エタをかけていた。(それで、カビが防げるのだという。)
 まるで、住宅ではなく実験室の掃除だ。
 僕は、玄関で靴を履いて、ひたすらペットボトルを踏み潰して袋に入れながら、先生の仕事ぶりを眺めていた。とにかく仕事が速くて、仕上がりが綺麗なだけではなくて、道具の取り扱い方や先生自身の動線に、明確な意味と理由があるのが、よく解る。
 僕なんか居なくても、先生は一人で全てを成し遂げられただろう。

 廃棄すべきものは全て袋に入れて口を縛り、家中をぴかぴかにした後で、先生が「疲れた!」と言って、せっかく綺麗にしたベッドに、汚れた作業着で寝転がってしまったことは、家主には内緒である。
 先生も、すぐに起き上がって床に座り直していた。
 僕は、綺麗にしたばかりの台所でしっかりと手を洗って、お茶でも煎れようかと思ったけれど、どこを探しても茶葉が見つからない。先生は「水でいい」と言うけれど、水道水をお出しするのも気が引ける。
 できれば開けたくはなかった冷蔵庫には、大量の酒と牛乳と野菜ジュースがストックしてあった。飲料と調味料ばかりが並び、食品は、生卵以外は何も入っていない。
 実姉である先生から許可をもらったので、2人で野菜ジュースを頂いてしまうことにした。

 彼にとって、ここが「飯を食って寝るだけの場所」なのが、よく解る。
 台所の様子からも伝わるけれど、片付けてみると、とにかく、物が少ないのだ。ひとつしかないクローゼットの中に、ほとんど全ての衣類や鞄が収まる。
 部屋の隅に小さめの黒い本棚があって、その上にテレビが置かれているけれど、録画やDVD等の再生が出来そうな機材が無い。パソコンも、ゲーム機も見当たらない。
 本棚には、ぼろぼろになるまで読み込んである物づくり関連の書籍や、中国語や手話のテキスト、漫画本も含めた仏教に関する書籍が、たくさん並んでいる。内容までは分からないけれど、使い込まれた感じの大学ノートも、たくさん押し込められている。
 必要不可欠なものだけがそこにあって、趣味や娯楽に関するものは、何もない気がした。

 彼に会っておきたかったけれど、先生が「帰りたい」と言うのなら、僕は帰らなければならない。彼の帰りが遅いことは、判りきっている。
 帰り道、気が済むまで運動が出来たからか、先生は上機嫌だった。


次のエピソード
【17. もうひとつのアトリエ】
https://note.com/mokkei4486/n/nc309a53289a7


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